異母兄弟パロ 弐

 赤い夕焼けが空を染め、薄く白く浮かぶ月が輝かしかった太陽と入れ替わりを始める頃、縁側に軽い足取りで進む子どもの影が長く伸びる。この時間帯の子どもは少々元気が良すぎて、幾人かの屋敷の者たちは苦笑を零すのだが、子どもはお構いなしに今日も溌剌とした声と共に気持ち良く障子を開けた。

「みんなー! おきるじかんだよ~!」

 障子の向こうには広い座敷と綺麗に並べられた白い敷布団、それと所々に散らかった掛け布団の数々に小さい数多の妖怪たち。大きな子どもの声にもぞもぞと起き出す者もちらほらいたが、大半が未だぐっすりと眠る者ばかりで、おきてよー! と小さな子ども――リクオは近くで眠る小妖怪を揺さぶった。
 幾度か激しくぐらぐらと前後すれば、ようやくその揺さぶりに小妖怪が目を擦って起きようとする。それにリクオはにっこりと笑って、おはようと言った。そうして次々と他の眠ったままの妖怪たちを起こしに掛かるのは、リクオの毎夕の役目であった。昼間大して遊ぶ人間の友だちがいないせいか、相手をしてくれる小妖怪の起き出す夕暮れ時、リクオは側近たちの許しもとい頼まれた上で彼らを起こしに掛かっているのだ。そして起こした小妖怪たちと一緒に庭で遊ぶ。それがリクオのいつもの夕暮れ時の日課だった。

「おはようございます、リクオさまー……今日は何して遊ばれます?」

 くわり、と欠伸をしながら問い掛けてきた小妖怪にいつもなら目を輝かせて、えっとね! と幾つかの提案を上げるリクオであるのだが、今日は少し答えが違った。今日は稀にある特別な日で、まだ起こしに行かなくてはならない妖怪が一人残っているのだ。んーとね、とリクオは躊躇った。……それに小妖怪は何かを読み取ったのか、先に若のところですかー? と尋ねる。それにそう、それっ! とリクオは目を輝かせて花が綻ぶように笑った。

「わかのところにいってくるから、またあとでね!」

 来た時と同じく、元気に出ていこうとして、あ、でも、と思い出したように振り向く。どうしたんですかー、リクオさまー? そう首を傾げる小妖怪たちに、ちゃんとおふとん、かたづけないと、くびなしにおこられるからね! と言い残すリクオに、笑い声を伴ってはーいと手を上げる姿を最後、リクオはとことこと駆け足気味に部屋を後にした。

 夕陽で長くなった自分の影を踏みながら、やっぱりみんなヘンだなぁ、とリクオは呟く。どうして彼の事をみんな『若』と呼ぶのだろう。彼にもちゃんと自分と同じ『リクオ』という名前があるのに。みんなの口からその名前を聞いたことが無い。その名前を言う時は必ず自分のことを指しているのだ。決して彼のことじゃない。
 それは誰かが言ったわけではなかったが会話の中でリクオが気付いた一つの事柄だった。みんな彼を『リクオ』とは呼ばない。もしかしたら自分と同じ名前だから自分が混乱しなくても良いようにみんなが気を使ってくれているのかもしれない。……でも他の所で自分がいなくても若と呼んでいる声を聞いたことがあるから、みんなも混乱しないように区別しているのだろうか。

 そもそも『若』とは何なのだろう。リクオにはそれが分からなかった。若というのは名前なのだろうか。母の名前から取ったのだろうか。ただそれなら、彼の名前だけじゃなく、自分の名前も変えるべきだとリクオは思うのだ。それこそ二人の間で決めた『昼』と『夜』というように……。そうじゃないと不公平だと言うのだとこの前、黒田坊に教えてもらったばかりだ。もっとも夜はそういうリクオの意見に、オレは構わないと取りつく島も無いけれど。

 そんなしょうもないことを考えていればすぐに夜の部屋に辿り着く。……とは言ってもリクオと同じ部屋だ。一緒の部屋にしてもらうのに一悶着あったのはリクオにとって永遠の謎だ。兄弟と言うのは基本的に同じ部屋になるものではないのだろうかなどの問いは云々、単にリクオが一緒に居たかっただけだ。お兄ちゃんという存在はそれくらいリクオにとって嬉しいものなのだ。そんな兄であり妖怪である夜は来たばかりもそうだったが、最近になってはより一層、夜中出掛けることが多いらしく昼間は泥のようにぐっすりと眠っている。今日は朝から夜本人に、夕方になったら起こすよう頼まれていたがそんな兄の姿を見れば起こすのは少々躊躇われ、けれども起こさないわけにはいかないので、考えに考えた結果、起こす順番を最後の最後にしたのだ。

「……よる?」

 障子を開けて覗き込んで小妖怪の時とは違い、そっと囁くように声を掛けるが夜は目を覚まさない。きっととても疲れているのだと幼心にそう思ったが、起こさなければ最終的には夜が首無に怒られてしまうので、それだけは避けなければいけない。
 リクオは部屋の中へそっと体を滑り込ませ、夜、おきて、と兄の頬に触れる。夜は屋敷にいる妖怪たちの中でもとびっきり綺麗な顔をしている。そしてその目は屋敷の者が誰一人持つことのない綺麗な綺麗な紅い色だ。おきて、ともう一度だけ言ってみると、銀の睫毛がふるりと震えて何度か瞬いた後、その紅い目はぼんやりとリクオの姿を映し出した。

