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──少し昔話をしようか。愚かで実直で、本当は酷く酷く寂しがり屋だった男の話を。

 

……男はルシスという国の第一王子として生まれた。ルシスというのはその昔、星が病み始め、争い、傷ついた神が眠りに就くとき指輪とクリスタルを授けた国のことだ。いや、正確には授けた者を人々が王と崇め、その者を中心に国が出来上がっただけなのだが……まぁそれは今、どうでもいいことだろう。
さて、男の父はルシスの王であった。母は神凪。……おや、神凪を知らないのかい? むむ、困ったな……神凪とはそうだな、その昔、神により星の力と逆鉾を与えられた女の血筋の者、と言えばいいだろうか。神の言葉を人に伝え、星の力で病を癒す者のことだ。まぁ正確には違うのだが、人の認識なんてこんなものだろう。
おや、キミは勘が良いな。そうだ。男はいわゆる政略結婚の申し子だった。とは言え、この身分の者ではなにも珍しい話でないし、なにより唯一眠りに就かなかった神はこの血の邂逅をとても歓んだ。時は熟した、と。
病んだ星を癒すため、神は待っていたのだ。魂を継ぎ、血を継ぐ者を。男のような“器”の者を。
故に神は男に力を授けた。剣を扱う力と癒しの力だ。人として過剰な力だった。だが、男の交わった血はなんなくそれを呑み込み、種から樹木が育っていくように、ゆっくりゆっくり男の中で根を張り、枝を伸ばして、ある日を境に見事開花することとなったのだ。

固い蕾がついた予兆は男が五歳の時だった。たった五歳の少年がクリスタルに次代の王として選ばれたのだ。……いや、違うな、クリスタルが選んだのは次代の王じゃない。真の王だった。ただ人々は、王も含め皆、真の王の意味が分からなかった。何故なら古来、神より指輪とクリスタルを与えられて以降、そのような王が選ばれたことなど一度もなかったのだから。故に、人々は真の王のことを次代の王として受け取ったのだ。クリスタルに選ばれし、ルシスに繁栄を齎すことを約束された次代の王、だと。今思えばあれが悲劇の幕開けだったのかもしれない……。

それからだったかな。それまで慈しんでいた王が幼い男と距離を置き始めたのは。男に異母弟が出来たせいかもしれない。弟として生まれたのは父王にもよく似た黒髪の子どもだった。母親似の男とはとても似ても似つかないルシスの色を持った子だ。王はそれを気に入ったんだろうな。気付けば暇を見つけ、その赤子にばかり足を運ぶようになった。
ひとりぼっちとなった男はそれを見て勉学や剣術に打ち込むようになった。周りの者は未来の王として立派だなんだと誉めそやしたが、なんてことはない。男はただ、年相応にもう一度、弟が生まれる前のように父の気を引きたかっただけなのだ。優秀であれば褒めてもらえるのではないか、頑張っているなと声を掛けてくれるのではないか、さすが私の息子だと笑ってくれるのではないか。そんなことを胸に取り組んでいただけだった。そうすれば父の目がこちらを向かずともまだ努力が足りないのだと理由を付けることが出来たから。

──数年して、その努力が実ったのか貴重な資料の拝読を理由に父の書斎へと入ることが許されるようになった。そうすれば禁書の内容などほとんど頭に入らないまま、何度も机へと向かう父を盗み見ることが男の細やかな日課となった。もちろん王から声を掛けてもらうことも視線を向けてもらうこともなかったが、それでも男にとっては十分だった。暖かい、柔らかな陽射し差す日はその冷ややかな態度も穏やかなように感じられ、より一層心地が好かった。一度だけ、あまりにも根を詰めて書類に向かう父が心配で勇気を出して声を掛けたこともあった。
『まだおしごとするの、とうさま?』
その言葉に無論、返事が返ってくることはなかった。それでも、男は満足だった。父と同じ空間に居られる、それだけで良かったのだ。

