鴆と赤子リクオの邂逅

 鴆は側近たちの目をすり抜けて呼びだした元主のところへと向かう。普段ならすぐに見つかりそうな場所でも、今日が今日であるがために本家の中はわらわらと人が溢れ、誰も彼もがあちらこちらへと行き急いでおり誰ひとりとして目もくれなかった。用心深く妖気を抑え、気配を消しているせいもあるが、何より『誰にも悟られずワシの部屋へ……』と元主――総大将直々の御達しが来ており細心の注意を払っていた。総大将の部屋は本家の最奥にあり、その寸前には総大将が赦した者しか入ることの出来ぬよう結界が張られている。そこは本家で最も安全な場所であり、ここまで来てなんだが実は何用で呼ばれたのか知らないため、鴆の体は知らず知らずのうちに緊張が走っていた。部屋の前で膝を着いて一呼吸。もう一呼吸。そしてさらにもう一呼吸置いてから総大将、鴆です、と声を掛ければ朗らかな笑い声が返ってくる。

「ようやっと参ったか、鴆」

 障子の影で既に分かっていたようで、早よう入るが良い、と入室の許可が出る。そっと静かに開けた僅かな隙間から体を滑り込ませ入ってまた障子を締める。ぴりり、と体全体に緊張が走った。再び深く礼を取ろうと頭を下げれば、それこそよいよい、と総大将は笑う。

「それより、もっとこちらへ来んか。そこじゃあ、よく見えぬだろうて」

 一体何のことかと頭を上げれば目の前に座る総大将の腕には白い着物に包まれた何かが大人しく抱かれていた。初めは何であろうか、と分からなかった鴆も、この家の騒々しさを思い出して答えを導くと同時に驚きと困惑で顔を雲らせた。

「しかし、………」
「妖気はさておき、羽を出してはおらぬのじゃ。何を怖れる必要がある?」

 さぁ、こちらへ、と呼び寄せる総大将の声に鴆は動けなかった。何もない、総大将の目はただただ優しいだけで、それこそ端から見れば何を恐れる必要があるのか、というくらい穏やかな光景である。だからこそ鴆は怖ろしかった――……老人に抱かれた無垢なる魂〝赤ん坊〟のか弱き姿、それこそが。総大将の腕の中、すやすやと眠りに耽る赤ん坊……否、総大将の血を受け継いだ孫息子、ただそれだけの存在が鴆には空恐ろしかったのだ。

「…………総大将、やはりオレは、」
「悪いが鴆、今日呼んだのは他でもない。少しの間、この子を頼めんかと思ってなぁ」

 二代目ともなろう奴が若菜さんを心配し過ぎて離れんでな、一向に若菜さんが休めんのじゃ。全く困った奴じゃ、一体誰に似たのやら、などと苦笑を零す総大将の目元は柔らかい。……まるで遠い昔を思い出しているようなそんな温かさが滲み出ている。
まぁ、それはともかく、

「だから、あやつを引っ張り出してる間、この赤ん坊を見といてくれねぇかい」

 突然の総大将の頼みの言葉に理解が追い付けず、は? となっているのを良いことにさっさと腕を出させられて着物ごとずしりと重い赤子を腕に抱かされる。柔らかでふにゃりとしたその塊は鴆の腕の中で不安定に支えられ小さく傾ぐ。

「な、……って、ちょっ、総大将……!?」
「そうそう、赤ん坊の名前はリクオじゃ。なぁに、ここはなかなかに安全なところじゃろうから、そんなに心配せんでも良いわい」
「心配……って、……そっちじゃなくてっ……!!」

 自分でなくとも、首無でも雪女でも世話好きしそうな奴は、ここ本家には掃いて捨てるほどいるではないか。せめて、他にこの赤子が安心して眠れる者を……! そう口をパクパクさせながら訴えるも、しかし総大将には丸分かりなのか、はておかしいのぅ、と首を傾げるばかりだった。

「お前さんの腕の中でリクオは気持ち良さげに眠っているようじゃが」

 だから鴆、お前で大丈夫じゃろ、しばらく頼んだぞ。そう言うだけ言って、反論する間も無く総大将は姿を消した。残ったのは茫然と立ち尽くす鴆と、無邪気に眠り続ける赤子のみで……。一体どうすれば、と薬師としての知識も度胸も投げ出し、すとんと座り込むと深く深く溜息を吐く。
――……総大将は敢えて自分を呼んだのだ。それが分かってるから、その優しさが嫌と言うほど分かるから、どうしようもないのだ。

