Adam’s CHERRY-4

  ——カシャンと微かな音を立て、最後の扉の錠が落ちる。そうすればシン……、と静寂が佇み、灯りひとつ届かない暗闇に支配された。男は最後の仕上げとばかりに指を牙に滑らせる。ざっくりと切れた傷口からとろりと溢れ出た血液はあっという間に膨れ、パタパタと床に落ちて。闇と交わりブクブクと沸騰したように泡立つと、その形を変えていく。
 血は鉄に。鉄は鎖に。鎖は檻に——。
 男は——レイフロは指先から滴る余った血をゆっくりと舐め取ると、己の血から創り出したものをじっと見つめた。寝台を囲むように創られた頑丈な檻。床を這う鈍色の鎖。継ぎ目さえ見えない滑らかな枷。……無機質を生み出すのは、生きた人形を創り出すより遥かに容易いものだ。
 毛足の長い敷物に足音を吸われながら、寝台へと近付く。そこには意識を失ったまま横たわるクリスの姿があった。……負担が大きかったのだろう。ここに連れてくるまで、一度も目覚めることはなかった。元々体が飢えていたところに二人のヴァンパイアから血を吸われたのだ。いくら気丈だとしても急激な血の不足に体は耐えきれなかったのだろう。それもまぁ、一時的なものではあるが……。ヴァンパイアは想像以上に頑丈な生き物だ。たとえ血が足りずとも最低限、自己回復で補うことができる。この眠りもその一助のようなものだ。支柱から繋がる鎖の先、眠るクリスの手首に口付ける。

「……目覚めたら、お前の純潔を奪わなくては、な」

 嵌った手枷をさらりと撫でる。片腕だけの簡単なものだった。だが今のクリスにはそれだけで十分だった。十分なほど、ヴァンパイアとしての力は弱まっていた。元々最低限の血しか飲んでいなかったのだ。口にする期間が空けば空くほど容易く力を失う。更に血を失い、力を使えば尚更だ。今のクリスは力だけで見るならほとんど常人と変わらなかった。——故に。クリスはもうこの屋敷から出ることはない。この枷を外すことも、檻から出られることも。ずっとこのまま、ここに居るのだ。
 ゆるゆると掌でクリスの体に触れていく。腕から肩、肩から顎、顎から胸、胸から腋、腋から腹……。始めは鈍い反応だったものが少しずつ鋭敏さを増していく。

「……安心しろ。痛くはない。俺が慣れてるのはお前も知っているだろう?」

 意識のない下腹を撫でれば、ふ、ふ、と息を乱し、体を捩る。吸血の際に与えた催淫の効果が今尚続いているのだろう。狩りをしたことのないクリスが、知るはずのないこの能力を知っていた上に自分の元から逃げ出そうとしたことでつい加減を忘れてしまった。だがまぁ、……どちらにせよ結果は同じだ。ただ少し長引くだけ。

「イイ子だな、クリス。イイ子だ。……上手に興奮できてる」

 残る首筋の牙の痕を指でなぞれば、それさえも感じるのか顔を歪め。厭うように拒もうとする姿にほんの数時間前の光景が脳裏に蘇る。血の気の引いた顔。瞳に映る怯え。どうしてこんなことになったのか欠片も分かっていない表情——。
 
 〝アダム————彼は美しいな〟
 『…なぜ、貴方は……怒って、いるのですか……?』
 
 〝ヴァンパイアにあるまじき白さだと思わないか? 真っ直ぐでまっさらで真っ白で、……まるで何も知らない子どもだ〟
 『ただの人助けでしょう……?』
 
 〝彼はあまりにも我々ヴァンパイアのことを理解していないような気がしてね〟
 『マスターも、ミス=ミランダに与えたではありませんか……』
 
 ……あぁ、そうだ。俺はお前がヴァンパイアの性質から遠ざかれば遠ざかるほど安堵していた。何も知らないまま生きてくれればと願いさえした。コウモリになれなくても、狩りの仕方を知らなくとも良いと思っていた。真綿で包むように育ててしまった。——その結果がこれだ。パートナーという言葉の重みも、パートナー以外に血を与えることの意味さえも〝人が考える領域〟から出なくなってしまった。
 さらさらとクリスの髪を梳く。きっとこれから先もクリスが理解することはないだろう。だが、それでいい。それがいい。ヴァンパイアという穢れた生き物がどういうものなのか知って絶望するより、訳の分からない目の前の暴力に怯え、憤っている方がずっとマシだ。

