Adam’s CHERRY-9

 長い、長い、廊下を進む。レイフロの気配を追うように。オリジナルの残滓を辿るように。幾つもの扉を素通りし、レイフェルはたったひとつの目的地へと向かう。地下ココへ下りた時から答えは分かっていた。あそこにいるのだと。あそこに隠したのだと。分かりやす過ぎるほど分かりやすく淀む気配に迷いはなかった。一つ懸念があるとすれば二人で仲良くアンアンぎしぎしと致している最中に飛び込むことであったが、どうやらこの静寂さからしてその心配だけは回避出来そうだ。──むしろ静かすぎる。気味が悪いくらいに。

(罠か……?)

 レイフェルは敢えて気配を消さずここまで来た。故にメイドの数人くらいは襲いかかってくるかと思いきやそんなことは無く、むしろ邪魔立てひとつないまま進めている現状にいっそ拍子抜けを通り越して不気味さを感じる。一体あの男は何を考えているのか。

(…どちらにしろすぐに分かる、)

 コツリ、と。微かな靴音を最後に、レイフェルは立ち止まり、見つめた。そこは一番奥まった部屋、レイフロの力と気配を漂わせる唯一の場所。その扉へとゆっくり手を掛け、押し開こうと動かす。……鍵は掛かっていなかった。ギィと小さな軋みを上げあっけなく開いた扉は光ひとつ無い暗闇を覗かせ、静寂を漂わせていた。レイフェルはその隙間から体を滑り込ませ、足を踏み入れる。毛足の長い敷物、鈍色に光る何か。そして顔を上げた先、──その目の前の異様な光景に我知らず、ごくりと息を呑む。

「………おいおいおい…、なんだこれは、」

 寝台をぐるりと囲む黒い鉄格子。そこからひしひしと感じるレイフロの力。……明らかに普通のものじゃない。ヤツが己の血から創り出したものか。レイフェルはチッ、と忌々しげに舌打ちをする。どうやらあの男の正気はあまり期待出来なさそうだ。
 辺りを見回し、レイフロの不在を確認すると、敷物に靴音を吸われながら檻の方へと歩み寄る。力が強すぎてレイフェルでさえ近付くのを躊躇わせるそれ。弱い者ならその圧に一溜りもないだろう。頑丈さにおいてはおそらく言わずもがなだ。慎重に進んだ先、その鉄格子の隙間から長く伸びる鈍色のものがふと鎖だと気付いて、眉を顰める。その先を視線で追えば柱から続き、床を這って、逃げられないよう手首へと纏わりついた手枷へと繋がっていて。更にその先には寝台の上で背を丸め、こちらに気付きもしないまま子どものように眠り込むクリスの姿があった。あの神経質そうなチェリーがこちらに気付きもせずに……? 微かな違和感が浮かぶも、まずはこいつを起こさねば話にならない。鉄格子の前まで来るとレイフェルはおい、と呼び掛けた。

「…起きろ、チェリー、……お前…ッ…」
「────何をしている」
「……………‼︎」

 背後から声が掛けられると同時に放たれた攻撃。それを腕一本犠牲にして、致命傷からギリギリのところで避ける。背後で砕ける陶器の音。早鐘を打つ心臓。ステップを踏み、扉の方へと睨み付ければ思った通りの探し人──暗い、暗い、真っ黒な目をこちらに向けたレイフロの姿があった。数瞬遅れてレイチェルの腕から、つぅと血が滴り落ちる。

「………お前、ッ」

 突然、何のつもりだ……‼︎ そうレイフェルが叫ぶ前に、男は数多のコウモリの姿へと身体を変え、鉄格子の隙間へと滑り込む。バサバサと羽音を立て入り込んだ先、ベッドの上で再び人の形を取り直したレイフロはゆるゆると目を覚ましたクリスを一撫ですると、ダメだと囁いた。

「……アレはダメだ。お前の餌じゃない」

 餌──? 一体何を言っている。そう思っているうちにクリスの様子が可笑しくなる。フーッ、フーッと、ぜぇぜぇと──ぼたぼたと口端から涎を垂らし、牙を伸ばしきった口を開けてもがき、喘ぎ始めたのだ。それはそう、まるでレイフェルの血に反応した酷い飢血状態の有り様のようで……。あまりにも嗤えない状況にひくりと頬が引き攣った。いや、まさか。そんなこと、あるわけがない。あってはならない。

