「だ~~か~~ら~~~〜! チェリーは働きすぎなんだ! 長期休暇を要求する!」
レイフロはそう叫びながらバン、と強く机を叩いた。衝撃で灰皿が軽く浮く。灰が少々飛び散り、傍にいたレイモンドが目を丸くするが知ったことではなかった。クリスの元から飛び出した先、そう遠くはないのに今では懐かしささえ感じる元我が家で。レイフロはプレミアムシガーを片手に呆れたような顔をするアルフォードへと直談判をしていた。クリスの仕事を減らすため……もとい、明日からのバケーションを要求するためである。
「いくら日中動けるからってやりすぎだろ! あいつはヴァンパイアだぞ⁉︎ いつ寝るんだよ!」
「夜に寝かせてやれ。クリストファーからは文句一つ出てないんだ。何も問題ないだろう」
「出てないから問題なんだろ! 血を飲みもしないで! あんなに働かせられるか!」
自分との時間を取れないと言い訳出来るほどの忙しさで文句が出ないのであれば、それはもはや忙しいということさえ判断できていないということだ。せめて食事をしていればまだ言うことはないが、拒んでいる状況ではその仕事量は調整されるべきである。クリスが言わないのなら自分が言ってやる。レイフロは息巻いて声を上げた。というかそもそも同じ屋根の下で、同じヴァンパイアとして生きてるのに活動時間がすれ違ってほとんど会えないってどういうことだ。こっちはパートナーなんだぞ⁉︎ 夜の世界の生き物なんだぞ⁉︎ 夜に寝かせろってひとのパートナーのこと何だと思ってるんだ。
「ならば君の血を飲ませろ。それで解決だろう?」
「飲まないから仕事を減らせって言ってるんだよ! 病院連れてってみろよ! 絶対、昼夜逆転、ジリツシンケーシッチョーショーですって言われるぞ!」
「君は医者じゃないだろう……大体、クリストファーが君から血を飲まない? あのクリストファーが? 余程のことだ。君が何かしたんじゃないのか?」
「だ、か、ら! それを解明するためにも休暇を要求しているんだ! 今、俺達に必要なのは話し合い! コミュニケーション! 半裸のレディー達じゃない」
「アダム、君はいつからそんなに過保護になったんだ?」
呆れたようにアルフォードはシガーを口にし、紫煙を吐き出す。君は彼を甘やかさない主義だと聞いていたのだがね? という皮肉付きで。反射的にレイフェルのやつ……とレイフロは苦虫を噛み潰したような顔となった。『息子』相手にそんなありがたい助言をしてくれる奴なんてアイツくらいだろう。こんなことになると分かっていて口にしたに違いない。
「フンッ。俺は『息子』は甘やかさない主義とは言ったが、パートナーまでそうとは言ってない」
「なるほど、確かにそうだ」
誰が聞いても分かる詭弁だが、ひととはそういうものだ。そっぽを向いてあからさまに開き直ってみせるレイフロにアルフォードはにっこりと笑ってみせる。天使のように愛らしい子どもの顔で。そしてシガーの灰を落とすと、これまた天使のように愛らしい声で言った。
「それでは私が君達に試練を課そう。却下だ。話にならない」
「ぐうう……」
「第一、君は本当にクリストファーが忙しいからこうして文句を言っているのか? 忙しくする彼を見て君が勝手に後ろめたく感じているからではないか?」
痛いところを衝いてくる。噛み砕いた苦虫を更に百匹追加したようにレイフロは顔を顰めた。息子のくせに容赦も躊躇もない。
「……まぁ、それもある。元はと言えば俺のせいであんな世界に足を突っ込むハメになったんだ。あんな生き方、望んでなかっただろうに」
「初めはそうだろう。だが今はクリストファー自身が選び、承知の上で続けている。それを無視して止めさせるのは違うのではないか?」
アルフォードの言葉は正論だった。クリスからみても、きっと余計なお世話だろう。当然だ。クリスが決めたことなのだから。自分はただ黙って見守ってやればいい。ヴァンパイアなのに聖職者であろうとしたように。ハンターとして同胞を狩っていた頃のように。これまでと同じくこれからも。そう分かっているのに口を出してしまうのは、これがクリスの意思で始めたものではないからだ。レイフロだって分かってる。これがエゴだということは、十分に。