そうしているうちに、男は一人の側仕えをつけられた。名目は側近兼御学友というやつで名をイズニアと言った。いや、姓だったか? まぁいい、とにかく男はその側仕えの男をイズニアと呼んでなついたんだ。イズニアはよく気の利く男で、男とはたった三つか四つかしか離れていないのにその優秀さは他の子どもより頭ひとつ、ふたつと抜きん出ていた。優秀とは何か? 勿論、知識や技術、心得というものが挙げられるだろう。だがイズニアの場合それだけじゃなかった。例えば男が星が欲しいと言えばきらきらと光る図鑑を持って星の話をたくさんしたし、父が恋しいと言えば悩んだ末にその賢さで誰にも見つからない道を見つけ出しこっそりと二人で覗きに行った。勿論、子どもながらに賢いだけで最終的には二人して見つかり、こっぴどく叱られたんだがね。男がべそを掻けばイズニアは自分が泣きたいのも我慢して必死に慰めた。男について叱られても言い訳のひとつもしなかった。イズニアが何よりも優秀だったのは男の側付きとしての覚悟だった。男の心情に誰よりも寄り添える才能さ。イズニアは男にとって兄であり友であり臣下であり、何よりも心強い味方であった。

さて、男の力の話だが、その蕾が綻んだのはそれからもう少ししてからだったと思う。きっかけは猫だったはずだ。怪我をしたのだろう、片足を引き摺った猫が庭にいたのだ。それに手を差し伸べ、男は簡単な治療を施してやり、まじないの言葉を口にした。母である神凪の真似をしたのだ。するとどうだろう、淡いきらきらとした光が猫の体を包み込み、男の腕からぴょんと飛び出していったではないか。怪我をしていたのなんてまるで嘘のように、猫は恩も知らず開いていた窓へと軽やかに飛び乗り、一目散に外へと出ていってしまった。残されたのは蓋が開いたままの治療箱と呆然とした男二人だけ。なのにどうしてか、その噂はどこで誰が見ていたのか、その日のうちに空を駆ける矢のごとく口から口へと広まり城中の人間に知れることとなってしまったのだ。

半信半疑の空気の中、男は王に呼ばれとある種を与えられた。曰く、これを育ててみよ、と。男は喜んだ。父王の期待に応えねばと。だが男は植物を育てるどころか水をやったこともない。慌ててイズニアは手当たり次第に本を紐解き、植物の育て方を調べた。とは言え植物をきちんと育てるには水のやり方ひとつでも千差万別だ。だからたぶん、イズニアは確信していたんだろうな。それが何の種で、どんな意味を持つのかを。イズニアの見つけ出した頁をもとに二人は丁寧に丁寧に鉢へと土を盛り、種を蒔いて、水をやった。種はすくすくと育ち、やがては青い花の蕾を付けた。男は喜んだ。毎日祈りを、星への感謝を捧げ続けた。男の息吹きに応えるように蕾はすぐに花開き、羽毛のように柔らかい、細かく裂けた幾重もの花弁を晒した。
『これはジールの花。青く気高く咲き誇る花……神凪のみが咲かせられる特別な花なのです』
イズニアの言葉に男は小さくはにかんだ。かあさまが大好きだった花だ、と。

男は意気揚々と、嬉しげに誇らしげに王へと咲き誇ったジールの花を献上した。よくやった。そんな言葉を期待して。だが男の考えとは裏腹に、王の顔はみるみる強張っていった。まるで男に怯えるように。男を憎らしげに思うように。王は男を強く睨んだ。そしてそんな王の表情になど気付かぬように周囲は驚きと歓喜の声を上げ、喜んだ。男には意味が分からなかった。何故、そんな顔をなさるのです…? そう、父王に問い掛ける間もなく男は遠い、晩年母が過ごした神凪の治める地へと行くよう命じられた。今はただ、新たなる神凪として使命を果たせと。まるで追い立てられるように男は生まれ育った城を去らねばならなかった。

何故こうなってしまったのか。答えは簡単だ。
ジールの花を咲かせた男は、真の王に選ばれていながら神凪の力をも有していた。それが如何に臣民達に期待を抱かせたのか。現王である父王を脅かしたのか。幼い男は気付かなかったのだ。真っ直ぐな思いは、純粋な思いは時に思いもよらぬところで人を傷つけることを知らなかったのだ。愛を捧げれば、慈しみを与えればいつか必ず返ってくるのだと、積み重ねた努力はいつか報われるのだと、そう信じて疑わなかった。それが民に愛された父王の姿であり、その背を追いかける男の全てだったから──。

