邪魅昼【脛:服従】

「――邪魅?」

 濡れ縁から青々と生い茂る桜の木を立ってじっと眺める男にリクオは声を掛ける。すっ、と音も無く振り向いた男の顔にはたくさんの護符が貼り付いているが、リクオは構わずにっこりと笑い、食べない? と手にしていた盆を掲げた。盆の上には水羊羹と緑茶が二つずつ。邪魅と一緒に食べようと持ってきたものだった。

「美味しいよ。一緒に食べよう? あ、でもその前に、何見てたの、さっき?」

 先程、邪魅がしていたように同じく桜の木を見上げる。この時期の日差しはギラギラとして強いものの、今の時間帯になると上手い具合によく茂った桜の枝葉の影が縁側まで伸びて心地よい木陰を作っており、この辺りは縁側であろうとなかなかに涼しく過ごしやすい。思い当たるのはそれくらいで、それでもそんなに珍しいものも見当たらずリクオはうーんと首を傾げた。

「……立派な桜の木だな、と思いまして」
「あぁ、そっか。他では結構珍しいんだっけ」

 他では樹齢何百年ともあろう大木はそうそうお目に掛かれない故、見慣れぬ者にとってはなかなかに圧倒される代物なのであろう。リクオとしてみれば、生まれた時から見ている分、特に感慨深いわけでもない。そうか、すごいのか、と思う程度。へぇ、と相槌を打つリクオの邪魅はそれもありますが、と言ってもう一度桜の木を見上げた。

「……あの方の、定盛様のところにもこのように立派な桜の木がありましたから、」

 つい懐かしく思ったのです、としみじみと呟く邪魅にリクオはそっか、と微笑を返した。昨夜、とある事件からこの男と七分三分の盃を交わした。経緯はさておき、邪魅のこのように忠誠の厚いところが気に入ったからである。それは夜のもう一人の自分がやったことではあるが、昼のリクオも邪魅と言う男をとても好ましい者だと思っていた。今日もそんな邪魅ともっと話がしたい、もっと彼のことを知りたいと思い、茶菓子を用意した次第なのである。ところが、そんな邪魅と言えばはっ、と思い返したように急に慌て、かと思えば申し訳無い、という言葉を口にした。

「……今は、あなたが主であるというのに、余計なことを…」
「ふふ、余計じゃないよ。むしろもっと教えて欲しいくらいだ」

 君の大切だったものも、今の君を形作ったものも、いろんな君を知りたいんだよ。くすり、と笑って、邪魅って変なとこで律儀だよね~と言いながら、リクオは濡れ縁へと腰掛けた。昨夜、陽が昇って昼の姿に戻った時に、邪魅が一番に言った言葉を思い出す。あの時、邪魅が発した言葉は驚きのものでも、疑念のものでもなく、『あなたとも盃を交わした方が良いのだろうか?』という一言であり、律儀だなぁ、と思うと同時にとても嬉しくなったものだ。

「相変わらず、不思議な方だ。盃を交わしてないからそう言われるのか?」
「それは違うよ、邪魅。盃を交わさなかったのは、もう既に夜の時に交わしたからって言ったでしょ?」
「では何故?」
「うーん、君のことが知りたいっていうのは変かなぁ? 僕らはただ大人しく従う乾分が欲しいんじゃなくて、君が欲しかったから、だから君のことが知りたいって思ったんだけど」

 だからさ、話をしようよ。君のこと、たくさん話してよ。にこりと笑みを浮かべそう言うリクオに、邪魅は、はて、と不思議そうに首を傾げた。

「……僕『ら』?」
「あ……」

 不味い、と。うっかり気を抜いていたせいで口が滑ってしまったと、リクオは焦るも、一度言葉にしてしまったものはどうしようもない。ちらりと邪魅を盗み見るが、どうにも聞き流してくれそうにもなく、リクオは密かに胸の内で溜息を吐くと、無理に信じてくれなくても良いからね? と先に釘を刺して説明した。

「――…僕たちは体は一つなんだけど、精神が二つに分かれてるんだ。昼間の人間のリクオと、夜の妖怪のリクオって感じに」

 一つの体に二つの精神が共存していると思ってくれて良いよ。あぁ、でも記憶は共有しているから、そう食い違いや不都合があるわけでもないし、知ってるのもほんの少数、理解出来ないひとは理解出来ないひとなりに夜と昼の姿を合わせた一個体として認めてくれてるし。まぁ、大体のひとが後者の感じだからさ、とリクオははにかんで言った。

「君が、昼間の僕に、人間の僕に盃を交わさなくて良いのかって聞いてくれた時は正直、本当に嬉しかった。何にも知らないはずなのに、ちゃんと今の僕も認めてくれたみたいだったから」

 あ、だからって無理に理解しようとしなくても良いんだからね? ただ、僕が伝えておきたかっただけで。そう訂正するように続けるリクオに、しばらく黙り込んだ邪魅はならば、と呟いた。

「……やはり」
「ん? 邪魅?」
「……やはり、別であるのならば、それなりの示しを付けなければ」

 ……ここまで話してくださっても、どうやらあなたは盃を交わしては頂けないようなので。そう言うと邪魅は濡れ縁を降り、リクオの前で跪いた。驚いたのはリクオである。なに、どうしたの、邪魅!? と声を上げるも邪魅は顔を上げることなく、それどころかリクオの足を掬い取り、するりとその指を滑らせた。

「え、ちょっ……邪っ…!?」
「御静かに」

 着物の裾を割り、晒される素足。その脛のところに、ふわりと、吐息の掠める感覚。ぴくりと肩を跳ねさせるも束の間、次の瞬間にはしっとりと柔らかいものが押し付けられる感触がした。

「……喩えあなたが昼の姿であろうと、人間の姿であろうと、主は主。変わり無い。私はあなたに付いて行きます」
「ッッ……、あ、ありがとう…ただ、さ…こ、こ、こういうの…なんだっけ、えぇっと…いいや、その、君、昔もそんなことしてたの…!?」
「……さて?」

 惚けたように小首を傾げるその姿に、護符で表情は見えずとも邪魅が唇を弧にして笑っているのが何故かはっきりとリクオには分かるのだった。気に入り、屋敷へと連れ帰った新たな妖は、もしかしたら案外食えない者なのかもしれない。