JJ×宇賀神

普段は潔癖の性質で触られるのを好まない男は、たまに風呂上がりになると途端甘えたように擦り寄ってくる。風呂に入る前はにべもないのに。綺麗好きも伊達じゃない。

そんなことを思いつつもそういう時、JJは何をするでも言うでもなく男の好きにさせてやる。普段は全然懐かない男なのにこの時ばかりはデレた猫のように近付いてくるからだ。普段がつれない分、下手に機嫌を損ねて逃げられるのは得策ではない。JJだって役得の欲くらいはある。
まぁ最初はそういうお誘いかと思って手を出したものだが、そうすれば宇賀神の機嫌はすぐに下降して、じとりとJJの手を睨んだものだ。そういう意図では無かったのだろう。偶然その日がそういう気分では無かったのかと思い何度か繰り返してみたが結果は同じだった。それ以来JJは手を出すことをやめた。宇賀神は変わらず膝に乗って来た。

今日も今日とて擦り寄ってきた宇賀神を前に、猫を飼ったことはないがきっとこんな感じの生き物なのだろうな、とJJは思う。
初めは少し気にするように、気遣うようにそろそろと近付いてきて。するりとJJの手を取り、頬を擦り寄せたかと思えば宇賀神は安心したかのように目を閉じるのだ。硝煙の臭いが染み付いた指先に安心というのもどうかと思うが、まぁ自身を守る護衛という意味では間違っていないのかもしれない。そうしてしばらく擦り寄って満足すれば今度はJJの上に跨がりにじり寄ってくる。二人分の重みにギシリとソファが軋んだ。
ちなみに性的なものは一切無い。どちらかと言えば儀式的なものに近い。顎を掬い取られ首筋に顔を寄せスン、とにおいを嗅がれる。ちゃんと洗ってきたのかと言わんばかりの仕種にJJは肩を竦めた。

「ちゃんと洗った」
「……分かってますよ」

少しばかり不機嫌な顔。もしかしたら不興を買ってしまったのかもしれない。とは言えやめるつもりはないらしく、男はJJの肩に頭を擦りつけた。ふわりと鼻先を僅かな石鹸の香りが掠める。宇賀神の匂いだ。同じく風呂上がりできちんと乾かした髪や肌から立ち上ったのだろう。清潔を愛する男には似合いの香りだと思う。
対して自分はどうか。ふとJJは考えた。殺し屋稼業から足を洗い、男の運転手兼護衛という立場になった今でも、過去の習慣が抜けずにおいの強いものは避けている。当然、洗髪料なども全て無香料だ。いや、正確には宇賀神が渋々無香料のものを揃えた、が正しいのかもしれない。無ければJJが湯を浴びるだけで済ませてしまうからだ。潔癖の人間としては清潔を示すシャボンの香りにしてほしかったのだろうが、湯で洗い流すだけより余程マシと見たのだろう。宇賀神の苦々しい顔を思い出す。
……そう言えば初めて宇賀神がこうして擦り寄ってきたのも、とうとう男が折れて無香料一式を用意した日ではなかっただろうか。JJはぼんやりと思い出す。そう考えるとなんだかこの行為がマーキングか何かのように思えてきてJJは片眉を上げた。獣が体を擦りつけて自分のにおいを付けるあれだ。これは自分のものだと、テリトリーだから近づくなと他に威嚇するあれ。宇賀神の真剣さも相俟ってなかなか真実味を帯びているのではないかと。
とは言え宇賀神が獣とは。冗談にしても微妙なところだなと思いもする。こんな小綺麗で細身の、繊細な男に獣という言葉はあまりにも似合わない。どちらかと言えば、そう……
もぞりと腕の中で宇賀神が身じろぐ。衣擦れの音を微かに立て、今度は反対側へと体を擦り付けた。さらさらと艶のある髪が一筋、二筋と頬へ滑り、また石鹸の匂いがふわりと鼻腔に届く。それと同時に怜悧な印象の目がこちらを向き、じっと見つめる。何かを訴えるようにそれは据わっていたが、残念ながらJJにはテレパシーやら読心術やらの才能はない。代わりに溢れた髪を摘まみ、恭しく耳に掛けてやる。そうすれば宇賀神は心地好さそうにゆるゆると目を瞑った。やはり獣と言うには程遠い男のように思えた。

(どちらかと言えばそう、猫だな…………)