そうして、花の都ルシスより遠い地で男は歳を重ね、その力を大いに開花させた。どんな病も治す稀代の神凪。そう噂された男は苦しむ民がいれば近くの街から遠くの村まで貧富や身分など関係なくどんなところへでも駆け付け、治療した。イズニアと世にも珍しい黒チョコボを伴って。……あぁチョコボ、チョコボだな。チョコボというのは、あれだ。鳥だ。主に移動手段に使われる大型の鳥で……なんだ、チョコボは知っているのか。ふむ、まぁいいだろう。そのチョコボにだな、乗って訪れる男を民はいつでも街をあげ村をあげ、歓迎したんだ。どうしてか分かるか? 持てる力を出し惜しみすることなく、ただひたすら救いの手を差し伸べる男は民にとって心優しき救世主そのものだったからだ。言わば男は希望だった。いずれ王となる男。その男が民の心に寄り添ってくれる。言うことないだろう? 民は男を心から愛し、男もまた心から民を愛し、慈しんだ。男が神凪として治める地はジールの花に溢れ、飢える者も病める者もおらず、いつの日か楽園とまで呼ばれるようになった。……もしもその楽園に足りないものがあるとしたら、それは男の望んだ父王の来訪くらいだっただろう。そのくらい楽園は満ちていた。

──だがいつの時代も楽園とは潰えるものだ。おかしな奇病が流行り始めたのはいつ頃だったか。……始めは小さな集落のひとりの女だった。いつからその病に罹っていたのか、詳しいことまでは分からない。ただ周囲の人間達が気が付いた時には、その女は目を虚ろにし、ただならぬ悪しきものを漂わせながらふらふらと獣のような唸り声を上げ、襲いかかってきたという。人の言葉など通じない、人では考えられない力を振るう女。何人もの人間が犠牲となり、負傷した。集落中の男を掻き集め、ようやく女を葬った時、女の体からは黒い靄が溢れ、ぼろぼろと灰のように崩れ落ちたという。誰かが言った。──化け物だ、と。人が化け物になって人を襲ったのだと。恐怖に陥った集落の者達は、女の血筋の者を皆、例外なく葬り去った。けれども、その現象は女の血筋とは関係のないところで再び発生し、それどころか集落だけに留まらず、国中へと広まっていったのである。昨日まで普通に話していた人間が化け物になる。人々は恐怖し、そんな化け物のことをシガイと呼んだ。民は、国は混乱した。シガイ化する者相手に為す術などなかったからである。ただただ自分が、身内が、愛する者がこの化け物にならないことを祈ることしか出来なかった。そんな民に、男は言った。
『シガイ化は病です。適切な治療を施せば救うことが出来る。決して化け物などと蔑み、排除することなどあってはならない』
異常な事態に駆け付けた男は気付いたのだ。自分の力がシガイ化した者に有効であることを。シガイ化はただの病でしかないことを。もはや男にしか治せない病であることを──。男は国中を駆け巡った。シガイ化した者達を、シガイ化しかけている者達を救うために、寝る間も惜しんで奔走した。力の使い方は分かっていた。これまで通り、様々な病を癒したように、病の原因を”自分の側へと吸い出せばよい”のだ。それだけで患者の体からは黒い靄が抜けきり、元の姿を取り戻す。たすけてくれ、と誰もが男に縋り付いた。その力の目の当たりにし、奇蹟を讃え、ひれ伏した。誰も知らなかったのである。それが誤った力の使い方であることを。代償が何であるのかを。男も気付かなかったのだ。”それ”が自身を蝕み始めていたことを。民衆を惹き付けるその力こそ王家に疎まれ始めていたことを。

悲劇は坂道を転がるように加速する。止める者も、止められる者もいないまま、ただただ終焉を目指して……。

異変は少しずつ男を侵していった。
ある時、男はふと思った──太陽の光はこんなに眩しいものだっただろうかと。日のもとで湧き起こる言い様のない嫌悪感。おぞましさ。そんな感覚が男の中でちいさく巣食い始めていた。気のせいだ。休んでいないせいだ。そう結論付けてみたものの、その後いくら休んでも日中での移動は厳しくなり、短時間でも木陰に入ったりマントを着用したりしなければ凌ぎきれなくなった。
他にも違和感は続いた。
病を癒す度、男の体には言い知れぬ痛みが身体中を駆け巡るようになったのだ。始めはちくりとした小さな痛みだった。それが時を経るごとに、病を癒すごとに強く、激しくなっていく。とうとう堪えきれず痛みを抑えるよう手で押さえつけた時、男は見てしまった。黒い靄が己の手を這いずるように纏わりつき身の内に消えていくところを……。一瞬だった。見間違いだ。きっと疲れが見せた幻だ。そう思うのにどうしてかひたひたと迫り来る不安が消えなかった。自分はなにか取り返しのつかないことをしているのではないか。なにか大きな間違いを犯しているのではないか。そう思えて仕方がなかった。
『……デン様…、アーデン様』
茫然と己の手を見つめる男にイズニアは声を掛ける。その声は焦燥に滲んでおり、男を見る目は大きく見開かれていた。
『…………どうした、』
『貴方は少し休むべきですっ。でないと、このままでは貴方の方が…っ、』
そう口にするイズニアの言葉に男は首を横に振った。今、ここで男が足を止めればそれだけ被害が広まるのは目に見えて明らかだったからだ。助けを求める民衆を前に男は止まれなかった。
『問題ない…』
『しかし…っ、』
大丈夫だと、男は笑った。心配を掛けてすまないな、と。本来の色とは全く違う金色に輝く瞳を向けて。男はイズニアを宥め、背を向けた。次の患者のところへ行くために。不安を不安で終わらせるために。男は苦しむ民のために力を振るい続けた。そうしてその身を後戻り出来ぬところまで蝕ませてしまった。シガイという名の星の病に。

