Adam’s CHERRY-3

 誰かに血を与えることなど想像したこともなかったが、やってみれば案外こんなものなのかとレイフェルに血を与えながらぼんやりと思う。どこからが良いかと訊いて「首」と即答された時はさすがに身の危険を感じたが、レイフェルもレイフェルなりにこちらの意識が飛ばない程度には調整してくれているようだった。とは言え喰らいつく牙の深さを考えるとビギナー相手になかなか容赦のないものだが。興奮という興奮もなく、本当に餌を与えているような感覚に程近かった。マスターとする〝食事〟とは全く違った感覚だった。ただただ血が減る上に時間を持て余すだけのこと。そしてそうなればつい余計なことを考えてしまうのが自分だった。
 こんなことをしてマスターはどう思うだろうか。自分を褒めるだろうか。彼が自分でない誰かに血を与えるのを想像したくなくてやっただけの、ただの自己満足的な行為でも、よくやったと褒めてくれるだろうか。それともレディへのエスコートをようやく学んだなと苦笑するだろうか。レイフェル相手だからやらなくったって良かったんだぞと逆に臍を曲げるだろうか。血が足りないからと甘えてみせたら仕方がないとでも言うような顔をしてまた食事をさせてくれるだろうか。しかしそれで「結局俺の血が減るんなら最初から俺がやった方が良いんじゃないか」なんてことになったら本末転倒だ。そう言えばと、レイフェルが現れるまでのことを思い出す。こうして血を分け与えてはいるがそもそもクリスもクリスでまともに食事をしていない。目の前に迫る黒髪に、反射的にごきゅり、と喉が鳴った。

「……チェリー。こんだけの美女相手にしといて他の男のことばっか考えてんじゃねぇぞ」

 これまで吸っていた方とは反対側の首筋に舌が這い、ぐ、と脈を押し当てられる。急所を突きつけられ、ドクドクと強く脈打ち始めるそこへレイフェルは容赦なく牙を埋めた。

「……ッ、ぅ」
「余所見してたオシオキだ」
「……っ、……何を考えていようと貴女には関係ないでしょう」
「最低限の雰囲気ってモンがあんだろ。豚の餌やりじゃねェんだぞ」
「……貴女達は揃いも揃って、上品な誘い文句一つ言えないんですか?」
「誘ってほしいのか? チェリー坊や」
「窓から投げ捨てますよ」

 軽口を叩きながらもそいつは困ると眉を下げるレイフェルに、溜め息を吐いて自分の首筋に喰らいつく丸い頭に手を添えた。豚はともかく——穢れた生き物。穢れた血。レイフェルやレイフロは時折自分達のことをそう口にする。血を啜らねば生きていけぬ自分達を蔑むように。皮肉るように。自分で自分の存在を貶めようとする。その言葉が正しいかどうかはともかく、そう自覚している者達がそんな生きざまをまざまざと思い知らされるこの行為は如何ほどの苦痛なのか。ましてやその糧を餌をやるように与えられるのはどれだけ惨めなものなのか。考えてみるがやはりクリスには分からなかった。喩え、餌の時間だと口にしようと、レイフロは本当の意味でクリスを貶めることがなかった。辱しめることも、惨めにさせることも。だからクリスは真にその苦痛が分からない。それでもきっと彼にそんな血の与えられ方をしたら絶望するだろうから、それだけは確かだろうから、これはクリスなりの譲歩だった。それでも満足したのかレイフェルの細い腕が首に絡み付く。

「ククッ……レディの扱い方はパパに教えてもらったのか?」
「……あの人は何も教えてくれませんよ」

 適当に答え、ふとその通りだと思い直す。確かにあの人は、何も教えてくれない。真の名も、蝙蝠になる方法も。おそらくクリスが訊ねなければ永遠に教えてくれなかったであろうことばかりで。そして未だ知らないことばかりあるのだろう。今、彼がどこにいるのかだってクリスは知らない。何を考えているのかだって。隷属になって、パートナーになって、それなりに時間があったはずなのに何を知らないのか分からないほど、クリスはきっと彼のことを何も知らないのだ。

