12

パラパラと頁を捲る音からやがてパタンと本の閉じる音へ。過去の幻影から現実へ。血腥い戦場から穏やかな陽射し差す書斎へ。
「…っ、…俺、は……」
『アーデン…?』
ぼんやりと何かを見つめるようにアーデンはゆっくりと顔を上げ、虚ろげに呟いた。忘れていたはずの記憶と今、目の前にある景色が徐に交差する。書斎、ジールの花、治癒の力、シガイの病。何故、忘れていたのだろう。あんなにも凄惨な過去を。失った者達を。あの腕の重みを。とめどない慟哭を。
「…俺は、死んだのか……?」
『アーデン… きみ 記憶が……』
「だからこんなところにいるのか…?」
夢という名の死後の世界。だからこの世界には自分ひとりしかいないのだろうか。そう口にするアーデンに生き物はちがうよ、とでも言うようにキュウと鳴く。
『ううん…… きみは死んでなんかいない』
『ただ 深い眠りに就いているだけ』
「深い、眠り……?」
『そう』
「なら、他の者達は…? あの子は…、イズニアは…っ」
そう問い掛ける男に白い生き物は少しの間、悩む素振りを見せた。自分が答えて良いものなのか。そう思案するように。しかし意を決したように生き物はアーデンに背を向けるとついてこいとばかりに歩き出す。
「え………?」
『アーデン… 今のきみになら きっとあれを解除できる』
「あれって……」
その問いに答えることなく生き物は進んでいく。何度声を掛けても止まることのない生き物にアーデンは仕方なくついていくしかなかった。だが、ふとここが見覚えのある景色であることに気付く。
「一周、したのか…」
そこには前の世界から落ちて着地したあのお気に入りのソファにクッション、堆く積み上げられた書籍類があって。そしてその少し先には……生き物が銀色から金色へと変えた錠前付きのパネルがあるはずだった。
「まさか、あのパネル……?」
そうアーデンが予想した通り、生き物は脇目も振らずそのパネルへと進んでいく。一心に。迷うことなく。
……何故、あのパネルなのか。あのパネルに何かあるとでも言うのか。アーデンはちいさく眉を寄せた。元々、チョコボの絵が描かれていたパネルだった。それを生き物の力で違うパネルへと変えた。クリスタルの欠片を集めないとロックが解除されないパネルへと変えた……はずだった。なのに。
「変わっ、た…」
追いついたアーデンの目の前でカシャンと錠前の外れる音。消えていく絵。代わりに浮かぶのは前の絵とは全く違う、一枚の羽根を模した図柄で。
『…ボクは託された』
『もし きみに必要なら渡してくれと あの子に』
ふるりと肩が震える。あの子。それは間違いなくあの黒チョコボのことだろう。その子が一体何をこの生き物に託したというのか。
『さぁアーデン 踏んでみて』
そう促されて一瞬、躊躇った。本音を言えばおそろしかったのだ。何が出てきてもそれはきっと男を苛むだろうから。後悔しか生まないだろうから。だが、それでも踏もうと思ったのは受け取らなければならないと思ったからだ。アーデンはゆっくりとパネルの上へと乗る。
「……ぁ、」
起動する音。輝き出すパネル。幾つもの赤い光の粒子がパネルから弾け、男の左腕へと絡みついていく。
「これ、……」
少しずつ形を伴って赤い光が見た目と同じ重さへと増していく。融合し、分裂して。光は一枚、一枚、指先へと生え揃う柔らかな羽毛の形へと変わり、かと思えば徐々に腕を覆うほど大きなものへと形作っていった。
「もしかして、…羽……?」
その、想定を肯定するかのように。赤い光は形を成し終えると散り散りに消えていく。そうして腕に残ったのは黒い片翼──濡れたように艶を纏う漆黒の羽だった。うっすらと紫がかったそれに男はハッとする。
誰に言われずとも分かった。これはあの子のものなのだと。あの子の羽なのだと。
「なん、で…」
『……アーデン ボク言ったよね…』
「………?」
『生きてるものはこの世界に連れてはこられないんだって』
「………言ったね」
確かに生き物はそう言った。なぜならここは夢の世界だからと。そう頷いて、ふと思う。それなら、死んでしまった者ならば……? 生きていない者ならばどうなのか。