男は信じていた。全ては愛する民のために、国のために──そう信じて力を尽くし、奔走し続ける男の耳にそれは届くことはなかった。
男が蝕まれるのと同じように楽園で咲き誇るジールの花がその数を減らし、朽ち始めたことも。男の力が穢れてしまったとでもいうように、神凪と呼ばれるものではなくなったと示すように、枯れ落ちてゆくことも。彼は本当に救世主なのか、と疑い始めた民の声も。ならば何故、病は一向に収まらないのかと疑問視する声も。そもそも何故、あの病は男にしか治せぬのかと口にする王家の声も。
──あの男が全ての原因ではないのか?
そう囁いた異母弟の声も。

 

ついに終わりはやってくる。
男にとって最後となった患者。それは皮肉にも楽園の住人だった。久しぶりの楽園。安住の地。これまで楽園からシガイ化する者が出なかったこともあり、病を癒すため国中を駆け回っていた男は懐かしい心地でその地へと足を踏み入れる。皆は変わりないだろうか。怯えてはいないだろうか。そう民を案じ、進んでゆくもそんな思いは長くは続かなかった。いくら進めど記憶に合った景色が見えてこないからである。かつて至るところで咲き乱れていたジールの花。陸の海原。最後の楽園。幾つもの名で呼ばれ、愛されたその地が今や花ひとつ咲くことなく、荒れ果てた土地へと変わり果てていた。
『どういう、ことだ…』
言葉を失ったまま男は目配せをし、先を急いだ。なにか嫌な予感がした。とてつもない、悪い予感が。