「私は何も知らない…どうして貴女がチェリルから血をもらうことを忌避するのかも。マスターが私の血を口にしようとしないのかも、」

 腕に触れる、似たような髪質にまるでレイフロに喰われているような錯覚に陥りそうになりながら、ぽつりと呟く。
 そうだ、大元を辿ればあの喧嘩にもならない喧嘩は——すれ違いにも満たないすれ違いは、レイフロがクリスの血を求めないことから始まったのだ。彼もまた、クリスからあまり血を吸おうとしないから。クリスが差し出せば口にしても、必要以上に求めはしないから。欲しがりもしないから。血をねだるのはいつだって自分の方からで、彼は与えるだけだから──。だから彼がクリスの血を求めないように、クリスも血を求めなければ少しはその寂しさが伝わるのではないかとそんな子どもじみた意地を張ってしまったのだ。訪れる渇きを忘れるように仕事に打ち込み、没頭し、もう少しを重ねに重ね、結果彼を怒らせてしまった。でも、とクリスは思う。自分が求めるように彼にも求めてほしい。彼が与えるように自分だって与えたい。──そんな思いを抱くことはそれほどまでに我が儘なことなのかと。それほどまでに身勝手な願いだろうかと……。

「……何故です…、何故貴女達は、パートナーを避けるんです? パートナーなら、……赦し、赦され血を与えられるのなら、それはもう穢れた行為ではなく愛でしょ、……っぐッ……ッ⁉︎」
「……なるほど御主人様が高潔おキレイなら、ソイツの子もまた高潔
おキレイ
ってワケだ」

 容赦なく床に叩きつけられたかと思えばレイフェルはそのまま腹の上へと馬乗りとなった。暗い暗い目をして。

「——愛? 赦される? ハハ……お前は本当に何も知らないんだなァ、チェリー。嗤えるくらい何も知らない」

 黒い瞳が深い紅へと染まる。吊り上がる唇へ、べろりと舌なめずりをした。

「無知な〝クリス〟。お前は今、自分がどういう状況に置かれているのかさえ知らないだろう?」

 その声はゾッとするほど冷酷に。淫靡に。それはかつて見たヴァンパイア達と同じ顔で。人間を狩ることに喜びを見出だした者達と同じ顔で——その口が大きく開いたかと思うと、鋭く伸びた牙が深く、容赦なくクリスの肩を穿った。

「……ぐっ、……ぅ、」

 じゅるりと啜られ、溢れ出る血。なのに走るのはそれまでとは違った感覚で。鋭い痛みだけでなく、ぞくりと背を駆け上る甘い感覚にゆらりと意識が揺らぐ。なんだこれは。熱いような苦しいような。ぞくぞくした感覚が全身に回る。まるで強いアルコールを一息で呷ったような多幸感と興奮。それに無意識に爪先が床を掻く。

「……ハッ、我慢なんかしてないで、最初からこうしてりゃ良かった」
「……っ、……?」
「お前はまるで麻薬だな、クリス? そこらの人間よりずっと美味い。さすが、アイツが隠していただけのことはある」

 美味い? 麻薬? ならばどうしてあの人は自分の血を求めてくれない。痛い。熱い。ふわふわする。ぐるぐるぐるぐると行き場のない感情が、感覚が頭を支配する。力が全く入らない。自分の血の匂いにくらくらする。飲みたい。苦しい。血が、足りない。

「……? お前、」

 こういう時、どうすれば楽になるのだったか。ここ数週間の記憶を無理やり引っ張り出し再現しようとした時、遠くで「クリス……‼︎」と叫ぶ彼の声が聞こえたような気がした。

「チッ、…タイムアップか」

 血の伝う顎を擦り、レイフェルが舌打ちする。それを掻き消すほど、激しい羽音と共に突風が滑り込んだ。

「……ッ、レイフェル、お前!」
「——…ようやく、騎士様パパのご帰還か」

 激昂した声——レイフロ。探しに行こうと、謝ろうと思っていた男。それが帰ってきて早々、何故レイフェルに怒鳴り声を上げているのか、何に怒っているのか、クリスは欠片も分からず混乱する。怒っていたのは自分にではなかったのか。ビリビリと男の怒りで震える空気に呼応するよう指先がカリ、と床を掻いた。分からない。分からない。分からないが、これは、良くない。オロ、とふわふわした頭に困惑と怯えが走る。レイフロとの喧嘩はもちろん、怒る姿を見ることはしょっちゅうある。だが、こんな怒気をぶつけられた事など、一度もない。こんな殺意に近い感情など。……ごっそりと感情をどこかに置いてきたような表情を、見たことなど。はくり、と呼吸が空回りする。ここだけ空気が薄くなったような気がした。

