鴆と夜

 例えば恋の病と言うだろう? 名に『病』と付きながら本人はさておき、余程のことが無い限りそれは大したことないのが現状だ。それと同じ、一見大事そうに見えてそれほど悪いわけではない、要は気持ちの持ちよう、考え方次第、下手に手出ししなければいずれ時が解決してくれるそんな事。そう言って鴆だけは呼ばないよう用心に用心を重ねて言葉一つ、身振り一つ、事を大きくしないために心を砕いたというのにそれは全て心優しい過保護な側近たちに水の泡にされてしまったのだ。……このやり場の無い怒りをどうしてくれようか。もちろん慌てて来やがった、腕だけは確かな薬師に八つ当たりしてやるのだ。リクオォォォ!! と傍迷惑且つキンと頭に響いて痛くなる大声と共に、実に気持ち良くスパーンと開け放たれた障子に目を向けてリクオは横になっていた布団から起き出し溜息を吐いた。一体今、何時だと思っている、深夜だぞ深夜、妖怪共が活動している時間ではあるが、人間は眠りの底なのだ。おふくろが起きたらどうする。そんな風に何万と浮かんだ罵詈雑言を喉の奥で呑み込んだのは、鴆のぴりぴりとした怒気が知らずとして伝わったからだ。

「……頼むから障子は静かに閉めてくれ」
「一体、どういうことだ、リクオ」

 さすがに、頑として自分を呼ばない名誉も誇りも無視してくれた病人相手とは言え、悪いと思ったのか鴆はかたりと静かに障子を閉めた。けれどもその顔は不機嫌と苛立ちの色に染まりきっており、それなりの居心地の悪さを抱かせる。だから呼ぶなと言ったのに。主な理由は他にあるものの、これも鴆を呼びたくなかった立派な理由の一つだ。心配されるのはそれなりに悪くないものだが、極端な心配……特に、組の抗争、対立ではなく怪我や病と言った類では必要以上に心配する鴆の思いは重いし、ほとんどが自分の責任だと分かっている分、居心地が悪くてしょうがないのだ。なぜそんなことに頭を突っ込んだんだ、そう叱りを受けることは火を見るより明らかなのである。

「もう一度聞くぞ、リクオ。妖怪助けしたとか何とか言って誤魔化そうとしているが、実は立つことさえままならないくらい弱っちまってる理由は何だ」

 リクオは内心舌を巻く。細心の注意を払って普段通りの態度を取ったというのに、側近たちのなんという観察力……いや、単に自分の演技がそれほどまでに上手くなかったのか、どちらでも良い、大事なのはその情報が伝わってしまった今、鴆がいらぬ推測と心配をしていないかだ。毒だの呪いだのそんな馬鹿な妄想をしていなければ良いのだが。そんな憂鬱なリクオの考えなど知らず、鴆はじっとこちらから視線を逸らさない。その目は既に薬師のものだ。こちらは遊びじゃない、仕事で来てんだ、と無言で言い放つその目にとうとうリクオは折れて口を開く。

「……言っとくが、毒でも呪いでもない。怪しい薬でもないし怪我を負っているわけでもない」
「それは後でオレが判断する。リクオ、オレは今、何が原因でそんな状態になったのかを聞いているんだ。病状じゃない」
「……お前に言う程のものじゃない。時間が経てば治る」

 嘘は言ってない、大事にする程でもない。しかし鴆は何を思ってか、きつく眉根を寄せた後、無言のままに手を伸ばす。何、と首を傾げる傍、適当に合わせただけの衿をなぜかぐいっと両手で掴んだと思えば、問答無用に左右に広げ。露わになった胸の一部にほっと息を吐いたのも束の間、次は帯に手を出し黙々と手際良く抜き取る鴆に、暴れ出すどころか実際、声を出すのも億劫だったリクオはなかなか上手い具合に抵抗出来ない。やめろ、とようやく声を上げるが鴆は動かす手を止めず、それどころかより一層もがく手足を強い力で抑え込む。

「…っ…ぜ、ん…、いい、加減にっ!!」
「理由を話さないなら、こちらで勝手に調べさせてもらう」

 本当に怪我がないのか、なにかの痕跡はないのか――それこそ体の隅々、爪の先まで。その言葉に羞恥と怒りが込み上げる。放っておけば良いと自分は言った、毒でも呪いでも何でもないとも言った。なのにこの男はそれを聞かずして尚、疑って調べると言い放つ。日頃から大きな怪我でも病でも心配を掛けたくない一心で黙っている自分が悪いのは分かっていた。だから自分の言が病や怪我の場合においてだけ信用されないのは当然でもある。それでも疲弊したように重くだるいこの体を抱えて、自分の言葉を聞いてもらえず、あまつさえ無理やり体を暴かれようとしている現状に腹が立った。

「いい、加減に、しろ…鴆っ……! オレはっ、お前には、治せないと言ってるんだ…っ!!」

 ぴたり、と鴆が止まる。その顔は無表情のまま固まっていて、目だけ零れ落ちるのではないのかと言うほど見開いていた。それを見て、自分は今日一番言ってはならないことを言ってしまったのだということに気付く――……すなわち鴆を呼び寄せたくなかった最もたる理由を。
 鴆の誇りを疵つけたくはない。だから喩え鴆の意向を無視した形になることとなっても呼ぶことだけはしたくなかった。だというのに……。はぁ、と溜息を零す。もういい、ここまで言ってしまった以上隠し通すことは出来ない。否、このまま隠し通せば事実以上に面倒な事態と成り得る。