崩れた落ちた建物。ひび割れた石畳。枯れ果てた噴水。朽ちた花々。そんな中で、シガイ化した患者は街の広場でただひとり、付き添う者もおらず拘束されていた。
『何故、こんなところに……』
男は呆然と呟くもすぐに頭を切り替える。いや、とにかく治療が先だ。獣のように理性も人の言葉も忘れ、唸り、暴れようとする患者に男は手を差し伸べる。黒い靄。これさえ取り除けば。こちら側へと引きずり込めば。その一心で男は掌に力を込める。ざわりと靄が患者の体から立ち上がった。男はそれを掌で受け止め、呑み込んでいく。流れ込む黒い靄。それはずるりと男の身の内へと入り込み、かと思った瞬間、荒れ狂う蛇のように全身を這いずり回った。
『っ、ぐ…ぁああ、…っ…』
『アーデン様……!』
いつか幻だと切り捨てた、己に纏わりつく黒い靄。それはいつしか現実のものとなり、全身に絡み付いて痛みと、理性とは別の凶暴的な思考を与えるようになった。まるで男の意識を乗っ取るかのように。支配するかのように。獣のように唸り、誰彼構わず襲いかかりたくなる欲望を男は掻き集めた理性で無理やり抑え込む。まだ大丈夫だ、まだ力は使える…、まだ、自分は人間だ……。滲む冷や汗を乱暴に拭い取り、荒い呼吸のまま立ち上がった。患者は無事なのか。シガイ化は…、症状は治まったのか……? ふらつく体をイズニアに支えられながら、患者の様子を窺おうと手を伸ばしたその時、その声は響き渡った。
『やはり全ての元凶は貴方だったか、兄上』
聞き覚えのあるものより幾らか低くなったそれ。兄と呼びながら、なにか不穏な、悪意的な意図を忍び込ませたその声に男は振り向き、大きく目を瞠る。
『…ソムヌス…、何故ここに……、』
そこには記憶にあるものよりずっと成長し、精悍な顔つきをした異母弟が居て。お久しぶりです、兄上、と飄々と言い募る異母弟に何故…、と男は息を呑み、問い掛けた。王城に居るはずのソムヌス。それが何故わざわざこんな遠い地へと赴き、軍を従え、自分に──剣を向けているのかと。
『何故、とは可笑しなことを』
くすくすとソムヌスはわらう。まるで小芝居か何かを演じているかのように。
『決まっているだろう?』
ソムヌスが囁いた。
『悪しき、ルシスの反逆者を捕らえるためだ』
『反逆、者……?』
時が止まったように、呼吸が止まる。一体異母弟は何を言っているのか。思考が、理解が、ひたりと止まる。
『あぁ、でもその前、父上から預かっているものをお渡しせねば』
凍りつく男になど目もくれず、そう言うとソムヌスは側付きの者に合図し、小さな鉢植えを持ってこさせた。何の変哲もない鉢植え。だがそこに植わっているのは、楽園に入り未だ一度も目にしていない一輪のジールの花だった。何故……。そう思い、目を凝らして鉢植えを眺めれば縁のところ、三つの引っ掻いたような傷の跡を見つけ、その見覚えのある印に男はハッと思い出す。そう、それはその昔、幼き男が祈りを注ぎ、育て、王へと献上したかの花だった。
『父上は兄上にこれまでの成果に対する褒美を取らすと仰った。何が良いのか最後まで悩んでいらしたから、私が進言したのだ……楽園では日を追ってジールの花が朽ち果てていると。ならば数を増やすためにも種子のなるジールの花などはいかがか、と』
『褒美…だと、』
『えぇ。兄上は代々神凪の治めしこの地を楽園と呼ばれるまでに栄えさせた。加えて各地で起こる奇病にもその身ひとつで対処していたとか。王家も手出しできない状況の中、よく働いてくれたと。これはその褒美であると』
『…………これが、』
それが真実だとするならば、男の働きに対する報奨がジールの花一輪とは明らかにお粗末であると分かっているだろうに。ソムヌスは気にした風もなく軽やかにわらう。
『さぁ、受け取ってください。兄上』
差し出される鉢植え。……そう、ただの鉢植えだ。ジールの花が一輪咲いている、ただの鉢植えである。受け取ってやればいい。それでこの意図の分からぬ茶番が終わるのなら。そう思うのに体がぴくりとも動かなかった。恐れているのか? 一体何に。かつて自分が咲かせた花ひとつに何を恐れるというのか。そう鼻で笑いたいのに、その口端さえひきつってしまう。何なんだ、これは。この異母弟は一体何を考えてる。これは罠なのか、そうではないのか。ぐるぐると考える男の葛藤を知ってか知らずか、ソムヌスはあぁ、そう言えば、と世間話でもするように口を開いた。
『確かジールの花は神凪しか育てられないと聞いたことがあります。兄上の母上が亡くなった時にも全て枯れ落ちてしまったとか……でも今は、神凪である兄上は生きてらっしゃるのに。……なのに何故、花は朽ちてしまったのでしょう。実に不思議なことだ。……まるで』
ジッ、と異母弟は男の腕を見た。あたかも皮膚の下で這いずり回る黒い靄でも見えてるかのように。人外のものでも見るかのように蔑んだ目で。
『まるで…兄上が神凪ではなくなったと…その身は、その力は穢れてしまったとでも言うようではありませんか』
『…っ、違う…!』
男は思わず叫んだ。
『私は神凪だっ、……人間だっ! ルシスの、民を救える唯一の…っ!』
まだ力は使える。理性を保っている。獣なんかではない。シガイなんかでは決して、決して……! そう否定する男に、隠しきれない嘲りの笑みを浮かべながらソムヌスは応える。
『えぇ、そうでしょうとも、そうでしょうとも。そうしていずれ王位を継ぐことを定められた御方。もちろん、分かっております。当然ですとも。貴方が本当に人、ならば、ね。……ハハッ、なればこそです。さぁ兄上、受け取っていただけますね? 王からの賜り物です』
『…………っ!』
……そういうことか。そう異母弟の意図に気付いても、もう遅い。ソムヌスは試しているのだ。男がまだ神凪であるかを……人であるかを。男はギリギリと歯噛みする。大丈夫だ。問題などない。受け取ったからといって何かが起こるはずもない。これまで何も起きてこなかったのだ。だから何も──。
そう思うのに眼裏に蘇るのは荒れ果てた光景。
朽ち果てた花。
失われし楽園で。
『さぁ』
震える指先を鉢植えへと伸ばす。自分はまだ神凪なのだと、人間なのだとそう信じて、……そう信じて、ふと気付く。
──”まだ”とは何か。”いつか”が来るとでもいうのか、と。
『あぁ』
『あぁ、…ぁ、ぁ、ぁ……、』
男の手が触れる寸前。ジールの花は、凛と咲き誇る柔らかな青い花弁は男の指先から生まれる黒い靄に包まれ、みるみると萎れ、朽ちていく。男の正体が何なのか。これが全ての答えだとでも言うように。
『最後の一輪だというのに惜しいことを』
『…っ、違う、…違う、違う…! これは、っこんなはずはっ…!』
そう、いくら否定するも目の前の事実が覆ることもなく。ソムヌスはさも可笑しそうに肩を震わせると、声高らかに宣言した。
『皆も見たであろう。これはもう人間ではない──化け物だ』
掲げられた剣身が男を鈍く映し出す。ソムヌスがにたりとわらった。
『殺せ』

