シキアキED1の最期

──油断した、な。

血の止まらぬ腹部を抑え、急速に霞んでいく視界の中、アキラはただひたすら血の跡を残しながら進んでいた。ここまで、か。体が重い。全然言うことを聞かない。ポタポタと傷口を抑える指の隙間を縫ってとめどなく血が零れていく。そう長くないことは自分でも分かった。もう立つことさえままならないのだから。
それでもアキラには諦められないものがあった。周りが火の海でも、ずるずるとみっともなく体を引き摺ってでも諦めたくないものが。部屋の奥。隠し扉のその先。火を放たれ燃え続ける家の中、まだ火の手の回っていない部屋の奥で。車椅子に腰掛け、虚空を見つめ続けている男──シキ。

「…は、…シキ…っ……」

這い蹲ってアキラは男の傍へと進む。視界はもうほとんど見えていなかった。手を伸ばして床を這って、一歩、また一歩と車椅子へと近づいていく。普段ならそう遠くない距離が今だけはおそろしく長い距離に思えた。一歩進んでは床の上で無様に手をまさぐり、一歩、 また一歩と進んでいく。
全く、ついてない人生だ…。アキラは自嘲めいた笑みを乗せる。あんな男に捕まったばかりに。囚われてしまったばかりに。こんな終わりを迎えるだなんて…。
彷徨う指先がようやく冷たい金属へと触れる。そこからフレームを辿り、足板へと伝って乗せている男の足へと触れた。

「……シキ、」

口端が歪んだ。そういう表情しか浮かばなかった。笑ってるような今にも泣き出しそうな、そんな顔のままでアキラは皮肉めいて言う。

「どうやらここが、俺達の、墓場みたいだ……」

あんたがいつまで経っても起きないから。俺を切り捨てていかないから。だから俺と一緒に道連れだ──。そう憎まれ口を叩いて、それでも反応のない男にアキラはちいさく唇を噛む。無駄だ。分かっていたことだ。……男がこうなってから返事が返ってきた試しなど一度も無いのだから。
──ただ。どうせ死んでしまうのなら男の傍がいいと思った。どうせここまで来てしまったのだから。死ぬならふたりの方がいいと。だからアキラはここまで這いずって来た。男を置いていかないために。男に置いていかれないために。
かしゃん、と握りしめていた日本刀が滑り落ちる。手入れの行き届いた血塗れの刀。それは既にアキラの手には重すぎる代物となっていた。よくここまで落とさずに来れたものだ。……まるで墓標だな。そうアキラが思った時だった。

「──ア、キラ……」
「……………っ、!?」

か細いのに、確かに男のものと分かる声。その声に、アキラは大きく目を見開く。

「…シ、キ……? シ、キ……っ、」

無理やり体を起こし、男の足に指を這わせる。だが、どんなに呼び掛けても応えは返ってこない。反応もない。

「シキ……」

あぁ、本当にずるい男だと。アキラは唇をきつく噛み締める。
アキラに自由に生きろ、と言ったくせに。鳥籠を開けてやるから自由に飛んでいけと、そういう意味で言ったくせに。心を閉ざしたくせに。アキラをいないことにしたくせに。意識を沈め、生きる希望も意味もなくして、たったひとりになったくせに──。
そのくせに……こんな命の危機で。死の間際で。あんたは俺の名前を呼ぶのか……と。くしゃりとアキラの顔が歪む。視界が滲んでしょうがなかった。
自分から手を離したくせに、突き放したくせに、最期は求めるように名前を呼ぶなんて。男の中にまだアキラの存在が残ってたことをこんな時に教えるなんて。……なんてひどい男だろう。まるで……まるで死に際、アキラに逢いたいと願ってくれたみたいじゃないか──。
もうもうと立ち上る煙。苦しくなる呼吸。最後の力を振り絞り、アキラは男を車椅子から自分の方へと引きずり落とした。筋肉が落ち、細くなったとは言え自分より大きな成人男性の体は思った以上に重く、起き上がることさえままならないアキラを容易に押しつぶす。

「っ、 ハッ……ぐ、…げほっ、ごほっ」

なんとか男の頭だけはぶつけずに済み、身じろぎひとつしない男の体をそのまま腕の中へと抱き寄せた。

「シキ……、」

相変わらず瞳は虚ろのまま。視線が合うことなどない。やはり死の直前に自分を求めてくれた、なんて都合のいい妄想だったのかもしれない。甚だしい思い上がりだ。でもこうしてひとり願い、想うのは自由だろう…。動かない男の頭をアキラはぎゅっと抱きしめる。ちいさく唇が弧を描いた。どちらにしても構わなかった。妄想だろうと真実だろうと。アキラにとって大差はない。だって彼は最後の最後に自分の名前を呼んだ。もう一度、アキラと言った。それだけは事実だから。それだけで十分だから。それだけで、この独り善がりの貢献は報われたのだから。アキラの選択は間違っていなかったのだと証明されたのだから──。だからもうそれで、充分だろう…?
指を這わせ、唇を探り当てる。男の唇。……どうせこれが最期なら。そう、アキラはゆるゆると顔を近付ける。口付けにさえ満たない触れ合い。掠めただけのそれに。お似合いだな……とふっ、と吐息が洩れた。まさしく俺達にはお似合いの味だと。 落ちる瞼に抗う気力もなく、アキラは静かに目を閉じる。……お似合いだ。最初で最後のアキラからの口付けが血の味だなんて…。全く、

「…………ばかだな…」

そう呟いたのは誰だったのか。

 

 

※※※※※

 

 

口さがない世間は噂する。変な輩が出入りしていたんだ、いつかあぁなるだろうと思っていた、だの。黒づくめの男だろう? 前から怪しいと思っていたんだ、だの。口々に面白可笑しく噂しては、みな最後にこう締めるのだ。誰かが居た形跡はあるのに、遺体のひとつも出てこないなんて気味が悪い、と。

 

 

そう、あの後、彼らがどうなったのか。それは誰も知らない。
──焼け残された車椅子と日本刀以外は。