「……帰り道に、女がいてな」

 着物を握ったままの鴆の指を一本一本解きながら話す。苦しくてしょうがない、としゃがみ込む女がいた。人間ではないことはすぐに分かったし、なにより女は鴆の、お前の屋敷に向かっているところだと言ったんだ。ならば己の屋敷で休んで、鴆を呼び寄せれば良いと昼の姿の自分は言った。鴆の屋敷には遠いが運良く自分の家には程近い所であったからだ。けれども女は必死に首を横に振ってそれは出来ないと言ったのだ。今すぐにでも鴆様に会わなくてはならないと言い募る。顔を真っ青にしながらだ。急患なのかと思ったが別段血が流れている訳でもないし、怪我をしているようでもなかったから何かの病か何かだと思った。それなら多少、妖力を分けてやれば力も回復するだろうと考え付いて……それが結局、仇になった訳だが。

「後から聞いたら血血木って言うじゃねぇか、その女」
「……は、じゃあ…まさか、これはあいつが!?」
「ちょうど夕暮れ時だったからこっちの姿になった瞬間に襲って来やがってよ……まぁ、話し合いの結果、ごくごく普通に妖力分けてやったんだが」

 あいつ、すぐに妖力失ってそれでお前のとこに薬貰いに行くって言うから、なんならしばらく行かないで良いようにと多めに分けてやったらこの様だ。失ったのは妖力だけだから、時間が経てばいずれ戻るし、鴆を呼びたくなかったのはそれが分かっていたからだ。

「じゃあ、さっさとそれを素直に言えば良いだけだろ!」
「だから、それはお前が…っ…!!」

 しまった、というようにすぐに手で口を塞ぐが後の祭り、鴆が怪訝な顔をしてオレが何だと問い詰めてくる。事実を述べると心に決めたがここまで話そうとは思っていてなかった。どう誤魔化すかと考えを巡らすが良い案が出る前に鴆がなんとなく気付いてしまった。

「……そういや、オレに治せない、と言ったな。……確かにその通りかもしれねぇな。オレはお前に妖力を分けてはやれない」

 分けてやれたとしてもお前にとっちゃ雀の涙ほどにしかならねぇだろうよ。そう鴆は息を吐く。それだけリクオの妖力は強大であり、鴆の妖力は脆弱なのだ。リクオが鴆に妖力を分け与えられることは出来ても、鴆がリクオに妖力を分け与えることは最悪、死さえ意味することとなる。これだけに関しては薬師であれ鴆には手出しが出来ない。精々妖力の回復を促す薬を与えるくらいだ。それは鴆としても、妖怪としても、義兄弟としても微々たる力、きっと誇りを疵ける。だから嫌だと言ったのに。

「……悪かった、リクオ。体がきつい時に押し掛けちまって」
「全くだ……そんで鴆。お前はそんな阿呆面晒して帰んのかい?」
「あぁ……まぁ、オレに出来ることは無い、らしいから、な」

 乱した着物を丁寧に戻しながら鴆は肩を落として言う。普段、傍若無人並みに態度のでかい奴がここまで大人しい姿となるとなんだか哀れみを通り越して少し気持ち悪い。大体原因は自分が妖力を与え過ぎたせいなのであるが、元を正せばギリギリまで血血木の症状を悪化させた薬師のせいではないだろうか。
 なのに一人勝手に疑って落ち込んで、人を振りまわして。そう思うとだんだん腹ただしくなってきた。帰るなら全ての義務と謝罪の精神を全身全霊掛けて返してからにしやがれ、と言うものなのだ。

「何、莫迦を抜かしてやがる、鴆よ。てめぇは薬師じゃねぇのかい? だったら、さっさと妖力戻る薬を作るってのが筋ってもんだろうが」

 まず一つ、薬師としての仕事を与えてやろう。薬壺でもカエルの番頭でも好きなだけ呼ぶがいい。こちとら一刻も早くこのだるさから解放されたいのだ。

「それとお前は今夜、寝ずの番だ。妙な噂聞きつけた厄介共が押し寄せてきたら面倒だからな」

 二つ目に妖怪として、その力を期待しようではないか。そ心身を思いのまま休ませるのに、毒羽の畏れほど心強い守りは無いのだから。

「最後に義兄弟よ……義弟が寝込んでんだ。見捨てるなんてそんな情のねぇ事はするもんじゃあねぇなぁ?」

 義兄として傍にいろ、と暗に告げれば、始め目を丸くした鴆は苦笑を洩らしぽんぽんと頭を撫でる。まるで、ちっせぇガキの頃のまんまじゃねぇかと言ったその仕草に子ども扱いするなと文句を言いそうになったが止めた。……弱っている時の頭はなかなかに他人を恋しく思いたがるものだ。程よい心配と心遣いはどこか安心できて心地良い。重い体に身を任せ、そう言えば……とふと思う。昼の姿ではない自分は相手が妖怪であろうとそこまでお人好しではない。それは鴆も知っている。それでも自分の妖力ギリギリまでを与えたその理由を問うことはなかった。それが不思議で気になった。それは単に聞き流しただけなのか、はたまた胸に思うものでもあったのか。どちらにしろリクオから訊けない疑問であることは確かだった。聞けば必ず答えを求められる。答えなんぞ……数刻とは言え、患者に――血血木に義兄を取られたくないと思ったなど、また子ども扱いされるに違いないだろうから。