 

 

燃える。燃える。愛されし楽園が。愛おしき民達が。浄化を理由に燃やされる。ただただ一方的に踏みにじられ、戦場へと変わっていく──。
『シガイ化は病でも何でもない。あれはただの化け物だ』
そう斬り捨てられ、火を放たれたのは滅びた楽園に集められていたシガイ化した者達だった。何十人、何百人……いや、もっとそれ以上いたのかもしれない。分からない、なにも分からない。分かるのは男が赴いた楽園がソムヌスによって周到に用意された罠だったということだけ。そうして失楽園への焚き木のために掻き集められた者達は人として元に戻ることを赦されぬまま軍の者達に焼かれていく。化け物だと蔑まれながら。
何故、こんなことになってしまったのか。何故、こんな惨いことが出来るのか──。
『っ、アーデン様……!』
迫り来る凶刃をイズニアの刃がぎりぎりのところで食い止める。力は拮抗していた。だが、敵はひとりではなく、横から、後ろから容赦なく斬りつけてくる。その者達を男は武器を召喚し、危ういところで凪ぎ払っていく。
『……っ、何故っ』
答えはなく、キリもない。男に背を合わせ体勢を整えたイズニアもまた応戦するが、いずれ着くであろう結果は痛いほど目に見えていた。
『アーデン様…!』
切羽詰まった声でイズニアが叫ぶ。
『…っ、此処から、逃げて、くださいっ、…ふたりでっ…逃げるんだ…はやく!』
何もかもを擲ち、イズニアは遠くで暴れていた黒チョコボを呼びつけ、男を押し付ける。お前は彼を連れて逃げろと言って。
『…っ、イズニア!』
ひとりで逃げろと。彼を置いていけと。そんなこと出来るわけがない。出来るはずがない。そう男は言い募ろうとするのにイズニアは汗に濡れた顔でわらう。お前にはまだやるべきことがあるんだろう、と。ならばお前は生き延びろ、と。
『頼むから、私など見捨て…、はやく、…はやくっ』
『…イズニア…っ、…そんなっ!』
尚も首を縦に振らない男に、イズニアは苦笑する。まるで相も変わらず甘ったれた弟だとでも言うように。そんなところだけは変わらないとでも言うように。だがそれも一瞬のことで、イズニアは突然弾かれたように顔を上げると、力づくで加減もなしに男を後方へと突き飛ばした。
『…っ…、デ、ン……っ』
『…おっと、』
イズニアが反射的に振るう剣。それをあっけなく受け流し、ソムヌスはその勢いのまま距離を取る。召喚武器。シフト。貫かれた体。一瞬の出来事。
一体何が起こったのか。頭では理解してるのに聴覚が、視覚がぶつりと途切れてしまったかのように上手く脳へと繋がらない。ごうごうと激しく燃え続ける音、ぶつかり合った金属の悲鳴。鈍い音を立て体から引き抜かれる真っ赤な刃、崩れ落ちるイズニアの姿。
なにが、なにが。一体……嗚呼。
『…イズ… ニ、ア……?』
『──さて、ようやく邪魔者は消えたか。随分と手間取ったが…まぁ良い。これより化け物退治といこうか』
嗚呼、嗚呼。どうして、こんなことになってしまったんだ。何故、イズニアが。
『…イ、ズニア……っ…』
なんで、なんでだ。何が悪かったと言うんだ。男は振り絞るように言葉を吐き出す。
『何故…っ、何故、こんな……私は、俺達は、ただ……、ただ、救ってきただけじゃないか…っ…』
男は崩れ落ちるかのように膝をつき、強くイズニアの身体を抱き寄せた。真っ赤に染まる手。鼻を衝く鉄錆。早く止まれとどんなに力を注いでも何も変わらず、ずっしりと腕にかかる体の重みに、ようやくこの過ちが自分によって生み出されたものなのだと気付かされる。問答なんてしていないで早く逃げていればよかった。ソムヌスの気配にもっと早く気付いていれば。
