Adam’s CHERRY-10

 クリストファーのインタビューが載る雑誌を一通り眺め終えた後、レイフロはソファに腰かけたままグッと伸びをした。

「フェロモンを垂れ流す世紀の色男……だってさァ」

 最近は昼間ぐっすり眠ってるからかねぇ。そう呟いては、こちらに流し目を寄越し、ニヤニヤと笑う男に肩を竦める。余程、暇を持て余しているのか、構ってほしいのか。最後のメールをチェックし終えると、クリスは呆れたように立ち上がり、男の手から雑誌を回収した。

「その取材を受けたのは一月前のことですよ」

 残念ながら、貴方を放っておいた頃あたりの。掲載号より数え、そう口にしながらも、あれからまだひと月ほどしか経っていないという事実に少しだけ驚く。クリスの中ではとても遠い日のようにも、昨日のことのようにも思える事件だったというのに。

 

 ──あの、レイフロと二人きりで過ごしていた部屋にレイフェルが現れた日の後。正気に戻ったレイフロと共に戻ったクリスはそのまま三日三晩眠り続けていたそうだ。アルフォードが言うにはとっくに身体が限界を迎えていたらしい。クリスの身が持ったのも、レイフロが喰い殺されなかったのも、ひとえにクリスが無意識に自制を効かせていたこと、意識が無かったこと、飢血に慣れていたこと、真祖の精気を直接体内に与えられていたこと、精神支配の影響が辛うじて残っていたこと……など、様々な要因が複雑に絡み合った偶然の賜物に過ぎないとのことだった。結果、血への暴走ではなく眠り続けることとなったクリスにレイフロの血を少しずつ与え、三日目の夜、ようやく目が覚めたのだと言う。

 そうして目覚めてからのクリスの行動は早かった。まず、己の元を去ろうとしたレイフロを全力で引き留めたのだ。責任、後悔、罪の意識。ありとあらゆる自責の念を浮かべ、目覚めたクリスに怯えさえ見せた男の腕を掴んだのだ。目一杯。物理的解決である。そもそも短い会話や説得などで男の行動がどうにかなると思うほどクリスも楽観的ではない。さすがに寝起きでこうなるとは思っていなかったのかレイフロは痛い痛い痛い‼︎ 待って折れる、クリス⁉︎ と叫び出したが、ずっと我慢していた言葉が——もうどこにもいかないでください……という哀願の言葉がクリスの口から溢れ落ちた瞬間、哀しいくらい静かで痛ましいごめんな、という言葉に変わった。ごめんな、クリス。酷いことをした。赦してくれなんて言わない。でも、ごめん、ごめんな、と。クリスは謝ってほしいわけではなかった。ただそばに居てほしいだけ。それはレイフロだって分かっているはずなのに。それでも置いていこうとするのはそばに居たら傷付けるから、とか壊してしまうから、とかそういう理由なのだろう。優しくて優しくて残酷な理由だ。それは結局クリスが弱いから、と言っているのと同じなのだから。

 ──こんな時、レイフロの中で、自分は未だパートナーという名の幼い子どものままなのだと思い知らされる。一方的に愛され、一方的に守られる存在だと。……それもそうだ。自分はこれまで彼のことを何も知ろうとしなかった。何かを返そうともしなかった。ただ与えられるものを与えられるがまま受け取り、与えられないことに落ち込むだけだった。だからようやく与えられた選択肢から選んだそれを、クリスの意思ではなく偶然だと思われても仕方のないことだった。
 どうしたらこの人を掴まえておくことが出来る? そうではないと信じてもらえる? レイフロの騒ぎ声に全員が駆けつけ、男が逃げるどころで無くなっても、クリスは考え続けた。

 それから行ったのはレイフェルを始めアルフォード達に謝罪と感謝の意を伝えること、今後の活動について話し合うこと、そして間違ってもレイフロに逃げられないよう外堀を埋めることだった。
 ちなみにクリスは未だ日の下を歩けるヴァンパイアのようであった。〝ようであった〟というのは今後も続けてそうなのか、次第にそうでなくなるのか分からないからだ。クリスとしてはもはや神の加護というよりそういう体質だと思っているのだが、いずれにしろレイフロが静かに胸を撫で下ろしたのは事実である。喩え、日の光を浴びれなくなったとしても、クリスはもう気にしないのに。口にはしないが、それもまたクリスの本音であった。確かに日の下で灰にならないのは有利であるものの、既にハンターでも信徒でもない自分には、もはやあっても無くてもどちらでも良い性質なのだ。大体、クリスの領分も本来なら夜なのである。それがたまたま昼間に動いても砂にならなかったというだけで、元々体に良かったわけでもない。つまり全てが本来あるべき方向へと収まろうとしているだけなのだ。ただそれだけなのに──……そうは言ってもレイフロが気に病むだろうことは当のクリスも十分理解していた。日の光に当たれなくなったらなったで重い責任を感じるだろうし、そうでなくともこれ以上穢れがどうのと言って避けられる可能性もある。それはクリスの意図するところではなかった。

