Adam’s CHERRY-1

「チェリーの分からず屋~~~!」
「って……マスター⁉︎」

 瞬く間も無くバサバサ、キィキィと渦巻く風と共に窓から飛び出していくコウモリの大群。煽られるようにふわりふわりと揺れるカーテン。しばし呆然とそれを眺め、やがてやってしまった…とでも言うようにクリスは顔を覆うと、深く深く椅子へと座り込んだ。ローテーブルへと目を向ければ未だけぶるように漂う濃厚な紫煙。灰皿に積まれた山のような吸い殻。——それがレイフロの静かなる抗議の声と長い長い忍耐の証だった。

 

 

 クリストファー・J・ゴスは実に多忙な人物である。メディア、モデル、イメージキャラクター。人権活動家としての仕事に、何かと顔出ししなくてはならない数々のパーティ。ヴァチカンの所属から離れ、その任務や報告義務から解き放たれようとも、やることは山とある。ある時は朝から晩まで撮影のためにとスタジオへ呼び出され。またある時はお仕着せに身を包み、華やかなホールでスポンサーという名の資産家達へと愛想を振り撒く。ノクティアンの社会的権利および環境維持へのパイプ作りもそうであるし、宣伝、広告、チャリティーと名のつくものまで。その種類、内容は多岐に渡る。そのため手配、スケジュール、その他詳細に至るまで全て及び一部を以前と変わらずアスカムとアルフォードに任せていた。クリストファーのプロデュースに関して彼ら以上のプロフェッショナルはいないからである。ヴァンパイアであることを考慮に入れつつ、クリスの特性、要望にも対応できる彼らはクリスとしてもやりやすかった。ただここ最近は露出を控えめにしていた初期とは打って変わり、彼らはヴァンパイアであるクリスがいずれそう遠くない時期に引退を余儀なくされている身と分かっていてか最大限の利益還元に余念がなかった。使えるものは使える時に使っておけ。腐らせておくな。和解し、対等な意見を交わせる仲となってもビジネスとなれば話は別である。この世界ではクリスがいくら歳を重ねていようと雛同然なのだ。とは言え、クリスもクリスで生真面目な上、言うほど不満もない分、回される仕事は完璧にこなしていた。『都合が良かった』というのもある。しばらく他の事に没頭していたい時期でもあったのだ。特に要望もなく淡々と仕事をこなしていった結果、これもそのうちの一つとして回されたものだった。クリスはアルファベットの並ぶ画面を目で追うと、おもむろにキーボードへと指を伸ばした。
 

 クリストファーの仕事は主に対人で、家の外で行われることが多い。それでも報告書や意見書などレポートを求められることは決して少なくなく、これもそういった類のものだった。昼過ぎにカタログモデルの撮影を切り上げ、帰宅をすればレポート作成のために机へと向かう。夕方までには終わるだろうとキーボードを叩き続け、没頭し、時計さえも見ようとしなかったのが全ての間違いだったのだと今なら思う。ヴァンパイアの目は特殊で人間と違い、夜闇でも問題なく見通せる。故にパチリ、と照明が点けられるまでレイフロが起きていたことにさえ気付かなかった。振り返ってみればその時点で彼の機嫌はそれほど良くなかったのかもしれない。まぁ、ここ数日からして彼の機嫌が良かったのかも謎であるが。
 おかえり、と言われてえぇ、とだけ応え、また画面へと向かう。それを見て何か言いたげにチェリーと呼ばれてなんですかとそっけなく応える。それに溜息一つ溢して出掛けてくると彼が言う。それがここ最近のルーティンだった。だから今日もそうなのかと思っていた。だが今日に限って彼は煙草を咥えたままクリスの顎を掬い上げると、目を逸らすことは許さないとばかりに顔を覗き込んだ。

「……十七日。なんのことか賢いチェリーなら分かるよな?」
「…………チャーリーです」
「若いモデル達の精気は美味かったか?」
「……ヴァンパイアが淫魔のように精気も吸えたなんて初耳ですね」