「……アルフォード、クリストファー・J・ゴスの顔はどれほど売れた? どれほどの写真を撮られた? ……あとどれだけの寿命が残っている?」
「…………」
「あいつはヴァンパイアになっても聖職者として生きてきた。ハンターとして人のために戦ってきた——人間の中で生きてきたんだ」
永く生きたからこそ分かることもある。広く顔が知れたその先を。その生きづらさを。クリストファー・J・ゴスとして人生が終わることのその意味を。
「クリストファーとして死んだらあいつはもう公には出られない。少なくとも百年、いや今の媒体を考えればそれ以上に、人前には出られない。今の仕事を続けていれば続けているほど更にその期間は長くなる。…それに、」
いつか、静かに涙を零し、呆然としていたクリスの姿を思い出す。サムエル・カザンの死のように。あれはいつだって人を愛し、信じすぎて、仕方ないと割り切るには情が深すぎた。
「人を知れば知るだけ、あとで辛くなるのはあいつだ……」
たとえどんなに親交を築いても、その子どもを抱くことも、その者の葬儀に出向くことさえきっと出来ない。老いることのないクリストファーは人間と共に生きることが出来ないからだ。だからあと数年で彼は自然の法則から外れる前にこの世を去る。そうして闇へと潜り、その記録が、人々の記憶が、塵となり思い出されなくなるまで表舞台から姿を消すのだ。それがどれだけ哀しいことか。辛いことか。永く生きているからこそレイフロは知っている。怠惰と享楽に耽けようともそうやって心に刻む人間が一人二人は居るものだ。ならば実直で誠実な〝クリストファー〟は尚のこと、今後どれほどそのような人間に出会うだろうか。
「……どうせ傷付くなら傷は浅い方がいいだろう?」
「とは言え今更だ。既に広く知れ渡っている今、急に止めたところで結果もそう変わるまい。ならば今のうちに人として生きるのも悪くないだろう。クリストファーもそう判断したのでは?」
アルフォードがじっとレイフロを見つめる。幼く可愛らしい子どもの顔をしているのにその瞳だけは永く生きた老齢のヴァンパイアそのものだった。レイフロと同じ、こちら側に生きる者の目。情には流されぬ者の目。嘘を吐くのが得意な者はもしかしたら真実でないものを見破ることさえも得意なのかもしれない。その目がすっと細められる。
「アダム、これはビジネスだ。君やクリストファーの好き嫌いでどうこうなるものじゃない。誤魔化しや建前だけで押し通すつもりならお帰り願おうか」
切って捨てるような物言いに小さく舌打ちする。かつてアダムに執着していたアルフォード相手なら多少お涙頂戴の話でもすれば休暇ついでにクリスの仕事も減らせないかと思ったがそうそう上手くはいかないらしい。もちろん先に述べたことに嘘はない。クリストファーという存在にレイフロは両手を上げて賛成することは出来ない。だがそれが全てでもない。特に今回は理由が理由だ。ここで話を降りられるのは困る。降参だとばかりにレイフロは溜息を溢した。
「……分かった。シンプルにいこう。──最近、仕事先のお仲間が急に体調を崩した、なんてことはないか? 例えばそう、綺麗な顔をしたモデル、アイツを気に入りそうな金持ち……あとはそうだな、レイモンドお前は?」
「体調、ですか? 特に問題は……」
突然名指しされ困惑しつつもレイモンドはゆるゆると首を振る。秘書としてクリストファーによく付いているから、こちらかと思ったがどうやらハズレのようだ。アルフォードを見れば何やら深く考え込んでいた。どうにも反応が悪い。それならばと次の可能性を挙げようとした時、レイモンドが思い出したように「ぁ、」と小さく声を上げた。
「……何かあったのか?」
「いえ、ここ数日二、三回ほど眩暈のようなものがあり、クリストファー様にご心配をおかけしたことを思い出しまして…ただそれ以外では本当に何も」
「…………眩暈だと?」
考え込んでいたアルフォードがレイモンドを見、微かに眉をひそめる。体調不良。眩暈。身近な人間。そして何かに思い至ったかのように目を見開くと、レイフロを見上げた。ビンゴだ。
「…クリストファーは血を飲んでいないと言ったな? なるほど……今日も相手役が途中で抜けて撮影が切り上がったばかりだ」