 そういう面も考慮して、結果的にアルフォード達との話し合いの末、撮影や社交界への露出を夜間限定にしていく動きへと纏まったのだ。どちらにしろクリストファーはそう遠くないうちに表舞台から姿を消す。ならば今のうちから多少、露出を減らしていく方が後々世の中への影響も小さいだろうと、そう判断されたのだ。そもそもこれまでが働きすぎだったのだ。今回突然のクリストファーの不在を急病と説明していた分、周囲への理解もそう難しくないだろう。今後は特にメディアへの露出から社交の方へと比重が変わっていく予定だ。
 こうして昼型から夜型への移行により、レイフロがクリスの日光耐性を気にする必要性も消えた。これまでのように互いの生活が逆転して擦れ違うことも徐々に少なくなっていくことだろう。そうやって手際よく外堀を埋めていくクリスに、レイフロは苦く笑った。

『……お前も分からんやつだなぁ』

 そう、どこか呆れたように、困惑したように。その言い様はもしかしたら愛想を尽かして、もしくは恐れ戦いてクリスが逃げ出すとでも思っていたのかもしれない。それだけのことをした自覚があったのだろう。実際、アルフォードにもしばらく距離を取った方が良いと言われた。一時的な住居や代替血の提案もあった。だがクリスはそれらを全て丁重にはっきりと断り、レイフロと共にサクラメントのアパートへ帰ることを望んだ。そうでなければ意味が無かったからだ。

『帰りましょう、私達の家に』

 そう口にしたクリスの目をジッと見つめると、レイフロは諦めたように溜息を吐いた。その前にひとつだけ聞いておきたいことがある、とそう言って。

『……お前はあの時、どうしてコウモリになって逃げようとしなかった?』

 あの時──コウモリとなって枷から逃げ出しても良いと男に言われた時から。クリスは一切逃げようとはしなかった。コウモリになる素振りも、抵抗する気も。それが男の胸にずっと引っ掛かっていたのだろう。変化する力が残ってないなんて、人の形には戻れないだろうなんて言ったせいで。……嘘を吐いたせいで。
 そう、クリスは分かっていた。それらが嘘だということも。やろうと思えば逃げられたことも。それだけの精気を直前に渡されていた。それでも逃げなかったのは、レイフロが口にしたあの、捕まえるという言葉もまた嘘だとすぐに気付いたからだ。──一緒に行こう、と。もう消えない、と。そうやって共にいることを約束したときに限って、男は必ず居なくなる。だからあの時もクリスがコウモリになって逃げようとしたが最後、レイフロは二度と自分の前に現れる気がないのだろうと確信した。隷属としてクリスの居る場所が分かるなら尚更、男は捕まえるどころかクリスに捕まらぬよう居場所を転々としただろう。そうやって嘘ばかりを残していくから。クリスを置いて遠いどこかへ。必死に手を伸ばしても握り返してくれないのに、そのくせ、遠いどこかでクリスを見守り続けようとするから──……。 

 いつだってそうだった。彼は何度でも去っていった。クリスの元から。クリスの為に。クリスに背を向け、離れていった。それが彼の──父親としての優しさだったから。言葉もなしに一方的に置いていかれた。でも、だから。だからこそ。