それはそれで獣であろうが。他者に何かと牙を剥いて気を立てるより、気に入らない相手にはそっぽを向いて爪を立てている方が遥かに似合っている。元々この行為を行う宇賀神のことを猫のようだと思っていたのだ。本質としてそう外れてもいないだろう。そう考えればだんだん宇賀神という男が人間の姿を借りる猫のように思えてきた。多少サディストなやり方も今なら鼠をいたぶって遊んでいる姿のようにも思える。
そんな馬鹿馬鹿しいことを内心鼻で嗤いながらも、顎を掻いたら喉を鳴らすんじゃないかとも思うから手に負えない。こうも大人しく身を委ねる宇賀神が悪いのだ。戯れ半分にJJは髪を撫で、耳朶を撫で、指で頬骨の輪郭をなぞる。男にしては白くきめ細かい肌が指に吸いついた。手入れの行き届いた美猫様である。やんわりと指の背でなぞり、顎下を撫でつける。 男の瞼が震え、ゆるりと持ち上がった。そして一呼吸置き、じっとりとJJを睨めつける。

「……なんですか、この手は」

喉は鳴らなかった。まぁ人間だから当然だが。

「JJ、貴方もしかして私のことを猫か何かと思ってるんですか?」
「………何のことだ」

思った。毛並みの良い猫のようだと。だが、それを言ってしまえば男の機嫌はあっという間に墜落するだろう。何事も口は災いの元なのだ。

「なんです、その間は。思ってるんでしょう」

ツンとして顔を背ける仕種がまたなんとも猫らしいなと性懲りもなく思ってしまう。尻尾があればJJの太腿をぺしぺし叩いていたかもしれない。こうしてみるともしかしたら宇賀神は神経質でめんどくさい人間というより、少しばかり気ままで高貴な猫くらいに思っていた方が今後も上手くいくのかもしれない気がしてきた。それなら腹も立たないし何なら可愛いげさえ感じる。
そう言えば、と思案する。いつだったか、マスターから宇賀神みたいな猫の話を聞いた気がする。大昔は貴族に飼われていて、そこらの人間よりも貴族らしい猫の名を……

「……ロシアンブルー?」
「やっぱり思ってるんじゃないですか」

宇賀神が間髪入れずにつっこんだ。思わず声に出ていたらしい。これではさすがに不機嫌になるかと思いきや、まぁ良いですと男は珍しく開き直った。それならついでに猫らしく教えてあげますよ、と。

「私がこうやって擦り寄るのは私のにおいを貴方に付けるためです」
「……やっぱり猫じゃないか」
「誰の所為です、貴方の所為ですよ」
「随分な言いがかりだな」
「言いがかりではありません」

そう言うJJに宇賀神はムッとした顔をしてみせると猫のように鼻を擦り寄せる。そうして深く息を吸うと、今度は大仰に溜息を吐いてみせた。

「……貴方、匂いがしないんですよ。正確には貴方の薄い匂いしか、ですけど」
「してどうする。ニンニクの臭いでもさせてた方が良かったか? 先生」
「ええ、その方がまだマシですね。全く……貴方は自覚がない上に、世間知らず過ぎます。良い歳した男が何のにおいもさせないなんて……それも貴方みたいな男が。邪な男ににおいを付けてくれと言ってるようなものですよ」

その目で、その色香でどれだけの人間を誑かせば気が済むんです? そう口にする宇賀神の言葉に何の話だと思うものの、JJが反論する前に坦々と上げられる誰かのフルネーム。どこかで聞いた覚えのある名に、以前宇賀神が契約を結んだ議員達のものだということを思い出した。JJにしてはよく覚えている。宇賀神と話をしながらも合間、値踏みするようにネバついた視線を寄越してきた男達だからだ。嫌なものでも思い出したかのように宇賀神は顔をしかめた。

「彼らの中には貴方を一晩貸してくれるなら大枚叩いてもいい。何なら断れば契約は白紙に戻すと、自分の立場も分からずに脅してくる者も居ましたね。勿論、全て丁重にお断りましたが」

いずれ消えていただく方々なので良かったものを──聞く者が聞けば震えるであろう内容を淡々と宇賀神は口にしていく。かつて氷の処刑台と呼ばれた片鱗を覗かせて。猫なら唸り声を上げ、毛並みを逆立てるように。つっけどんという言葉すら可愛らしいその声の低さに地雷を踏んだな、とJJは内心舌打ちをした。猫の道楽に手や口を挟むからこうなるのだ。宇賀神の機嫌はいつの間にやら真っ逆さまに落ちていた。

「貴方は知らないでしょうが、一時期この手の話は枚挙に暇がありませんでしたよ。私が匂いを付けてようやく片手の数まで減ったんです。営業妨害も良いところだと思いませんか? 手間を掛けさせないでください」
「……そんなに言うならその場凌ぎに香水でも振りかけておけば良かっただろう」
「馬鹿ですね、JJ。私と同じにおいをさせるから意味があるんです。鼻が利く人間ならすぐに分かるでしょう?  貴方がお手付きで、誰のものなのかを」

擦り寄せた体を起こし、風呂上がりだと言うのに既に冷えきった指先をJJの喉に這わせて宇賀神がうっそりとわらう。レンズ越しの瞳に青白い冷ややかな炎を宿して。貴方は他でもない私のものでしょう、と嫉妬と独占欲を燃やして。分かりづらいようで分かりやすい感情を顕にする。JJが一瞬、言葉を詰めるくらいには激しく。