「……レイフロ…お前、まさかチェリーに血を与えてないとか言わないだろうな……?」

 クリスの唯一の供給源であるお前がずっと傍にいたのに、そんなはず……。そう思いたいのに頭の理性的なところが否定する。ならば他にどう説明するのだと。この苦しみようは、暴れようは──間違いなく飢血なのだと。それもかなり重篤の。
 よく見れば裸体であるその肌は、見る限り所有の証とばかりに付けられた吸血痕と鬱血痕だらけだった。……クリスは間違いなくヴァンパイアであるというのに。牙で穿った痕ならともかく──所有印、キスマークなんて喩えどんなに可愛らしい名前で呼ばれようとも医学的にはただの軽い皮下出血なのだ。つまり傷にも相当しない小さな痣。それはヴァンパイアの回復力の前ではせいぜい三分もてば良いもので。そんなものが身体中、無数に残っているのは明らかに異常だった。
 血の摂取量が減れば回復は遅れる。それは経験的に理解していたことだったが、〝痣さえも回復できない〟程、血に飢える状況などさすがに考えたこともなかった。それほどまでに飢えることなどそもそも普通なら出来ないからだ。そんな状況になる前に本能が血を求め、他人を襲う。自制も理性も消え、ただの獣となり果てる。なのに今のクリスは……。

 ぞっとした。
 レイフロが主人として命じているのは一目瞭然だった。本来何もかもかなぐり捨てて血を求めて彷徨うはずの者を命令だけで縛り上げようとするなんて。それはどれほどの苦痛だ。餓えだ。渇きだ。少なくとも愛し子にして良いことではない。それはもう、愛情などではない。

「────そうだと言えば?」

 クリスの額へと口付けし、背を撫でていた男が冷え冷えとした怜悧な目をして振り返る。その罪悪感の欠片も浮かばない目に、言葉に、考えに。レイフェルの中で何かが音を立ててキレた。

「……ッ、…お前はっ、今のチェリーが、お前の大事にしてきたクリスと同じだって、本気で思ってんのか⁉︎」

 鉄格子を引っ掴み、ふざけるなとばかりに声を張り上げる。よりにもよってお前が! 悪魔に操られるわけでもないお前が、なぜ分からないのか……! と。だが、

「…………どういう意味だ」

 胡乱な目をしながら、うっとおしいと、やかましいと苛立つ男は、ただ眉を顰めるばかりだ。なぜ分からない。なぜ気付かない。ギリ、と歯噛みする。そしてレイフェルは床を蹴ってコウモリとなり檻の隙間をくぐり抜けると。再び人の姿へ変化し直し、それと同時に男の胸ぐらを掴み上げた。

「……ッ、……前に! そいつは自分の意思で私の血を拒んだぞ! 『マスター以外の血は口にしない』とそう言ってな……!」
「……ッ、それが、」

 それが、どうした。そう口にしつつもレイフロの狂気に蝕まれた黒い瞳が微かに揺れる。レイフロ以外の血は飲まない。その事実は、意思は、クリスをクリスたらしめる確固たるものだった。ヴァンパイアとなり、吸血という避けられない運命の中で、それでも今の今まで貫き通したもの。過去、アルフォードに捕らわれ、自殺行為と分かっていても拒み続けた他人の血。それを、お前は何をした! なぜ見ようとしない! 飢血で狂わんばかりに苦しむクリスも! 自ら与えた残酷な命令も……! レイフェルの言葉に、目の前に横たわる否定しようのない事実に、狂気と正気の狭間でレイフロの口端が引き攣る。……ちがう、そうじゃない、……俺は間違ってなんか、こうしなければコイツは。そう言葉を重ねるもそんなことで現実は何一つ変わらない。

「いい加減、今のそいつを見てみろ……! 私の血が欲しくて堪らないって喘いでるそいつを! お前が命じなきゃ私の血を喰らってるだろうそいつを! 命じなきゃ誰彼構わず襲おうとするそいつは本当にお前の大事なクリスか⁉︎ 私には獣にしか見えないぞ……‼︎」
「………ッ、……っ、」

 意思もなく、命じて力で押さえつけてようやく留まっていられるそいつはもはやクリスでもヴァンパイアでもない。ただの獣だ。レイフロが都合よく躾けた、都合のいい獣。以前、クリスが言った愛情さえ貰えないのだから愛玩動物にさえなり得ない哀れな生き物。
 その言葉にとうとう声を失い、動揺するレイフロの視線が突き動かされるようにゆっくりと動く。掴み上げるレイフェルから、腕の中で唸り、悶え苦しむクリスへと。狂ったまやかしから現実へと。掴む指に力がこもった。