 遠回しな批難と皮肉を躱しつつ、もうそんなに経っていたのかと少しだけ驚く。十七日——それは言うまでもなく、最後の食事をした日から今日までのことであり。二週間と少し。つまり血を口にしていない日数だった。仕事に仕事を重ね、仕事を言い訳にしてクリスはここ最近、何かと食事を避けていた。まだ問題ありません、仕事の邪魔です。そう言ってはレイフロを袖にし、仕事に没頭し続けた。そしてそのことにとうとうレイフロが痺れを切らしたというわけだ。
 顎を持ち上げる手を押しのけようとするも、想像以上にガッチリと掴まれており。ビクともしない。それどころか、ニッコリと嫌なくらい良い笑顔を浮かべる様は本気の不機嫌さを滲ませていた。

「断食もどきをするなとは言わない。けど約束くらいは守るべきではないのかね、アルツハイマーのチェリーくん?」
「約束って何ですか、約束って………、約束……? ぁ、」

 〝分かりました! でもあと三日は待ってください。こちらにも仕事の都合というものがあってですね……〟
 そうであったと今更ながらに思い出し、気まずげにクリスは目を逸らす。三日前。あまりにもしつこい彼に対し自棄半分で応えたのは自分だった。口からでまかせとまでは言わないが、確かにそう言った。クリスの様子にようやく思い出したかと言わんばかりに肩を竦め煙を吐き出すと、咥えていた煙草を離し、額をコツンとぶつけられる。

「チェリー。お前は一体何を怒ってるんだ」
「……何か怒られるようなことをした自覚でもあるんですか」
「誤魔化すなよ。お前、俺の気配にも気付いてなかっただろう。その歳でもう空腹限界を忘れたか? ん?」
「忘れていませんし、気付いています。現に今、貴方と話してるじゃないですか」
「あぁ、そうか。そう言うなら俺は二時間もお前に無視され続けたってわけだな」
「二時間……? って、何のことですかそれ、は…………ッ⁉︎」

 どういう意味だと思った瞬間、慌てて壁に掛かる時計を見上げる。そこで示す針の位置は時刻二十二時過ぎで。宵闇の時間。夕方などとっくに終わり、彼の支配する時間であった。仕事に没頭? 違う、そういうレベルじゃない。明らかに血が足りていない感覚の欠損だ。恐る恐るというようにゆるりと視線をソファ、そしてローテーブルへと動かせば、そこには未だ漂う白い煙と、山のように積まれた吸い殻の山。彼の言葉の通りであるならば、レイフロは二時間ずっとそこに居たことになる。クリスが気付かなかっただけで、ずっとそこに。クリスの頬が引き攣ったのはある意味当然とも言えた。

「何故、声を掛けてくれないんです……」
「掛けたさ。もう少し待っててくださいって振られたからここに居たんだろう……って、それもどうやらおじーさんは覚えていないようだ。献血の前に病院に連れて行ってやろうか?」

 責めるどころかまんまと墓穴を掘ったことに気付き、思わず歯噛みする。が、それも上手くいかない。眩暈がしそうだった。仕事仕事と詰め込んで忘れかけていた飢えが一気に思い出したかのように腹の底から湧いてきたせいだ。匂いが近すぎる。ずっと避けてたのに。じゅわりと口内に唾液が溜まっていくのを感じ、生唾を飲み込んだ。十七日。それはクリスが飢えるには十分な期間だった。むしろ同じ屋根の下で暮らしているのなら長すぎるくらいである。ここらが打ち止めだ。そうと分かっているのにそれでもまだ意地を張るのは自分の悪い癖だった。

「…ッ、そうだとしても! もう少しで……終わるんです。せめてキリの良いところまで終わらせたいと」
「それは二時間前にも、なんなら三日前にも聞いた。いい加減働きすぎだ、チェリー! 今、自分がどんな顔色してるか鏡見てみろ」

 鏡に映るヴァンパイアがいたらとっくの昔に捕まえて博物館に寄贈してますよ! と、そんな言葉が続かなかったのは唇をなぞる指先が、その中へと割り込み、入り込もうとしたからだ。咄嗟に彼の体を突き放す。力の加減なんて出来なかった。だが無意識に伸びた牙の先で傷でも付けられれば箍が外れる。それだけは、絶対に嫌だった。