「…………ん、」

 ぴくりとクリスの瞼が痙攣する。続いてゆるゆると持ち上がり、何度か瞬いて視線を彷徨わせる。あぁこんな時、普段はどんな顔をしていただろうか。何と言って揶揄っていただろうか。今はそれさえ思い出せない。

「起きたのか、クリス………腹、減ったろう?」
「………………?」

 梳いていた指でまなじりに触れ。起き抜けのぼんやりとした無垢な表情に目を細めながら、レイフロは唇へと深く口付けた。

「ッ…ん、ン……!」

 熱い咥内。元より興奮していたことも加勢して、クリスの身体はぶわりと熱を上げる。何が起きているのか、何をされているのか分からないまま抗おうとする身体を組み敷き、唇を開かせ、舌を入れてやる。怯えた舌がぴたりと触れ合った。

「…ァ……ン、ん…ふっ……」

 そう言えばディープキスは久々だったか。なんにせよ、今のクリスには必要なことだ。クリスの体には血が足りない。二週間以上も血を口にしていないからだ。なのに以前ほど弱ることも、レイフロを前にして空腹に苛まれ、血に飢えた様子を見せることもなかった。可笑しいとは思っていた。いくら昼間に動けようと、日に当たれようとクリスはまごうことなきヴァンパイアだ。血の運命から逃れることなど出来やしない。レイフロ以外の血を口にしていないのであれば、その答えはただ一つ。血への欲求を別の何かで埋めているのだ。——そう、他人から精気を吸って。そしてその予想は当たっていた。
 血を失いすぎて意識を飛ばしたクリスは肌に触れるレイフロから精気を吸い始めたのだ。最も効率が悪く、危うい方法で。クリス自身、精気を吸えることを知らなかったあたり、コウモリ化出来るようになってから少しずつ本人の預かり知らぬところで勝手に能力が開花し始めたのだろう。飢えという危機の前だ。仕方ないと言ってしまえばそれまでである。だがレイフロにしてみれば、そうやって自分以外の者で腹を満たしていたという事実は酷く業腹だった。血ならまだ分かる。だが、精気はダメだ。それは他人から向けられる情をクリスが受け入れたということなのだから。

「っ……ン、ぅ…っ、…ァ……」
「…こら、ちゃんと喰わないと後から辛いのはお前だぞ」

 無意識に逃げようとする舌を絡めとり、押しつける。吸いついて、容赦なく精気を流し込んで、強制的に喰わせようとすればびくんと肩が震えた。

「…ンッ、ん、ん…っ……!」

 くちゅりと音を立て、吸いつきながらレイフロは何度でも与える。咥内を舐めまわし、上顎に触れ。舌同士で擦り合わせて、唾液を啜って。ただでさえ慣れていない行為の上に、粘膜越しでの精気の遣り取りは肌越しよりもずっと濃密なのだろう。少なくとも逃げようと押し退けていた手が、次第に縋る形になるくらいには刺激が強いはずだ。

「…っ…は、…ッ、ァ……ゃ、…血、を」
「────噛むなよ・・・・、クリス」

 今にも牙を立てようとするのを制し、視線を合わせ、強く命じる。その瞬間、体はびくりと跳ね、硬直した。──精神支配。と言ってもほんの軽いものであるが、隷属であるクリスには十分なものだった。意思を縛られ、何が起こったのか分からず視線を彷徨わせながら、噛みつくことも、込み上げる欲求を抑えることも出来ず、ぽたぽたと涎を滴らせる。その口端をべろりと舐め、再度口付けては血ではなく精気を与えた。何度も、何度もしつこいくらいに、精気の取り込み方だけを教え込む。

「ふ、…っ、ァ…ン、…ン、ぅ…ッ」

 舌の柔らかさ。口内の熱さ。耳を犯す水音。粘膜が擦れ合う気持ちよさ。どれもずっと疎遠だったものがいっぺんに、強制的に与えられ初心なクリスが堪えられるはずもなく。次第にはっきりと勃ち上がり始めるそれを隠そうと擦り寄せる膝に手を伸ばせば、さすがのクリスも弾かれたようにレイフロを押し退けた。