「あの時お前言ったよなァ⁉︎ 躊躇うほど眩しく輝いて見える相手がお前にもいるだろうって! あぁそうだ! 私にはチェリルがいる! そしてお前のそれはチェリーだろ‼︎ なにやってんだクソ野郎‼︎ そいつは‼︎ お前がこっちの世界に堕としてでも守りたかったモノなんじゃねぇのかよ……‼︎」

 躊躇って、躊躇って、躊躇って。それでもそいつに血を与えると決めたくせに‼︎ こちら側へ堕とすと覚悟したくせに……‼︎ お前は一体何をしている……‼︎
 叫びにも似たレイフェルの声に、己の仕出かした現実に、レイフロの見開いた瞳孔が小刻みに震える。ア、とも、ウ、ともつかない呻き声が喉奥から発せられ、理性が、正気が、男の中でせめぎ合う。まだ引き返せるか、まだ引き戻せるか。主軸を失い、ぐらぐらと揺れるその意思を、その正気を、後押しし、引き留めたのは、失った時と同じ他の誰でもない腕の中のクリスだった。

「……ます、…た……?」

 ヒュウヒュウと浅い呼吸を繰り返し、爪が喉に食い込むほど握り締めながらも、クリスはのろのろと顔を上げ、レイフロを見上げる。その目に、その声に、レイフロの肩がひくりと跳ねた。けれど、それが男を咎めるものでなく心配するようなものだったせいか。真っ黒な目にじわりと膜が張る。

「ク、リス…ッ……俺、…俺、は、」
「…だい、じょぅ…ぶ……だいじょ、ぶ…です……」

 いつ錯乱しても可笑しくないであろう飢血の苦痛を味わっているはずのクリスが焦点も定まらないまま、ゆるりとわらう。さもレイフロを安心させるように。平気だとでも言うように。そして。自身の腕を口元へ寄せると、──大きく口を開け、伸びきった牙で勢いよく噛みついた。

「………っ⁉︎ …、なに、を……ッ」

 じゅるり、と音を立て。クリスは深く噛みついたところから溢れ出す己の血を啜り上げる。渇きを癒すように。理性の糸を繋ぎ止めようとするように。ぼたぼたと涎を垂らしながら、シーツを汚し、肉を喰い千切らんばかりにじゅるじゅると己の血を啜るその姿にレイフロもレイフェルも絶句する。なんだ、何が。何が起きてる。こいつは一体、何をして──。

「ッ、クリスっ、やめろ…っ、飲んでいい、飲んでいいからっ、だから俺の血を……ッ、」

 いち早く我に返ったレイフロがクリスの顔を引き離させ、自分の腕を差し出す。今のクリスに吸血を許可するのは自殺行為も同然だ。相手は飢えに飢えたヴァンパイアなのだ。喰い殺される可能性もある。ただそのリスクを負ってでも今のクリスは止めねばならなかった。それはレイフェルも本能的に分かっていた。だがいくらレイフロが血を飲ませようとしてもクリスは頑なに首を振って拒否し、己の血を啜ろうとする。その姿に男の顔色が紙のように白くなっていく。それはダメだ。それは──。ぶるりとレイフェルの体が身震いする。いつか昔の、思い出したくもない記憶がうっすらと蘇る。

「…っ、…お前、覚えてるか? 他人の血を飲むのが嫌になって自分の血で賄おうとしたこと」
「…………ッ、」

 歯噛みする男に、レイフェルだけでなくレイフロも気付いていることを知る。クリスが他者の血を──レイフロの血を啜ることに忌避を覚え始めたことを。そしてその悪夢のような先を二人は、……いやおそらくほとんどのヴァンパイアが知っている。血が欲しいのなら、穢れた生き物が全うに生きられないのなら、せめて他人ではなく自分の血でどうにか飢えを抑えられないかと。その結果が、熱した石に一滴の雫を落とすようなものなのだと。いずれ自分の腕を喰らい、血を啜り、満たせぬ飢えに理性を失い、堪えられず人だろうが動物だろうが、血を持つ生き物へと襲いかかるのだと。そして、喰い尽くした血溜まりの中で我に返り、穢れた業に絶望するのだと。