……アーデンは思い出す。ジールの花が咲き誇る前の世界で、過ぎ去る風と共に誰かが囁く声を聞いたことを。傍らを通りすぎていった誰かの気配を。……そうだ。あれは間違いなくイズニアだった。イズニアの声だった。腕の中で血が止まらず治癒の力も効かないまま重くなっていった彼の──。
「そういう…ことか、」
いや、そうじゃないな。アーデンは固く目を閉じる。本当は気付いていたのだ。ただ、ずるい自分は信じたくなくて、否定してほしくて一縷の望みをかけて願ってしまった。彼らが先に、アーデンを置いて逝ってしまったわけじゃないと。永遠に届かぬところへ、ヴェールの向こうへ行ってしまったわけではないと。生き物に否定してほしかったのだ。一時で良いからそう思いたかった。そんなこと、意味がないと知っていたのに。有り得ないと分かっていたのに。
「ダメ…だったんだな……」
ポツリと洩らす。主語も何もないその言葉に生き物は沈黙したままだった。もしかしたら意味が分からなかったのかもしれない。だがそれでもそれが答えなのだとアーデンはなんとはなしに思った。否定も頷きもしない。それこそが生き物にとって唯一表せる肯定なのだと。
「……教えて、ほしいんだ。……あの子は、」
ぎゅ、と拳を握る。口端が震えていた。それでも訊かずにはいられなかった。
「…あの子は、俺を怨んでいたか……?」
『……アーデン』
生き物が答えに窮したように惑い、言葉を切らした。まるで何と答えていいか分からないといったように。
困らせるつもりはなかったんだけどなぁ。そう思いつつ、答えられないということはそれが答えなのだろうかと、唇がちいさく震えた。仕方がない。分かっていたことだ。そう思い詰める男に、生き物はふるふると首を横に振り、キュウと鳴く。きいて、アーデンとでも言うように。
『そうだね… ボクはあの子じゃないから 本当のところどう答えたらいいのか よく分からない…』
生き物は慎重に文字を浮かび上がらせる。誤解のないように、間違いのないように。けれども少しでも想いを伝え損ねないように、ゆっくりと、丁寧に。
『だけど あの子は最期の時 決してひとりじゃなかった』
『最後まできみを 守ろうとした』
『最期の瞬間まで あの子はキミと共にあった』
『そして これからも』
そう言って生き物は左腕の翼へと目を向ける。それが証なのだと言うように。それがあの子の意思なのだと言うように。優しく文字が綴られていく。
『それが全てなのだと ボクは思うよ』
『…そんな子が きみを怨むかなぁ』
「………ッ…、」
言葉の意味を呑み込んで、アーデンは唇をきつく噛み締めるしかなかった。そうでなければ零れてしまいそうだったのだ。嗚咽が、懺悔が、無力が、至らなさが、隙間を縫って洩れ出てしまいそうで。
「ふ、…っ、どうして……どうして…っ」
アーデンはやりきれないとばかりに顔を覆う。どうしてあんなことになってしまったのかと。どうして彼らは死ななければならなかったのかと。どうして自分だけが生き延びてしまったのかと。どうしてこの生き物はそれを知っているのかと。
「君は、…一体何者なんだ……」
自分のことを知ってる生き物。過去もこの世界も知っていて、道案内を買ってまでずっと傍にいてくれる白い獣。大切なことを伝えてくれる、不思議な生き物……。なのに分からない。忘れていた記憶を思い出したはずなのに、どうしてこの生き物がアーデンを夢の出口へと導こうとするのか、傍にいてくれるのかちっとも分からないのだ。
『…ぼくが きみを知っているように きみもまた ぼくを知っているはずなんだ』
生き物は寂しげに鳴く。
『でも きみはきっと全てを思い出せていない…』
『だから ぼくが分からないんだ』
「…すべ、て…思い出せて、ない…」
そう、と生き物は頷く。ただそれは半分正しくて、仕方のないことなのだと。分かっていたことなのだと言葉を連ねて。
『生きてるきみは かなしみのあまり優しい記憶を忘れてしまった』
『この夢に置いていってしまった』
『覚えていると つらいから とても苦しいから 手放すしかなかった』
白い生き物はゆるりと向こう側へと顔を向ける。まるで何かを指し示すように。見つけ出したように。見つめ、トコトコと歩み寄っていく。