「ッ…まッ、…ス、タ…っ、…なに、を…ッ………」

 言葉と共にクリスの喉がひくりと引き攣る。押し退けた際にじゃらり、と擦れた金属音、繋がれた右手──鎖の存在、裸の自分、そして……。

「………こ…こ、は…いっ、たい……」

 見知らぬ天井、見知らぬ調度、明らかにサクラメントの部屋でないどころか囲うように張り巡らされた鉄格子に。ようやく気付き、身を固くするクリスへ触れるだけのキスを落とす。そうすれば体は一層強張り、息が浅くなった。なんなら速まる鼓動さえ聞こえてきそうで、そんなクリスに小さくわらうと、レイフロは耳元で優しく囁く。

「新しい家だ──俺とお前の」
「……い、え………?」

 こんな牢獄のようなものが……? そう口にしたいだろうに。はくはくと言葉が空回るのは恐怖のせいか混乱のせいか。それでも相応の危機感は抱いたのだろう。怯えたようにクリスがズリ………、と後ずさりした。もう全てが遅いのに。

「そう。俺達の家だ──そして今から俺は、お前を抱く」

 そう言ってこれ以上ないほど優しげに、愛おしげに頬を包み込めば、クリスは何を感じ取ったのかぶるりと背筋を震わせて。それでも気丈に瞳を逸らすことなく恐る恐る口を開こうとする姿に愛おしさと同時に苦々しさが込み上げた。

「……理由、を、…うかがっても、」
「聞いてどうする。お前は理由の如何で自分を犯す男を赦すのか?」
「…っ、そういうわけではっ、」
「そういうことだろう。だが理由か。理由が欲しいのか、お前は」

 さも面白いとでも言うように。レイフロはくつくつと嗤いを溢すと、いっとう優しい声で言った。

「クリス、神がこの世で一番お嫌いなものは何か知っているか?」
「………っ、」
「──堕落だよ」

 ツ、と胸板を指でなぞる。意味ありげに。艶かしく。されど確実にこの先を予感させるように。その動きと言葉にクリスは必死で首を振る。

「……わたしは、既に、信仰を捨てて、」
「そうだな。お前はそうだろう。……だが、神は? 何故お前は未だ日の下を歩ける?」
「それ、は……」
「神がお前を手放していないからだ」

 引き締まる腰をゆったりと撫でる。穢されることを知らぬ肉体。神に愛されるほどの清い魂。それは黒き世界の者達を惹き付ける極上の餌と同じだ。それも神直々にお墨付きの。

「……どこまでぐちゃぐちゃに犯し尽くせば、お前は神に見捨てられるかな」

 その言葉に。ヒュッとクリスの息が詰まる。どんなに信仰を捨てたと言っても、ずっとずっとその生涯に根付いてきたものだ。心の支柱にしてきたものだ。口ではなんと言おうと、悪辣な言葉はクリスを追い詰め、逃げ場を無くす。丸裸にする。そして。なにかの打開策を探すよう無意識に視線が手枷へと向いたのをレイフロは見逃さなかった。

「────それとも逃げるか?」
「……ッ、…」

 じゃらりと金属音を立て、枷の填まるその腕を取る。ずっしりと重く、継ぎ目のないそれは完璧なサイズでピタリとクリスの手首に収まっていた。

「そうだな……これは俺しか外せないが、コウモリになればお前でも逃げられないこともないだろう。だが、オススメはしないな。今のお前に変化する力は残っていないだろうし、……出来たとしても人の形には戻れまい。無駄だ」

 主人である真祖ヴァンパイアと人型にさえ戻れないコウモリの隷属。その隷属のお前がどこへ逃げようとその居場所は筒抜けなのだから、結果は火を見るより明らかだ。見つけたらすぐに捕まえて、鳥籠で大切に大切に飼ってやろう……と。そう口にすればごくり、とクリスの喉が上下する。あんなにも気丈に見つめていた目が今にも泣き出しそうに歪み、やがてはゆっくりと項垂れた。

「どうした、試してみないのか」
「…あなたが、…言ったのではありませんか、」

 無駄だと。人の姿にさえ戻れないと。その言葉の意味を理解出来ないほど馬鹿ではないのだと。クリスはそう、暗に口にする。

「──…そうだな、クリス。全部、俺のせいだ。俺のせいにしていい」

 だからその全てを差し出せと。レイフロはゆるりと目を細め、その首筋へと牙を立てた。