嗚呼、違う。そうじゃない。そう男はそもそもの全ての始まりに気付く。そうだ。こんなことになるなら治癒の力なんて極めるべきではなかったのだ。こんなことになるくらいなら剣の腕を磨いておけば良かったんだと。こんな力なんて最初から無ければ……そうだ、そうすれば、こんなことにはならなかったのに……!
イズニアを助けられたはずなのに……!
病は癒せても死んだ者は蘇らない。それがこの世の摂理というものである。イズニアは二度と目を覚ますことはない。もう、二度と男を呼ばない。肩を震わせ、絶望にうちひしがれる男にソムヌスは皮肉めいた顔をする。
『救った?』
何を馬鹿なことを言ってるのだと。さもそう言いたげなソムヌスの口調に男はのろのろと顔を上げる。
『誰かは言ったな。何故、奇病は流行ったのか。たったひとりの男にしか治せないのか。ジールの花は枯れてしまったのか、と』
ソムヌスは肩を竦ませた。
『答えはひとつしかない──男が蒔いたのだ。奇病の元凶となるものを。その手で、少しずつ。そうしてその種が育ったとき、男は自らが赴き、治癒することで民衆の心を掌握した。その証拠にその病はその男ひとりにしか治せず、男は同じシガイという化け物であることを自ら晒した』
召喚した槍が男に向けられる。
『ハッ……浅ましい男だ。そこまでして確固たる立場が…王の椅子が欲しかったか?』
『なにを、言っ………ッ、まさか……おまえっ、そんな、…そん、な』
嗚呼、嗚呼、なんてことだろう。男は気付いてしまった。この悲劇がただの茶番でしかないことを。異母弟が男を王位から遠ざけるため、退けるため、ただそれだけのために作り上げたということを、気付いてしまった。
……おそらく理由などなんでも良かったのだろう。ただ渡りに舟とばかりに奇病が流行り、男が関わった。ただそれだけのことなのだ。ただそれだけの理由で皆、殺された。男が生きてるせいで。男が、関わったせいで。
『さぁ、終わりだ』
ソムヌスが槍を振り上げる。それをただ見ているしかない男の耳にその羽音は届いた。
『……ッ、…なに…っ!?』
『なっ、……やめ…ろっ! お前は逃げるんだ…ッ』
激しい鳴き声を上げ、黒チョコボがソムヌスへと襲いかかる。まるで主を護ろうとでもするかのように。殺させやしないとでも言うかのように。そうやって無謀にも襲い掛かるチョコボの突進にソムヌスはすばやくシフト移動して避けるも、チョコボは興奮したまま今度は周囲の軍人を相手に暴れまわった。やめろ、と男は叫ぶ。チョコボは本来、臆病な気質だ。武器などそれがあるだけで恐ろしいだろうに。やめてくれ。威嚇するチョコボへ応戦しようとする軍の者達を男は召喚武器を手に凪ぎ払っていく。もうやめてくれ。せめてこの子だけでも。この子だけでもいいから。もうそれ以上は──。
『チッ……獣風情が』
舌打ちの音。軍人の刃を弾き、遠くから投擲される槍を反射的に相打った。
『遅い』
だが、槍に続いて目の前へと瞬間移動してくるソムヌス。そしてそのまま悪辣な笑みを浮かべると勢いに任せ、男ごとチョコボを貫いた。
『…っ…ぁッ、ガ、…ッ』
『全く……大人しくしていれば一匹くらい見逃してやったものを』
主が主なら、獣も獣か。串刺しにされ動きを止めた一人と一羽に軍の者達がとどめを刺すため剣を振り下ろす。甲高く鳴くチョコボの声。濡れそぼる生温い体液。抜かれる槍。倒れ込む体。嗚呼、嗚呼……。
『ぐ、ぁ、ァ、ア゛…ッ』
『ふんっ、……やはり化け物相手にただの武器では大して効かぬか』
血塗れの槍を一瞥し、まだ意識を保つ男に投げかける。だが、無駄というわけでもないようだと言って。
『ならば、こちらはどうだ?』
槍を粒子に変えて消し、ソムヌスは代わりにとでも言うように一振りの剣を召喚した。決してソムヌスが手にするはずのない剣を。……他でもない、王にのみ継がれていく──父王の剣を。