『……ほら あの記憶だって』
アーデン、と生き物は呼ぶ。こっちに来て、と。呼ばれるままアーデンはふらふらと覚束ない足取りでそちらへと向かった。忘れてしまった記憶。置いてきてしまった記憶。それが何なのか思い出せないけれど、思い出さなければならないような気がしたのだ。そう、生き物が言っているような気がしたから。
「………これ、」
そこにあったのは《!》の刻まれたシルバーパネルだった。森の世界でいくつもの幻想を見せた銀のパネル。”神々の幻影”を映し出すパネルだ。……記憶の戻ったアーデンにはもう分かっていた。このパネルが起動するとその昔、与えられた絵本で見た六神の姿が現れることを。この世界の神々は優しいことを。
「皮肉だな…」
救いもなく、最後まで黙し続けた神が、この世界ではアーデンの行く先を教え、手放した記憶を取り戻すきっかけとなる。本当に皮肉な話だ。そんなことを思いつつアーデンはパネルへと足を乗せる。沈む感覚。カチッと填まる音。そうすれば陽光の差していた大きな窓は宵闇の姿へと足早に時間を進め。かと思えば暗い窓の外に赤い炎神の影が映り込み、それと同時に次々と部屋のあちこちに設置してある蝋燭へと灯りを灯し始めた。棚の燭台、机上のランプ、壁の照明、天井のシャンデリア──。
「あぁ……」
その美しくも妖しげな光景は。いつか忘れていた、懐かしい過去を温かく照らしていく。
──アーデン、良いものを見せてあげよう。
そう言って父が指差したのは天井からぶら下がる瀟洒で大きなシャンデリアで。使用人達の手によってまるで魔法のようにひとつずつ灯されていくそれは、少しずつ増えていく小さな焔の灯りによって徐々に金やガラスをキラキラと輝かせ、煌びやかに彩っていく。まるで遠い空の彼方で光る星屑のように。職人が手を掛け、切り出した輝かしい宝石のように。
「………そうか…、」
煌めく天井の光景と重なるように、ふとどこかの景色が脳裏に浮かぶ。青い水晶。燃え続ける巨大な隕石。そこをカーテスの大皿と、あれがメテオなのだと指し示し、教えてくれたひとは。はぐれないよう手を繋いで歩いてくれたあのひとは……自分の父だったのだとようやく思い出す。
──彼はいつしかアーデンを遠ざけるようになってしまったけれど。
確かにあったのだ。幼い自分に寄り添い、何でも教えてくれた、優しい父の姿が。忘れてしまった記憶が。ちゃんと、ここに。
『アーデン 思い出して──』
生き物がキュイと鳴く。
『ぼくは この世界の案内役』
『きみが迷わないように案内するのが ぼくの役目』
『きみが優しい記憶を忘れたまま 迷ってしまわないように かなしみや憎しみだけに 沈んでしまわないように』
生き物の大きな目が瞬く。ふわふわの尻尾がアーデンを優しく撫でた。
『ぼくは きみをたすけにきたんだよ』
「たすけ、に…」
『そう だから行こう 思い出を拾って …夢のゴールへ』
するりと生き物は立ち上がり、歩み出す。行く先は目の前にある巨大な机だった。重厚な造りの、父が愛用した執務机。炎神が連なる明かりで示した、この部屋の出口である。
「うん……さすがにそこは盲点だったな…」
アーデンがぼやく。あんなに高い棚まで登ったのに。苦く笑い、肩を竦めた。まさか机上に山ほど積まれた紙束の裏にゴールがあるなんて。しかも登っていく場所は机に備えつけられた椅子くらいしかないのだから、これはチョコボになって跳ぶことを想定されていたのだろう。なんともふざけた仕様だ。
『アーデン はやくはやく』
一足先にジャンプして机の上に乗った生き物が、アーデンを呼ぶ。仕方ないな。そんな顔をして、アーデンは片翼を広げ、床を蹴った。
ふわり。その軽さと宙へと浮かぶ感覚に、その昔、チョコボが元気良く跳び跳ねるところを見て、よく飽きないものだと思っていたことを思い出す。……なるほど。これなら少しばかりは気持ちが分かるというものだ。
アーデンは器用に椅子のクッションへと降り立つと、もうひとつ上の机上を目指して再び飛び上がる。ぶわりと風が舞い起こった。その波に体を乗せて高く羽ばたく。何かが耳を掠めた。