「ですから、もう少しで終わるんです! それまで大人しくしていてください! 仕事の、邪魔です……!」
「……っ、チェリ〜〜……!」

 たたらを踏み、あまりにもつれないクリスの態度に男はとうとう口角を上げつつも額に青筋を立て。へぇーふーん、ほぉ〜〜〜〜? と、完全に臍を曲げると、この意地っ張りめ! とばかりに声を上げた。

「もう腹減り過ぎて倒れても知らないからな……!」

 そしてそれに続く言葉が冒頭のセリフなのであった。

 

 カタカタと数行打ち込み、そして止まる。順調に進めばあと十分も経たず終わることは分かっていたが、それでも何度も手を止めてしまうのは、出ていってしまったレイフロが気がかりだったからだ。
 彼は何もクリスに血を与えるためだけに食事を促したのではない。もちろん血の摂取も重要不可欠な理由ではあるが、クリスと彼の食事はそれだけには留まらないものなのだ。感情のやり取り、体のコミュニケーション。肌を重ね、唇で触れ、血を与え、与えられ、赦し、赦され、愛し、愛され、満たされる。言葉では上手く伝えられないことも、食事の間だけは真っ直ぐ素直に伝えられる。クリスだけでなくレイフロにとっても大事な時間であり、主従という一方的な関係でなく互いに通じ合うパートナーだからこそ余計、疎かにしてはいけないものだった。だからこそ彼はその時間を粗雑に扱われ、怒ったのだと、クリスは改めて思う。どう考えてもクリスが悪い。変に意地を張ったから。

「やはり探そう……」

 そして謝らなければ。仕事なんかよりあの人の方がずっと大事だ。チェリーと呼んでいたからまだ本気で怒っていないはず……。
 諦めて立ち上がり足早にドアへ向かおうとしたその瞬間、ぶわりと開いたままの窓から風が吹き込む。それと同時に騒々しく響き渡る数多のコウモリの羽音と鳴き声。翻るカーテン。月光に照らされ透けるように映し出される人影に、まさかもう帰ってきたのかと訝しげに思うもそれも一瞬で、クリスは待ち望んでいたとばかりに窓辺へと足を踏み出した。

「マスター……ッ…⁉︎」
「……残念だったなァ、大好きなパパじゃなくて」

 それは低く——けれど想定していたものよりもずっと高い女のハスキーボイスで。その声と共に滑り込むように入ってきた影は勢いのままクリスを押し倒すと、そのまま腹の上へと座り込んだ。探しに行こうとしていた男と一瞬見間違うほど、瓜二つの顔をして。

「ぐ…っ、ぅ…レイ、フェル! なんっ、ですか急に! というか何をして!」
「その様子だとレイフロは……居ない、か。まぁ良いや、お前で。緊急事態なんだ。助けてくれよ心優しい牧師様」
「だから私は牧師ではないと……ッッ⁉︎」

 挨拶にもならない挨拶をそこそこに身に纏っただけのシャツを剥ぎ取られ、首筋に舌を這わせられる。性急かつ突拍子もない行動。そんなあまりにも急な展開に頭が追いつかずクリスは叫ぶように声を上げた。

「レイフェル……‼︎」
「言ったろう、緊急事態だって。お前の血、寄越せ」

 普段から顔を合わせればろくなことが起きない相手とは言え、何をどうしたらそんなことになる。今にも噛みつこうする頭を押しやり、クリスはキツく睨みつける。レイフロならともかくレイフェル相手など、冗談ではなかった。

「…っ、突然、人の家に上がり込んで来たかと思えば随分なご挨拶ですね……! 断固お断りします!」
「冷たいなチェリー? あんなに何度も熱いキスをした仲だっていうのに」
「不可抗力かつ大変不本意な記憶ですが……! そういう仲をお求めならば貴女にはチェリルがいるでしょう!」

 私を巻き込むな! そう肩を押してどうにか腹の上からどかそうと抗うも軽いはずの体はどうしてかぴくりとも動かない。ヴァンパイアはミステリアスで出来ている。そんなくだらない彼の言葉を思い出し舌打ちしながらも、それでもなんとか抜け出そうと必死に抵抗した。しかしそれを嘲笑うかのようにレイフェルはクリスの頭を抱き寄せると、その耳へ子どもに言い聞かせるように優しく囁く。

「……あぁ大好きなパパのミルクしか口にしたことのない〝ベイビー〟には分からないんだったな?」
「だからパパではなく歴としたパートナーだと何度言えば……っ、レイフェル…?」