(……今後しばらくは毒を有する鴆様には、出来るだけご辞退願うよう出来ないものだろうか――……)

 若菜様が御懐妊なさったと鴆直々に診た帰りのことだった。自らの側近たちにこっそりと囁く本家の者たちの言葉。
 分かっているつもりだった。鴆とは毒羽を有し、毒に染まる鳥であり、若菜様は今、最も奴良組の希望を抱かれておられる御方で、母子ともに出来るならそんな危険要素を持ち込みたくないのは誰だって同じなのだ。……それも次期、三代目を継ぐであろう子どもとなれば。戻った先での言いづらそうに顔を顰める側近たちの顔、そんな側近たちに気を遣わせぬよう自ら進んでしばらくの訪問を断ると言った時の底知れぬ本家達の安堵の顔。それは同じだけ新しい生命を喜び、待ちわびた鴆にとって苦い記憶でしかなかった。
 赤子が産まれた聞いた時も鴆は行くのを躊躇い、結局今日の今日まで、総大将の呼び出しをもらうまで本家に出向くことさえ出来なかった臆病者だった。それだけ怖ろしかったのだ。自分の存在はもしかしたら、小さくか弱き赤子を毒してしまうかもしれない、と。
 腕の中で赤子はすやすやと眠り続けている。その純粋な魂は毒鳥にとっては怖ろしいくらいに清らかで、優しく愛らしい存在だった。
 だからこそ思ったのだ――……自分は触れてはならないのだ、と。少なくとも今は、この儚き姿が大きくなるまでは、自分は近付かない方が良い、と。
 周りを見渡せば薄い羽織やら打掛が何枚か置いてあり、それと共に座布団も何枚か置いてある。……この子は生まれたばかりの赤子だ。まだ這うことも、首が座ることすらない赤ん坊。だからここに眠らせて鴆が去ろうともいなくなりはしないだろうし、泣けばそのうち誰かが気付くだろう。薬師としては情けないことこの上ないが、怖ろしいものは怖ろしいのだ。毒鳥が傍にいることで赤子の命に危険が迫るより、起きた赤子が泣き叫び、熱を出して鴆が責め立てられる方がきっと何十倍もマシであろう。座布団を重ね、その上に打掛を一枚。その上に着物に包まれた赤子を横たえて羽織をそっと掛けてやる。ぐずることなく、赤子は心地良さげに目を瞑ったままだった。
 そういえばこの子の瞳は何色をしているのだろうか。
 二代目やこの子の祖母、珱姫のような漆黒か、それとも若菜様のような大地の色か、……はたまた総大将の黄金色か。
しばらくじっと子どもの顔を見て、鴆はこの子がずっとずっと待ち望んでようやく逢えた赤子であることを思い出す。あぁ、よく見ればふっくらとした頬、緩やかに描いた目尻に、まあるい顔立ち、……きっとこの子は若菜様似の愛らしい姿になるだろう。

(……もっともお前が大きくなるまでは、さよならだけどな)

 心の中で苦く呟いて、ふっと笑う。今すぐにでも離れなくてはならない。そうと分かっているのだが思った以上に赤子というのは可愛くて、離れがたくて、本家が騒ぐだけの吸引力があるのだ。……その柔らかな頬をつついて、その小さな頭を撫で、その暖かな温度に直に触れたいと思うほどに。けれども触れてはならない、――……喩え鴆毒が接触ごとき移ることがないと鴆自身、痛いほど分かっていたとしてもだ。
 じゃあな、と小さく呟いて立ち上がるため膝を立てようとしたその時、もぞもぞと小さな赤子が身じろぎをする。不自由そうに動き回るその姿に、どうやら掛けた羽織が見動くのに邪魔らしいと思い付いた。せっかくだから、と僅かに逡巡し羽織を少し下に下げてやると、驚いたことに赤子がぱちりと目を覚ますではないか。