 

《…お前にはまだやるべきことがあるんだろう?》
《…ならばお前は──》

 

「イ、ズニア……?」
トン、と軽い音を立て、机の上へと着地する。確かに聞こえた。そう振り返って目を凝らすも、声の主が見つかることはない。
「…馬鹿だな……、…」
代わりとばかりに椅子の上に置かれた、巨大な一輪のジールの花以外には。
「そんな大きさじゃ持っていけないだろ……」
さっきまで無かったのに。いつの間に……。ぽつりと洩らすアーデンに生き物がキュウ? と首を傾げる。
『アーデン?』
「……ううん…なんでもない、行くよ」
持っていけない青い花へと背を向けて。代わりに。男はちいさくわらう。代わりに君の”  ”をもらっていくよ、と。応えるように緩やかな風がアーデンの背中を押した。分かったとでも言うようにか、早く行けとでも言うようにか。そんな柔らかい風だった。

「……そう言えば昔、」
ふと何かを思い出したようにアーデンは訥々と言葉を洩らし始めた。
「小さい頃かな、…何かの折で花言葉を調べたんだ」
『…うん』
生き物は穏やかに相槌を打った。
「それでその時知ったんだけど唯一、ジールの花には花言葉が無いらしくて、」
『……うん』
それがあまりにも不思議で、どうしてだとイズニアに訊ねた。そうしたら、ただの人が神凪様だけに咲かせられるという花に意味を連ねるなんて、そんな畏れ多いことは出来ないのだと返ってきた。
「だからイズニアとふたりで作ろうってなったんだ、ジールの花の花言葉。まぁ子どもの遊びなんだけど」
それならば。今の代のジールの花で良いから。一緒に花言葉を作ろうと、イズニアにそう提案した。自分の咲かせる花の意味を作りたいと、そう無茶を言って。
『……そっかぁ… ふたりでなんて言葉にしたの?』
アーデンは懐かしい記憶を辿るように目を細める。なんだったっけなぁとでも言うように。
「確か…”あなたのことを想っています”…だったかな」
あぁでもない、こうでもないと考えたわりに、結局ありきたりな言葉になった気がする。まぁ、幼い子どもの遊びなのだから、そんなものなのだろうが。アーデンだって今の今まで忘れていた、ささやかな思い出だ。
『ふふ… なんだかアーデンらしくないね 大分彼が頑張ったと見える』
「だろう? 俺もイズニアにそう言った」
『アーデンひとりだったら 勇猛果敢とかにしちゃいそうだもんね』
「そう言ったら神凪に相応しくないって却下されたよ」
『確かに』
一人と一匹が笑い合う。本当にくだらない話だ。
──でも。そんなささやかな出来事を、もしイズニアがずっと覚えていたとしたら……そんなことをつい、考えてしまう。
“あなたのことを想っています”
それがイズニアの、この世界でのメッセージだったなら。それはきっとアーデンの心を少なからず救うだろうと。キュイと生き物が鳴いて振り返った。
『さぁアーデン 次が最後の世界だよ』
『準備はいい?』
「はいはい大丈夫だよ」
帽子をしっかりとかぶり直し応えると、生き物は書類の山へとつけられたトンネルのような金の輪へと足を踏み入れる。
『それじゃあ 勇気を出して ボクに続け~!』
そう言って歩を進めた生き物は吸い込まれるようにトンネルの中へと姿を消した。相変わらずぶれないな…。半ば感心しながらも、アーデンも同じくトンネルの中へと足を踏み入れた。

 

 

ふわふわとジールの花弁がどこからともなくそよいだ風に揺れる。
誰もいなくなった空っぽの部屋、執務椅子のクッションの上にひとつの影が柔らかく落ちた。

それはいつか誰かの、ささやかな記憶。

 

《…イズニア。あなたのことを想っていますって、結局どういう意味なんだ?》
《そうですね……。想うというのは…つまり簡単に言うと、あなたのことが大好きです、ってことですよ》
《……気に入りませんでしたか?》
《いや…》
《あああ! やはり勇猛果敢にしますか !? ……いやでもあれはさすがに神凪として…》
《そうじゃなくて、イズニア、そういう意味ならそれがいい》
《え》
幼い手が一輪のジールの花を男へと差し出す。
《だっておれは”  ”も、イズニアも、大好きだから》
《ハイ──”あなたのことを想っています”》

震える手がおそるおそるジールの花を受け取った。そんな男の顔を見て幼子は笑う。変な顔だと。その幼子の笑顔につられ男は今にも泣きそうな顔をして、共に笑った。誰のせいですかと言って。ふたりでずっと笑い合っていた。

 

それはいつか誰かの、ささやかな記憶。いつか誰かの、優しい記憶──。