「…………ッ、……」
「…っ、何してる! 無理にでもさっさと血を飲ませろ…! 他人の血を啜る忌避感なんて、お前がこいつに覚えさせるな……!」

 あんなこと、知らなくていいのなら一生知るべきではない。あの絶望を思い出し、呆然とする男を叱咤し、急き立てる。普段ならこんなこと、しようとも思わない。綺麗事ばかりのたまうクリスもいつまでも高潔オキレイな顔をするこの男も等しく不幸になれば良いと思う。それくらいこの二人はレイフェルを苛立たせ、自分とは違う生き物なのだと現実を突きつけ、小さくはない憎悪を抱かせる。けれど、それでも。
 ──それでも、クリスは言った。赦し、赦され血を与えられるのなら、それはもう穢れた行為ではなく愛であろう、と。その言葉にレイフェルは怒りで我を忘れた。クリスの言う愛とやらを引っ掻き回さねば腹の虫が治まらなかった。飢えも狩りも知らないくせに。あの絶望を経験したこともないくせに。クリスごとめちゃくちゃにしてやらねば気が済まないと思った。それほどまでに、血を啜らなければ生きていけぬこの穢れた業を愛だなんだと信じている奴は憎く、忌まわしく、恨めしく。──なのに、どうしてだろう。どこかひどく眩しくてほんの……ほんの少しだけ羨ましく、救われるような気持ちになったのは。穢れた生き物でも、血を啜って生きていても、赦されるような気持ちになったのは。

「こいつ一人くらい、……血を啜る行為が穢れた業じゃなく愛情だと信じてるヴァンパイアが一人くらい、この世界に居たっていいだろ……っ…」

 それは真っ暗闇に光る小さな希望だ。いつかチェリルから血を貰えたとき。チェリルも同じヴァンパイアとなったとき。自分達もあの行為を愛だと認めることが出来るかもしれない。あの子だけでも穢れた業だと思わず生きてくれるのかもしれない。レイフロに与えられる血を愛情だと信じて疑わないクリスのように。

「…クリス……‼︎」

 だから。こいつは助けなければならない。飲まないのなら力づくでも飲ませて生き延びてもらう。レイフロの声に応じないクリスの口を無理やり開かせようとレイフェルが手を伸ばそうとする。そうすれば、その影を何と見間違えたのか、クリスの右手がゆるゆると持ち上がり、縋ろうとした。

「…ますた……いいこにしてますから、…わたしは……まだ、」

 ピタリと手が止まる。自分のことで無いのは百も承知だが、これは……。どういうことだとばかりに、レイフロの方を見やれば、男は信じられないものでも見るかのように大きく目を見開いていた。

「わたしはまだ……あなたの、そばに…いたい………」

 だから。まだこれ以上の飢血にも耐えられるとでも言うように。親の言葉を頑なに守り続ける子どものように。まだ大丈夫だと、まだ耐えてみせると、そう言わんばかりに自身の血で濡れた口で笑おうとするクリスに、パタリとレイフロの瞳から雫が溢れ落ちた。パタ…パタ……と言葉もないまま止まらぬそれに不思議そうな顔をしてクリスが手を伸ばそうとする。

「……? ますたー…ないているのですか…?」

 その雫を掴まえるように。慰めようとでもするように。レイフロの顔へと伸ばすその手を掬い、両の手で握り締めると、レイフロは祈るようにその手を己の額へと押し付けた。

「お前はまだ………、」

 死にたくないのか。そう、ぽつりとレイフロが呟く。死にたくないなんて。飢血なのに血を拒んで、生きることとは全く逆の行動をしているというのに。それでも男は確信したのだろう。それはどこか儀式めいた色をしていて。二人の間だけで通じる何かのような気がして。レイフェルはそっと足を引いた。そして固く目を瞑り、噛み締めたレイフロが、やがてちがうな……、と静かに首を振る。……俺がお前に生きてほしいんだ、と。

「……ならばクリス、」

 男が顔を上げる。頬を伝う雫も、まなじりから溢れる雫もそのままに。覚悟した目をして。震える唇で。言葉を紡ぐ。

「……これから何が起ころうとも、決して後悔しないと誓えるか」

 悲痛なほど震えた声。パタパタと己の頬を濡らす雫。それらを全てわらうかのようにクリスはとろりと笑みを浮かべると、ちいさく頷いた。初めから答えなど決まっているかのように。

「えぇ、…えぇ…、あなたといっしょなら………」
「…ッ、………そうか…」

 そう口にするとレイフロの指が牙を滑る。するりと裂けたそこは、数呼吸置いて赤い血を生み、膨らむと、つぅと掌へ滑り落ち。男の手が己の唇へと触れば、クリスはゆるゆると素直に口を開け、限界を迎えたように目を閉じた。あれほど嫌がっていたというのに、あまりにもあっけなく……なのにどこか安心するように。意識が落ちた口元へ、寄せた指からたらりと血が落ちる。一滴、二滴と滴る血。レイフロから与えられるその血を──今度こそ、クリスは拒むことはなかった。