「……護衛と同じにおいがしてそういう目で見られるのはアンタだ。揶揄されて困るのもアンタだろう」
「その点はご心配なく。逆に余計な秋波が減って万々歳ですよ。余程の馬鹿でない限り貴方みたいな危険な男、誘いは掛けても地雷を踏んでみようなんて考えませんからね」

散々な言い様である。全く、これだから弁が立つ男は手に負えない。ああ言えばこう言うし、こう言えばああ言うし。やはり宇賀神はにゃあにゃあと少し喧しく鳴く猫だと思う方が良いと思う。JJは白旗を上げるように両手を挙げると、分かった分かったと宇賀神の細い腰を抱き寄せた。何をそんなに噛み付いてくるのかは知らないが、要は宇賀神の匂いが自分に付けば良いのだろう。それで目の前の男が満足するなら答えは簡単だった。

「だったら、そんなまどろっこしいことしてないで、こうすれば早いだろう」
「は……? なっ、…んッ、!」

意趣返しの意味も含め、宇賀神の口を塞ぐ。もちろんJJの唇でだ。間違えても逃げられないよう腰はがっちりと抱き留めることを忘れずに。抱いた腕で腰を撫で、舌をもぐりこませ、擦りつけると男の細い肩がびくんと跳ねた。

「…っ、……、ぁッ」

くちゅ、と濡れる音。絡まる舌。冷えた指先からは想像出来ないような熱い熱が舌先を通じ、混じり合う。諦め悪く逃げようとする体をぴたりと密着させ、揺り動かして。そうすればまるでセックスでもしているかのようにソファがギシギシと軋んだ。
後頭部を抑え、否が応でも深くなった口付けは更に呼吸を奪っていく。ざらりと擦れる感触。痺れる神経。舌の上で味わって、吸って、軽く口を離し。荒く息つく宇賀神の濡れた唇を舐めては、また深く口付ける。触れては離れ、また吸って。溢れた唾液が宇賀神の顎を伝う頃、ようやく唇を離したJJはうっすらとわらってみせた。

「このまま朝までヤれば嫌でもアンタの匂いが全身染み付くだろうな」
「……ッ! ……ご冗談を! 明日もスケジュールが詰まってて忙しいんです」

朝まで付き合わされるなんて堪ったものじゃありませんっ。そう言って頬に触れるJJの手を叩き落とし、口元を拭うと、宇賀神はすげなく膝から下りた。いつもの可愛くない宇賀神である。そしてJJからそっぽを向くと、そのまま後ろ髪を引かれる様子もなく寝室へと向かった。完全に機嫌を損ねたようだった。

「こんなに火を点けておいてつれない猫だな」
「貴方が勝手に盛ったんでしょう? 猫の扱い方を学んでからまたどうぞ」

取りつく島もない。まぁ、半分は加減を覚えない、してやらない、意地の悪い自分のせいかもしれないが。まぁ、またがあるのなら文句はないか。パタパタと未だ怒り治まらぬスリッパの音に苦笑していると、急にその音が歩を止める。

「………そう言えば、JJ」

呼ばれるままに顔を向けると扉に手を掛けた宇賀神が顔だけでこちらに振り返っていた。

「……無香料のシャンプーがもうすぐ切れそうでしたが、替えは必要ですか?」
「あぁ、────あれは、」

もう要らない。アンタと同じものが良いんだろう? そう口にしようとして言葉を止める。

──そもそも宇賀神は無駄と不要な面倒事を嫌う男だ。
だから本当にJJのにおいが問題なら、それ相応の対応をしただろう。理由を話してJJを説得させたり、はたまた命令したり、無香料のものなど用意せず、揃いの香水を振りかけるでも良かった。けれどもそのどれもを男は今日の今日までしなかった。
文句を言いながらも、手間を掛けるなと言いながらも不定期にJJの膝に乗って擦り寄り、近付いてきた。マーキングと称し気の向くままにJJに触れ、自分の匂いを移そうとした。……こんなに分かりづらくて分かりやすい好意もそうそう無いだろう。あれは宇賀神剣という素直じゃない猫の、分かりづらいようで分かりやすい執着心と甘えの証しだ。

「────そうだな、頼む」

少しだけ逡巡してそう答えれば「全く手間のかかる。……面倒なひとですね」と呆れたように返ってくる。が、それは言葉ほど冷たい声音でなく、むしろ安堵にも近い声色で。知らず知らずのうちにJJの口許が小さく綻んだ。
まだしばらくは無香料のものを使っておこう。寝室の扉が閉められる音を聞きながら、JJはそう思う。どうやら甘え下手の猫が今後もマーキングを理由にJJの膝に乗ってくれるようだから。