てっきり『他からの悪意』かと思っていたが。手間が省けたのか余計面倒になったのか。困ったものだとそう言って肩を竦めるとアルフォードはレイモンドへと視線をやった。
「……レイモンド、スケジュールの調整は可能か?」
「え……? えぇ……前倒しで行っていたものもありますので………そうですね、四日程ならば明日からお休みしていただいても支障はないかと」
タブレットを手に、明日からの予定を確認したレイモンドは当惑しながらも慌てて頷く。彼もまだ、よく分かっていない様子だった。クリスと同様に。それならばそれで良いとレイフロは思う。世の中には知らない方が幸せなこともたくさんある。ほんの少しの親心だとしても。決まりだな、とアルフォードが頷いた。
「良かったな。ウォルターには特別に私から連絡しておこう。良い休暇を」
「短い。二週間くらい貰ったってお釣りが来るだろ」
「ロングバケーションを取りたいのならば次は半年前に申請するんだな」
クリストファーにはよろしく伝えておいてくれ。アルフォードは話は終わりだとばかりに深く紫煙を吐き出すと、もう興味はないとでも言うようにレイモンドからタブレットを受け取り、タップした。可愛げもなければ、取りつく島もない。仕方ない、ここらが引き際か。へいへいと生返事をしながら、踵を返す。希望より短いが、こんな時間に明日から休みならまぁ上出来だろう。じゃあな、とでも言う代わりに手を上げて帰ろうとした時、アルフォードはぽつりと呟いた。
「アダム────彼は美しいな」
独り言のように投げられた意味ありげな言葉に。ピタリと足を止める。振り返ればアルフォードはタブレットに映る、何の表紙か、大きく映るクリストファーの画像を指でなぞり、見つめていた。
「ヴァンパイアにあるまじき白さだと思わないか? 真っ直ぐでまっさらで真っ白で、……まるで何も知らない子どもだ」
誰かさんの教育の賜物か。そう遠回しな批難にも似た声に、目を細める。
「……何が言いたい」
「いやなに、他人のパートナーにどうこう言うほど無粋ではないのだがね、彼はあまりにもヴァンパイアというものを理解していないような気がしてね」
おもむろに顔を上げたアルフォードがレイフロの瞳を射抜く。まるで年長者のような顔をして。警告でもするように。
「過保護は結構……だが気を付けるんだな。クリストファーは外に生きる者だ。レイモンド達とは違う。ならば無知はもはや諸刃の剣だ。一歩間違えれば相手も、彼自身さえも傷つける。今回のように」
————君が何も教えないから。
そう暗に告げるアルフォードに、思わず苛立ちが湧いた。核心を突かれたように、余計なお世話だ……! と、そう声を上げようとしたが、声にはならなかったのは瞬間、激しい羽音と共に大量のコウモリがテラスから舞い込んできたからだ。
「…………ッ⁉︎」
「————やぁ、アディー。それにアルフォード・ウェインも。ご機嫌よう」
「バリー……」
人の姿へと変えたコウモリ——バリーは老いた姿のまま優雅に微笑むとキョロリと周囲を見て取った。
「おや、レイフェルはここに居ないのかい? なるほどなるほど。あぁアディー、〝息子〟との歓談を邪魔されたからと言ってそんなに睨まないでおくれよ」
フフ、フフ。相変わらずというかそれ以上に、輪をかけてやけに機嫌の良い様が逆に不気味で、レイフロの眉間の皺はますます深くなっていく。同じくアルフォードも不穏な空気を感じ取ったのか咥えていたシガーを灰皿で押し消すと、ゆっくりと机上で指を組んだ。
「……一人とは珍しいものだ。何の用かね。ミスター&ミス バリー」
「ご挨拶だね。おぉ、君までそんな怖い顔をしないでくれ給えよ。私はただレディに頼まれてアディーを探していただけさ。彼女が見つけられなかった時の万が一の保険としてね。……まぁここにレディがいない以上、本当に〝保険〟となってしまったようだが」
バリーが悪魔的に嗤う。意味が分からないことをさも意味ありげに語り、こちらを流し見る。
「まぁ状況からして、レディはここより先に君の家へ向かったということか……しかし、問題はないのかな? あの家の主はどこぞのテキトーな〝馬の骨〟だと君も言っていたのだし」