「おーおー、過保護のパパは恐いねぇ」

 ふっ、と体が軽くなったかと思えばレイフェルが立ち上がり、レイフロと対峙する。まるで見えぬ重圧など無いとでも言うように軽やかに。その顔を覗き込む。

「……何をしたのか分かっているのか、レイフェル」
「もちろんだとも。お前の可愛い大事な子を掠め取ってやった」
「そうか。ならば古今東西、可愛い我が子を掻っ攫うボーイフレンドは八つ裂きにされることも?」
「それは知らなかったな。あぁ可哀想な、チェリー! 私のパパ悪魔に八つ裂きにされるなんて!」
「——……ッ!」
「……ッ、マスター…‼︎」

 反射的に上げた悲鳴に近いクリスの声と、レイフロの腕が止まるのはほぼ同時だった。レイフェルの首を刎ね飛ばす寸前で。

「……一体、なに、を…っ……」

 分からない。何も分からない。混乱は極まるばかりだった。掠め取るも何もクリスは飢えたレイフェルに血を分け与えただけ。それ以上でもそれ以下でもない。レイフロが過去やってみせたように自分も同じく倣っただけ。なのにどうしてレイフロがレイフェルを手にかけようとする。何故、そんな目・・・・で見る。カチ、と歯の根が噛み合わさらなくなる。感情よりも完全に、本能が怯えきっていた。

「————クリス」

 名を呼ばれビクンと身体が跳ねる。爪が床を掻く。混乱したまま、上手く視点が定まら無い。焦れば焦るほどそれはまるでレイフロから逃げ出そうとする様で——それが彼にどう映ったのか。そんなことさえもはや思考には至らない。ただ本能が目の前の死を回避しようと動き続ける。
 レイフロはそんなクリスをジッと見つめると、ひとつ息を溢してレイフェルに背を向けた。

「——…次は無い。去れ」

 レイフェルが何かを叫び、応えたような気がするが、もう何も分からなかった。レイフロがこちらへ来る。ひくりと喉が震えた。

「————クリス」
「——クリス、」
「……クリス」
「クリス」

 返事も反応も出来ないクリスの前にしゃがみこむと、レイフロは両手で頬を挟み込み、コツンと額を——視線を強制的に合わせた。絶対的な支配者の目で。こちらを見ろとばかりに。

「クリス」
「…………っ、」
「クリス、返事をしろ」
「……っ、…は、い…」

 気付けば、目の前のレイフロから先程のような殺気は消えていた。危機は脱した。そう言わんばかりに上手く定まらなかった焦点も落ち着いてくる。……だがどうしてだろう、不安が拭えない。レイフロは未だ怒っている。そう確信する。クリスの分からない何かで。酷く、強く。

「——クリス、食事にしよう」

 思わぬ言葉に。思わずレイフロを見つめ、おもむろに視線を逸らした。そしてふるりと小さく首を振る。この後に及んでまだ断食しようという意図ではなかった。ただその真っ黒な瞳が何を考えているのか分からなくなっただけで。……食事は自分達にとってコミュニケーションだ。赦し、赦される時間。それをこんな状態で行えるわけがない。

「……なぜ、」
「ん?」
「…なぜ、貴方は……怒って、いるのですか……?」

 問いかける言葉にぴくりとレイフロの指が跳ねた。まるでそんなことも分からないのかとでも言うように。覚えの悪い子どもに苛立つかのように。その指が強張る。だが何と言われようとどう考えようともクリスには分からなかった。

「……彼女は飢血の状態だった。だから与えた……ならばそれはただの人助けでしょう…?」

 むしろ、よくやったと。ようやくレディの扱いを覚えたかと。そう褒められると思っていた。そうでなくとも苦笑なり臍を曲げるなり、その程度のことだと思っていた。普段のレイフロならそうだった。それがどうして、こんなことになると思う。

「マスターも、ミス=ミランダに与えたではありませんか……」

 同じことをした。ただそれだけだ。レイフェルもクリスも互いの意思で、同意の上でやった。疚しいことなど何も無かった。なのに、なのにどうして咎められる。レイフロは怒っている。そう口にするクリスに、レイフロはすっと目を細めた。

「————クリス・・・
「…………ッ」

 真っ黒な瞳がクリスを見つめる。頬を包んでいた手が男の口元へ運ばれ、噛み切られる。一瞬の間を置いてポタリと、盛り上がった真っ赤な血が滴った。一滴、二滴と……空腹であると分かっているクリスの目の前で無情な〝餌〟が落とされる。