男は今度こそ表情を失う。
『…なぜ、ッ……なぜ、…おまえがっ…その剣を…ッ、!』
ありえないとばかりに目を瞠る男にソムヌスが事も無げに口にする。
『あぁ、そう言えば伝え損ねていたな。我が父上は…先の王は昨夜、身罷られたのだ。そして新たなる王として指名されたのは、この私。これはその証だ』
王位は自分に継承されたのだと。恥も知らずソムヌスはそう言い切る。それが一体どういう意味を持つのかを知っていながら。ソムヌスは平然とわらう。
『つまり、これは王意である』
にぃ、と唇が歪んだ。
『…ぐッ…ァァアアアアアアアア──!』
振り上げられる剣。胸へと振り下ろされる刃。灼ける痛み。胸を突く慟哭。何故、何故。その問いに答える者など居らず……男は勝利に沸く者達へと問い続ける。
英雄とは何か。悪とは何か。
数多の者達の喜びと興奮に晒されながら男は問う。愛すべき民は、慈しむべき国は一体どこへ行ってしまったのかと。何故、彼らはただ救い続けてきただけの男の死に歓喜しているのかと。
嗚呼、嗚呼。ここにいるのは男の死を願う者ばかり。悪魔だと剣を向け、化け物と蔑む者達だけしかいない。
『……こんなもののために、』
こんなもののために死んでいったとでも言うのか。男の傍にいてくれた者達は。
消されるとでも言うのか。自分の存在というのは。
『フ、…ッ…、ハハ、…ッ、ハハ、ハハ…っ』
男はわらった。わらうしかなかった。この身を擲ってまで救ってきたものは所詮こんなものだったのだと。もはや救うべき者など、守るべき者などいないのだと。男はここに来てようやく思い知る。
『──これが、…答え、なの、か…』
民よ。国よ。王よ。神よ。これが男の為してきたことへの報いなのかと。そう問う男に黙したままの者達へならば、と男は厳かに告げる。
『なら、ば、俺は…──』
男の体から黒い靄がどろりと溢れ出す。それはずっと男がひとりで抱え込んできたもの……ずっとひとりで請け負ってきたこの世界の負債だった。
『望み、通り……本物の、化け物と、なって…やろ、う……』
そうして滅ぼしてやる。男が奴等に奪われたように。今度は自分が奪ってやるのだ。大切なものも、愛おしきものも、何もかも全部、この手で。
黒い靄が囁いた。そうだ。赦すな。決して赦してはならない。民も、国も、王も、神も、この星でさえ全て全て──呪われてしまえ、と。男の意識が闇の中へと沈み始める。一度受け入れれば、後は簡単だった。黒い靄はいつの間にか男自身となっていたのだ。
ゆるゆると男は目を閉じる。そこには黒い一筋の雫が伝っていた。だがそんなことには誰も気付かない。誰も、誰一人とて。意識がどんどん呑まれていく。
『……くそっ! 化け物め!』
そう叫ぶソムヌスの声。それが男の、人間として……、いやアーデン・ルシス・チェラムとして、最後に耳にした言葉だった──。

 

 

……と、まぁ男の昔話はここまでにしておこう。──とは言え嗚呼、なんと皮肉な話だろうね。男にとって王位なんてものは本当のところどうでも良かったと言うのに。男が本当に欲しかったものは、望んでいたものは、そんなものではなかったというのに。
……君には分かっただろうか。男の欲しかったものが、望んでいたものが、一体何であったのかを。
男はずっと求めていた。王位よりももっと単純で、複雑で、簡単で、難しくて、異母弟だけが得られたそれが。ジールの花を咲かせたときに失ってしまったそれが。寂しがり屋の子どもがそのまま大きくなってしまったような男が永遠に手に入れられなくなってしまったそれが。
君には分かるだろうか。男が欲しかったものが、君には。