雪珱【指先:賞賛】

「……つう、」

 小さな声と共にぴく、と肩を跳ねさせた珱姫に雪麗はまたかと呆れ顔をした。場所は奴良家の台所、女共は夕食の用意の真っ只中……そこに嫁いで来たばかりの珱姫も加わっていた。いつかはやらねばならぬこと、ついでに本人もやる気なのだからと教育係として(何の嫌がらせか)総大将直々に指名された雪麗は、珱姫を調理場へと連れて行ったのだが……結果はこの通り、はぁと溜め息を吐くしかなかった。それもそうだ、つい先日まで彼女は貴族の娘よろしく籠の中の鳥で何分、台所に立つことなど初めて、当然料理などしたこともない寸分違わぬお姫様だったのだから。それでも奴良家に嫁いで来た。この事実はどうしようもない。過去がいかにお姫様であろうとも、ここでは通用しない、居るからにはきっちり働いてもらうのみ。それにしても、と雪麗は眉を寄せる。
 誰しも初めは拙いものだと分かっているが、見ていられない。試しに包丁を持たせたのが悪かったのだろうか、もしかしたら火焚きから始めさせた方が良かったのかもしれない。
 いやしかし、足りないのは火焚きなどではなく、調理する者なのだからこれで良いはず……そう無理やり己を納得させて珱姫の手元を覗き込んだ。思った通り、人差し指からたらりと伝う血。全く、どうやったらこうも食材と一緒に自分の指まで切ってしまうのか。自分でも情けないと思っているのか、珱姫と言えば伝う血をそのままにしょんぼりと肩を落としており、あぁもう、と雪麗は珱姫の手首を取った。

「……えっ……雪麗さん!?」

 ちょっと黙ってなさい、とねめつけて、問答無用に珱姫の指を口に含む。鉄っぽい苦い味。それをごくりと唾液ごと飲み込んで、ぺろりと傷口を舌先でなぞった。痛みのせいかびくりと震える。一度離せば、またじわりと血が滲み出て、今度は少し強く吸ってやる。ようやく血が止まったのを確認して唇を離すと、目の前には頬どころか耳まで真っ赤に染める珱姫がいた。

「……ちょっと」
「せっ、雪麗さんっ! な、な、何を……!!」
「……はぁ? 何って人間ってのはこうやって傷口治すんでしょ?」
「…し、、し、し、しませんよ…!」

 そんなこと言ったって、あんたさっきから切る度に口にくわえてたじゃない、と返したって、あれは自分だからで……っ! と言い張る珱姫に人間ってのは面倒くさいわね、と思った。血を止めるのが目的なら誰が止めようと大して変わりはないではないか。しかしあまりにも赤い顔をするので、これはと思って問い掛ける。

「……これくらい、ぬらりひょんに毎晩されてるでしょうに」
「……あ、妖様はそんなこと為さいません!」
「あら、意外とへたれなのね、ぬらりひょんって」

 ふぅん、と一つ頷いてもう一度指先の傷口に口付ける。きゃっ、と驚く初心な反応の珱姫に雪麗は、ふっと唇を弧にして良いこと教えてあげるわ、と艶めかしく笑ってみせた。

「今夜、ぬらりひょんが今私のしたことと同じことしなかったらさっさと捨て置くことね」
「え……?」
「妻を思いやれない旦那なんてこっちからお断りしてやれってことよ」

 とは言っても、未だよく分からないと言った顔で首を傾げる珱姫に、分かんないなら良いわよ、ほらさっさと続きやる、と次の仕事を促した。そうして文句も言わず慌てて手を動かし始める珱姫を少なくとも雪麗は悪くないと思う。少し前まで多くの人間の上に立ちながら憎らしい程に嫌みなところも無いし、下の仕事も器用ではなくとも健気に進んで行う。自分が同じ立場ならどうだろうか――それを考えれば十分賞賛する値だ。つまりこれまで敵視していた自分がそう思うくらいなのだから、その旦那であるぬらりひょんが感じ得なくてどうする、という話だ。まぁ、話は逸れたがさてと、と雪麗は腰に手を当てる。任せられた仕事を放棄する程、自分は無責任ではないし、喩え器用で無かろうともこの忙しいまかない所の戦力くらいには育ってもらわねばこちらも困るのだ。びしばしと鍛えるためにも、と雪麗は厭味ったらしく注意しようとすぅ、と息を吸うのだった。