『私が諦めであの屋敷に居たと思っているのなら酷い思い違いですよ。私は〝望んで〟貴方と共に居ることを〝選んだ〟のですから』

 これが初めてだったのだ。選択肢を与えられたのも。パートナーとしてその覚悟を問われたのも。身の内に宿した焔を見せられたのも。……自分の手で選び取ったのも。
 そう、クリスは選んだのだ。流されたのでも諦めたのでもない。クリスの意思でそう決めたのだ。すぐにクリスを置いていこうとする優しくて酷い男のそばに居ることを。臆病で不器用な感情をぶつけられることを。クリス自身が願い、望んだ。
 そう口にした時の男の驚きようは、今なお可笑しさが込み上げる。安心や安全だけではない。レイフロと共にあるということは、彼のパートナーとして生きるということは、そういうことなのだ。それをもうクリスは知っている。それでも選んだのだ。彼のそばに居ることを。その手を離さないことを。彼の激情ごと愛することを。だからこうしてレイフロに証明し続ける。その覚悟を。この想いを。
 クリスはもう守られるだけのか弱き存在でも、口を開けて与えられる愛を待つだけの子どもでもない。パートナーとして男の隣に立つ足も、欲しいと伸ばして引き留める腕も持っている。追いかけることも逃げ出すことも出来る羽も、歩み寄ろうとする心も、時間も。だから。
『帰ったら、たくさん話をしましょう』
 貴方が怒った理由も。私の無知な部分も。これまでのことも。これからのことも。全部とは言わない。でもこうして擦れ違わないくらいには。

 ──そうして、たくさんの話をして、約束をして。レイフロはほんの少しだけ前より意地悪でワガママなクリスのパートナーとなったのだ。

 

 

「…せっかく〝夜更かし〟を止めて、こんなに美男子になったってのに、記者達は取材もさせてもらえないなんて可哀想に。昨日も断ったんだって?」

 そのうち世間じゃクリストファーロスだと騒ぎ立てるんじゃないのか? クスクスとわらいながら意味ありげに頬へと指を伸ばそうとする男の手を掴まえると、クリスは誘われるがままソファへと乗り上げた。

「人聞きが悪いですね。夜なら良いと言っているのに向こうが断ってくるんですよ。なんでも昼時の画が撮りたいとか」

 人間、ダメだと言われると逆にやりたくなるものなのだろうか。夜なら撮影であろうと取材であろうと応じると言っているのに、他を出し抜こうとばかりに大金を積んで来ることさえあるのだから分からないものである。そう言ってる間にも猫でも撫でるかのように肌を撫で擦ってくる男の手を睨めつけて、クリスは溜息を吐いた。男は最近、やたらとクリスの肌を気に入っては、触れたがる。なんでも肌艶が良くなり、吸い付くような手触りが良いんだとか。クリスからしてみれば昼に眠ろうと夜に眠ろうと、ヴァンパイアの回復力を前に肌理などそう変わるわけがないと思うのだが。飽きもせず、するすると動き回る男の手。それを再び掴まえ、唇に寄せて。男の目を見つめながら舌を這わせると、窘めるようにその手を甘噛みした。

「……そんなことより腹が減りました」

 舌で舐り、牙を覗かせ。これが欲しいとばかりに催促する。何せここ十日余り、あの事件で空けてしまった穴を埋めるかのようにあちらこちらへと駆り出され、まともに食事をしていないのだから。クリスが休暇を申し出なければ、もうしばらくは働き詰めだったに違いない。いいでしょう? と目で問うクリスに、男は上機嫌に喉を鳴らした。

「ククッ……俺を喰うのか、クリス?」
「…………そう言って実際、喰われるのは私のようですが」

 その手はなんです、その手は。そう視線で咎めるもどこ吹く風で。掴まえた方とは逆の手がシャツをたくし上げ、するりと中へ潜り込むと、くすぐるように腹を、腰を撫で上げた。ひくりと肩が跳ねる。

「……マスター」
「怒るなよ。ただの可愛いイタズラだろ?」

 でもまァ、えっちなクリスくんの期待に応えるのもパートナーの務めだよな。そうクスクスとわらって。背中へと這い回っていた指が今度はスラックスの隙間へと入り込む。

「………ッ、…」

 食事が十日ぶりなら、当然そちらも同じこと。先程までの愛玩物を撫でるような動きから一転、急に漂い始める性の香りに背筋が震える。その姿に一層、男の目が愉しげに細まった。

 ──さぁおいで。食事にしよう。

 密やかに、甘やかに。囁かれ、誘われる先はベッドルーム。今となっては食事をするためだけの部屋。そこへ。さもイニシアティブを取ったかのようにわらう男と素直に向かうのも何だか癪で、クリスは掴まえていた指に強く噛みつくと、目を丸くする男へとわらいかけ、艶かしく溢れ出すその血を啜ったのだった。

<了>