 抗う手が、ぴたりと止まる。つ、と背筋に冷たいものが滑った。急激に部屋の温度が下がったかのような寒気に襲われ、クリスは身震いする。なんだ、これは。何か得体の知れないもの——恐怖に近い何か。ゆっくりと視線を動かすと、表情を消したレイフェルの顔がそこにあり。その瞳が澱んだように光を消したまままクリスの瞳と合わさると、ぽつりと呟いた。

「……わざわざ好きな相手に自分がただただ穢れた生き物であることを知らしめる行為なんて真っ平ゴメンなんだよ…同じ生き物ならともかく、チェリルはまだ人間だ」
「…っ、………」

 何かいけないものを踏んでしまった。そう思ったのも束の間、レイフェルはさっと表情を改めると、まるで何事もなかったかのように続けた。溜め息付きで。

「……で、レイフロはどこにいる」
「…ッ、……あいにくマスターは出掛けています」
「それは分かってる。どこへ行ったかと聞いてるんだが……、その調子じゃ知らなそうだな」

 ならいい。もうクリスに用は無いとばかりにレイフェルが立ち上がる。あれほどどかそうにもどかせなかった体があっけなく離れていき、半ば呆然とするも、その一瞬、ぐらりと体が傾いだように見えたのは気のせいか。邪魔したなとばかりに手を上げ、窓枠に足をかけるレイフェルをそのまま見送ろうとしたが、ハタと思い至り、クリスは慌ててその手首を掴んだ。

「……マスターに何の用です」
「お前がダメならアイツに貰うんだよ。さすがのアイツも、私が理性飛ばしてそこらの人間喰い散らかすくらいなら、自分の血の方がマシだろうからな」

 想像していたよりも遥かに余裕のないレイフェルの声色に、先程の緊急事態だという言葉が喩えでも冗談でも無いことにようやく気付く。それほどまでに真剣味と仄暗さを伴ったレイフェルの声は、振り向いた瞳は、さながら飢えた獣のようであった。血への欲求。抗えない欲望。何度も飢餓に襲われ、断とうしても結局は断てなかったその渇望は自分もよく知っている。〝餌〟を前にすれば理性も信仰も簡単に吹き飛んでしまうほどに。愛する者さえ喰い殺しかねないほどに。その飢えは凄まじい。こうして今まともに会話が続いていることすら奇跡的なくらいに。ギリ、と歯噛みする。
 身を以て知っているからこそ、脳裏に過ぎるのは凄惨な光景だ。手当たり次第に喰い散らかされるかもしれない罪なき人々。……もしくは自分以外に容易く血を与えるであろうレイフロの姿。

(また……)

 じくり、と胸の奥が痛みを覚える。また、誰かに与えるのか。その血を。その身を。自分以外に。誰かのために。容易く、容易く……。いつかの、ミランダ・シーガルのように。メイラー・ハウゼンのように。

『あのなァ、チェリー。いいか? 仮にモンスターだとしてもだ。レディには優しくするもんだぞ』

 血を与えることに何の意味もないとでも言うように。その行為に自分がどれほど妬ましくどす黒い感情を持て余すのか考えもせずに。またどこかであの光景が繰り返されるというのだろうか。自分の知らないところで。自分の知らないうちに。仕方ないと肩を竦め、そう言うのだろうか。自分を置いて。————そんなこと。

「…レイフェル、……私の血でも良いと言いましたね」
「……ッ…、」

 折るつもりかとでも言いたいくらいに力を込め、握りしめるクリスを見、レイフェルは小さく息を呑んだ。一体どんな顔をしているとでも言うのか。嫉妬に狂った顔か。はたまた誰かを縊り殺しでもしそうな顔か。どうでも良い。全てがどうでも。彼が誰かに血を与える機会を潰せれば、それで。それ以外ならなんでも良いと。そんなクリスの思考を読み取ったかのようにレイフェルはごくりと喉を鳴らすと、にたりと極悪人のように嗤ってみせた。
「そりゃあもちろん、童貞チェリーでなくとも処女の血は美味いと相場は決まってるからなぁ?」
 交渉成立だとばかりにレイフェルは唇に赤い舌を這わせた。