「……おはよう、夜。もうおきるじかんだよ…?」

 その言葉に、あぁ、と疲れたような声音で返す夜が心配だったが、リクオはそれよりも思い出したようにむくりと擡げた疑問の方が気になった。夜の目はそれはそれは見事な紅い目だ。だったら夜の見る世界はいつも、今の時間帯のように夕陽に染まった世界と同じように見えているのだろうか。そうならば羨ましい限りだ、と思う。いつも楽しい夕暮れ時の色が見えるなんて。ねぇ、とリクオは夜に問い掛けた。

「夜のおめめは、あかいから全部あかく見えるの?」

 思った事を口にしただけだった。それでも夜は何を思ったのか一瞬息を呑んだように黙り込んで、それから誤魔化すように苦く笑ってそっとリクオの頭を撫でた。いつもより体温が低くてひんやりとしている手だった。それでも、莫迦だねぇ、と言う声は普段通り温かい。

「……そういうお前は大地に蜜落としたみたいな色じゃねぇか。お前の世界はそんな色に見えるのかい?」
「あ、……そっか! そうだよね、夜も僕もおんなじ色に見えるにきまってるよね!」

 そっか、そっか、と納得した声は違うのかという残念さと、同じなのかという喜びを一緒くたにした色なのに夜は眩しそうにこちらを見ていて、リクオはゆるりと首を傾げる。どうかしたの? そう開こうとした口は外から呼ばれた首無の声に萎んでしまった。

「――若、起きておられますか?」
「………あぁ、」
「それは結構。今宵は日が落ちたらすぐに出入りの予定ですので早急に支度の程、宜しくお願いします」

 それだけ言って、首無は去っていった。……どうやら内にいるリクオの存在には気付いていなかったようだった。いつもの首無からは考えられない程、妙に冷たくて硬い声色でリクオには変な気がした。リクオが前にいるときの首無はそれはそれは優しくて柔らかい声音だというのに。それに夜も変だった。少し前の笑った顔が嘘みたいに消えて、代わりに眉を寄せた難しい顔になっている。夜のことになるとみんな変になる。みんな可笑しなことを言ったり、したりする。そしてそれは夜も例外ではなかった。

「……昼、聞いただろ。オレはこれから出掛ける用意をしなくちゃならない」

 だから、とその続きを夜に紡がれる前にリクオはふと思い出したように、そうだ! と声を上げた。そういえば、おこしたみんなと庭で遊ぶやくそくしてたんだ! とさも忘れていたかのように言えば、夜はほっとしたような顔をする。出掛けなければならないと分かると夜はリクオを部屋から追い出そうとする。もちろん遠回しに婉曲に婉曲を重ねて優しくそう諭されるのだけど結果的には変わらない。夜は出掛ける時の自分の姿を見られたくないのだ。隠されると気になるのが子どもの性分なのだが、何でも許してくれる夜が唯一遠回しとは言え自分から遠ざけることを無理に暴きたいとはさすがに思えなかった。それよりも我が侭を言って夜に嫌われる方がリクオにとってはずっと嫌なことだった。……だから文句も疑問も口にせず部屋を出る。良い子にしていればまた、自分と遊んでくれる日が来るから。だから、そのことだけを信じてリクオは外に出る。

 

 

 気を遣って出て行った昼の足音が完全に聞こえなくなる頃、ようやく夜は息を吐いた。子どもは他の者が思っているよりずっとずっと敏感で、聡くて、優しくて、温かくて、それ故に時に怖ろしい程、残酷だ。

『夜のおめめは、あかいから全部あかく見えるの?』

 それは子どものなんとなしの質問で、幼い子が自分と違う色の瞳を見かければ一度は問うだろうあどけない問いだった。けれども、一瞬息を呑んでひやりとした感覚をやり過ごしたのは、きっとあの子どもの見えないところで己の手をあの子どもには言えない色に染めているからだ。子どもの言う紅い色。確かに己の世界はその色に相応しい世界であって、何も知らないはずの子どもに気付かれたのかと思った。そんなはず無いのに当たらずも遠からずな言葉が少しだけキリキリと胸を痛くした。

『そういうお前は大地に蜜落としたみたいな色じゃねぇか。お前の世界はそんな色に見えるのかい?』

 そう誤魔化して返した、真実に近くも程遠い言葉にあまりにもそっか、そっか、と嬉しそうに子どもが笑うから、つい眩しいものを見るように目を細めてしまった。その心で、お前はある意味何も間違ってはいないさ、と小さく呟きながら。
 自分は昼の言う通り、この目の色と同じ紅い血のまみれる世界に生きている。そして昼は、あの子どもはその目の色と同じ光の注ぐ大地に生きている。喩えその目には同じ形の世界を映していても、きっとそれを染める色は全く異なっているに違いない。

 布団の下に手を入れる。すぐに硬い感触が指先に触れ、そのまますっと取り出したのは祢々切丸と呼ばれる長ドスにして妖刀だ。幾百もの血を吸いこんだであろう刀に思わず嘲笑が洩れた。本当に、自分の世界は紅いもので構築された世界なのだな、と諦めにも似たその色で。