「……あー…ぅ?」

 やばい。
ひやり、と背筋に冷たいものが滑る感触がしたが、既に遅い。自由になった手がふにゃふにゃと羽織を抜け出してこちらへと向かってきた。

「……あー…ぁ!」
「………ッッ……」

 急に大きな声を出したので、泣きだしでもするかと思いきや、赤子はふにゃりと顔を綻ばせて何が面白いのかきゃっきゃと笑い出すではないか。紅葉のように小さい手、小さくてか弱い一方で鴆に大いなる怖れを抱かせる子どもの手。
 どうしようかと困り果てていれば、赤子は催促するようにあ、と、う、でこちらを呼び掛けるように声を出す。まるで、早くお前も手を伸ばせ、と言わんばかりに呼ぶ声は怯える鴆の背中を押す。……自分は毒鳥、だから赤子には触れられない――けれども、一瞬だけなら赦されるだろうか……?
 ほんの一瞬、それだけで良い。この赤子に、次期三代目となるこの御方に……。
 相変わらずあ、と、うで呼ぶ声に少しだけ頬を緩ませて、そして少しだけ硬く緊張した面持ちで指を伸ばす。自分に向ってくるものに気付いたのか、赤子がきゃっきゃと声を上げて笑う。
 ――もう少し、もう少し。
 鴆の指先が震える。小さな小さな紅葉の手、小鬼よりも小さいそれに度胸を出してちょん、と触れる。一瞬だけ触れる、柔らかくて、鳥の体温と同じくらい熱い肌。これが赤子の手。これがこれから自分たちの希望を包み込む手のひら……。
 ふわりと笑みが零れる。この子が自分の未来の主になる御方の手。とくんとくんと温かい気持ちで満たされていく。のも束の間。

「……ぁ、…え……!?」

 がし、と捉えられる指。驚き、慌てて逃げようと指を引くも、赤子の力は恐ろしい程に強く、簡単には解けない。

「……ッ…おい、……こらっ……」

 放せ、と一瞬怒鳴りかけるも、それで泣かせてしまってはいよいよ不味い状況になること必至だし、そもそも泣かせたいわけではないので怒るに怒れない。それに、困る鴆とは真反対に明るく楽しげに笑う声……。

「………なぁ、放してくれねぇかい?」

 任侠者の一人に名を連ねているくせに出たのはなんとも情けない声だった。相手は小さな赤子一人だというのに自分はこんなにも弱いとは。あぁ、一体どうしたら。この子どもが何を考えているかなど分かる訳もなく、大体何かを考えてかの行動かも計り知れないこの状況で、まさかとは思うがそのまさかを思わず呟いてしまう。

「あぁ、……分かった、まだ帰らねぇから、お前さんを放って帰ったりしねぇから、」

 まだ何も知らない子どもとはいえ、見捨てられることに抵抗したのだろうか。そう思っての言葉だが残念ながら違うらしく不満げにうー、とイヤイヤ声を上げる。まぁ、そんな即興の思い付きで赤ん坊が機嫌を直してくれるなんてあるはずもなく、当然と言えば当然だ。弱った、と鴆は溜息を吐く。どうすれば良いのだろう、どうすればこの子は。

「頼むから……なぁリクオ、」

 リクオ。
 弱り切った声でぽつりと零した言葉。しかし、その言葉を口にした瞬間、赤ん坊はそれまでの不満げさを一転してきょとんと動きを止める。

「……あーあ!」

 そして突然、何を思ったのかゆっくりと指を放すと、今度は両方の小さな紅葉の手を鴆の方へとめいいっぱい伸ばした。
まるでそれで良いのだ、とも、もっともっと、とも言わんばかりに先程以上に楽しそうに、明るく、嬉しそうに、そして元気に笑う。そこで、鴆は気付いた――この子は、リクオは自分に名前を呼んで欲しかったのだと。ぬらりひょんの孫であり、これからの自分たちの希望そのものである〝リクオ〟という名を、この赤子は自分に呼ぶことを赦したのだ。

「………お前は、それで良い、のかい? オレなんかに名前を呼ばせて、本当に、」
「あーあ! あー!」

 きゃっきゃとリクオは笑い、受け入れる、相手が毒鳥とも知らず、否、だからなのか無邪気そのままに。もしかしたら受け入れられてるなんて己の望んだただの妄想かもしれない。それでもこの子の笑顔が、笑い声がとても温かくて、まるで受け入れられた、とでも錯覚してしまいそうになるから、泣きたくなるほどに愛しくて堪らなくて。こんな赤子に何一つ分かってるはずがないのに……それでも縋りつきたくなるほど、眩しく見えて。あぁ………、と鴆は吐息を洩らす。
 これから先、もしも自分が毒鳥だと知っても尚、同じ笑みを魅せられたら、自分は忠義でも恩でもなく、己の心でこの子どもに仕えるだろう。そんな確信が脳裏をよぎった。喩えそうでなくとも、所詮は忌み嫌われた弱き妖、この笑顔を守るためならば命を賭しても悪くない、と、それくらい思わせる何かがこの赤子にはあった。

「………リクオ、お前はあったかいな……」

(願わくば、この子に、リクオに健やかなる未来を、希望を、幸せを)