「……さっきから何を言ってる。見た目だけでなくとうとう中身までも老いぼれになったか?」
「フフ……なぁに、大したことではないさ。レディが少しばかり腹を空かせていたから気になってね」
クスクス。クスクス。嗤いながらバリーは赤い唇を引き上げ、手を掲げる。そうすればどこからともなく現れたポロンがその掌へと着地し、縫い合わされた口を大きく開いた。
「…………?」
「…………っ⁉︎」
口の中に映る映像。それがゆっくりと旋回する。十字架。書棚。ベッド。クリス。…………レイフェル。不儀の逢引きの垣間を覗くかのように、ポロンが抱き合う二人の映像を映し出す。レイフロのよく見知った、部屋の中を——二人の家の中を。
ドクリ、と心臓が跳ねた。なんだこの映像は。クリスは一体何をしている。
「……どういう、ことだ、」
「おや、思っていたより穏やかだね。もっと悲惨なものが見れると思ったのに」
実に残念だと言わんばかりのバリーの声に、それが作られた虚像ではなく、現実のものだということが分かった。今、この向こう側で実際に起こっていることなのだと。
「あぁ、でもそう言えばエヴァの好みは〝純潔の乙女〟だったね。ならば彼もそういう意味では合格なのかな?」
フフ、フフ。さも愉快だとでも言うように。バリーは嗤う。嗤う。可笑しそうに。嘲笑うかのように。他人の不幸がさも美味であるかのように。
「…何なんだ、これは? クリストファーとレイフェル……? 何故、二人が共にいる? 何をしているんだ……?」
「おやおや、アルフォードの坊やにはまだ早かったかね? だが、そんなに難しい話でもないさ。言ったろう、エヴァは腹を空かせていたと」
「……まさか、クリストファーが、血を……?」
「バリー……! お前、何をした!」
ありえない。下がった血が一気に頭へと上る。ありえない、その一言に尽きた。レイフェルも、クリスも。そんなことをするタマじゃない。やれるわけがない。外的要因でもない限り——。怒りで目の前が真っ赤に染まる。憤怒の表情で顔を歪ませ、歯噛みするレイフロに対し、バリーは如何にもなんでもないように平然と肩を竦めて見せた。
「おや、人聞きが悪い。私に父はもう宿っておいでではないよ。だから何か出来るはずもない。選んだのはエヴァさ。私はアディーを探す傍ら——見ていただけ」
特にクリストファーには辛酸を舐めさせられたからねぇ。良い気味だとでも嗤うように体を揺らすバリーの胸ぐらを、とうとうレイフロは掴み上げた。
「っ、お前……!」
腹ワタをほじくり返されても届かなかった怒りが頂点に達す。バリー相手にこんなことをしても何の意味もないと分かっているのに、キリなどないと分かっているのに、それでもやらずにはいられなかった。この後に及んでまだ自分を挑発しようとは……!
「消してやる…ッ…‼︎」
今や悪魔の力ではなくチェリルやレイフェルの契約で生きているのだろうが知ったことではなかった。今すぐ首を刎ね飛ばして地獄へ送ってやる……! 殺意を以て腕を振り上げれば、その瞬間、バリーはとてもとても満足そうににたりと嗤った。
「フフ……良いのかね、アディー? こんなところで私相手に油を売っていて。こんなことをしている間にも、君の大事な大事なクリストファーがミイラになっていなければ良いのだが」
純然たる悪意。悪魔的、愉悦。それに、冷たいものが滑り落ちる。こいつは何を言っている。ミイラ——? それこそありえない。あのレイフェルが、それだけ腹を空かしているなどまるで、
「まさか、飢血…………?」
それなら説明がつく。ついてしまう。だが、何故だ。何故レイフェルがそんな状態になっている。アイツをそこまで追い詰める事が出来る者などそうそう居ないはずだ。アイツを造り、操ることが出来る……外的要因くらいしか。————悪魔!
『…あぁ愚かしくも愛おしい私のアダム。何と憐れな事であろうか。君はこれより永い永い時をかけ残り二つを見つけ出さねばならない。——再びそれらを失う為に』
——見つけられた。
ぶわりと瞳孔が開き、膨らむ。声にならぬ感情が駆け巡った。ふざけるな! そいつは、クリスだけは俺の、俺だけの————。掴んでいたものを突き放し、屋敷の窓から飛び出す。背後で嗤うバリーの声がやけに耳に残った。