「——腹が減ったろう? さぁ、飲むんだ・・・・穢れたそれレイフェルの痕消しなさい・・・・・

 目が、離せない。意思ががんじがらめになる。何かに背を押されるように。錆びついたブリキの如く、クリスがぎこちなく動く。己の意思でないところで、ゆっくりと体が傾き、その指先へと口付ける。舌が傷口から膨れ上がる血に触れ、その瞬間、飢えは限界を超えた。

「……ッ、はッ……ァ、」

 溢れ出る血を犬のように舐め取り、傷が塞がれば牙を突き立て、また啜り。じゅるじゅると音を立て、浅ましく。理性のない獣のように。血を含み、飲み込む。顔が汚れることも厭わず、空腹のままに。
 そうやって血を啜るクリスをレイフロは、今日ばかりは撫でることも愉しげにわらうこともしなかった。ただジッと見ているだけ。真っ黒な瞳で観察しているだけで。それが酷く空恐ろしかった。その上、

「……ぁ、…っ…」
「——そこまでだ、クリス」

 与えられていた手がクリスの元を離れる。こんなものではまだ全然足りないのに、それに追い縋ろうとするも、その手はクリスの顎を押し上げ、喉元を晒させる。——何故。……空恐ろしさが悪寒へと変わる。ごくりと生唾を飲み込む。レイフロはこれまで一度たりともクリスの吸血を押し留めたことなどなかった。敵対していた時も。気絶すると分かっている時でさえ。クリスが満たされるまで好きにさせていたのに。何故——。

「…い、や…です……」

 まだ足りない。全然足りない。十七日の飢えはこのくらいで癒えるものではない。中途半端に口にしたことで渇きはより耐え難いものへ変わった。ハー…ハー…とクリスが牙を伸ばしたまま荒い息で喘ぐ。それでも男は気にも留めず、それどころかクリスの首筋へと舌を這わせた。

「そのままイイ子にしてろ」
「————…ッ…ぐ、…ぁ」

 つぷりと深く入り込む痛みと異物。じゅるりと吸われる感覚。レイフロが血を、飲んでいる。自分の血を。なのに——あれほど望んでいたことなのに、クリスは必死にもがいた。これは違う。違う。違う。こんなの食事でも、吸血行為でも、ない。

「…っぁ、はな、…し、て……も、……それ…、ゃ…ッ…」

 涎が垂れる。頭がぼうっとする。つらい。苦しい。なのに触れられる感覚だけは鋭敏で、ぞくぞくするのが止まらない。レイフェルの時と同じ——いや、あの時よりずっと酷い。耐えきれずすり、と内腿を擦り合わせる。嫌だ、こんなのは。前に噛まれた時はこんなことなかったのに、何故今日にして二人とも…っ……。

「——————それ・・?」

 ゆらり、とレイフロが顔を上げた。真っ黒な瞳がクリスを射抜く。そのあまりの暗さに悲鳴を上げなかっただけマシだったのかもしれない。男は少し思案した後、唇だけで嗤った。

「——あぁ、レイフェルか」
「…………ァ、…」

 逃げろ、と。頭の中で警鐘が鳴った。もはや彼はいつものレイフロではないのだと。捕食者なのだと。理性を掻き集め、渾身の力で男を振り払う。なりふり構ってなどいられなかった。ぐちゃぐちゃの感情で、それでも認めざるを得なかった。自分はもう、食事の相手でなく彼の〝餌〟なのだと——。

「…ッ、ぅ…ぐ…ッ…!」
「————どこへ行く、クリス?」

 抗い、逃げ出そうと払った右腕を逆に捻じ上げられ、うつ伏せに組み伏せられる。赤子の手を捻るように、他愛もなく。あまりにも呆気なく捕えられ、飢血よりも吸われた影響よりも恐怖に呼吸が荒くなった。

「…ぃ、…や、で…す……ッ……ゃ…っ…」
「イイ子にしていろと言ったのに——お仕置きだ」

 ゆっくりとうなじを舐め、吸いつかれる。ざわざわと、ぞくぞくと触れられる感触に背筋を振わせたのも束の間、容赦なく深く深く噛みつかれた。

「……ひッ…ァ…あ、………っ……‼︎」

 これを、恍惚と言うのか。法悦と呼ぶのか。痛みはもう感じなかった。レイフロの唇が触れる度、舌で肌を舐められる度、ただびくびくと震える体を律すことが出来ないまま、視界が霞んでいく。漏れ出すあられも無い声を殺そうと手を噛んでも全く効かず、ただただ生まれた傷から滲んだ血がほんの少しだけ焼け付く喉の渇きを癒すだけで。そうしてそのままクリスの意識は深い底へと落ちていくのだった。