ざぁざぁと夜の帳が落ちゆく世界に雨が降る。それは普段響いているであろう雑多な音を揉み消し、より孤独と、閉塞感を齎した。
寒さにプロンプトの体がぶるりと震える。つい数十分ほど前、ぽつりぽつりと降り始めた雨がすぐに音を立て豪雨となり、自分の服をぐっしょりと濡らしてしまったせいだ。
傘を持っていなかったため、慌てて近くの小さな店の軒下へと逃げてみたものの結局は間に合わず、拭うタオルさえ持ちえなかった。おかげで未だ、髪からしずくがぽたぽたと滴り、震える始末である。
はぁ、とプロンプトは重い溜息を吐くと、力なく地面へとしゃがみこんだ。
「なにやってんだろ、オレ…」
それは今にも泣きだしそうなくらいか細い声音で。
実際、泣くまではいかずとも膝をかかえ、伏せた顔で唇を噛むとバカみたいだ…ときつく目を閉じ、呟いた。それくらいバカなことをやっている自覚はあった。
大して覚悟なんかないのにその場の勢いでやるから罰が当たったのだ。
やらなきゃよかった、と今更ながらに後悔するも時すでに遅しというもので。寒い、とびしょびしょになったシャツの上から腕をさすった指先は初夏だというのに氷のように冷たく、それがまたみじめさを呼び起こさせる。誰かと一夜を過ごすためにここまで来たのに、こんな誰もいないところでひとり寒さに震えるなんて、なんて滑稽この上ないことだろう。プロンプトは自嘲する。
それでもプロンプトの選択肢に、家に帰るというものはなかった。
家には帰りたくない……たとえ、このままびしょびしょに濡れ帰って、そこに温かい風呂や食事が用意されているとしても、あの家には。ぎゅっと指先を握りしめる。
だってあそこには父親がいる。ノクティス・アージェンタムが。
眼裏に浮かぶのは強い意思を宿した青い目だった。いつからだろう、あの目を忌避するようになったのは。優しいまなざしが、じっとりとこちらを見つめるようになったのは。
向けられる視線を思い出し、ぶるりと背筋を震わせる。やはり家には帰りたくないし、あの目に触れたくない。あの目は隠し事ひとつ許そうとせず、自分の雄の部分を嫌な風に刺激するから。これを世間では反抗期と呼ぶのだろうか。それでもいいとプロンプトは思った。あの目に触れるくらいなら、まだ外で凍えているほうがマシだと。
しかしそう強がってはみるものの、これから行く宛などなく途方に暮れる。このまま時間が経てば補導されるだろうし、そうでなくても確実に風邪をひくだろう。くしゅんと一つくしゃみをする。ずず、と鼻をすすって、体を一層小さくした。まるでどこにも行き場のない猫のようだった。家にも世界にも馴染めない無粋な野良猫。これじゃあ拾ってくれる人もいないはずだ。そう唇を歪めた時だった。
「そこのキミ。こんな時間になにしてるの」
突然、頭上から降ってきた男の声。それにヤバい、とプロンプトは勢いよく顔を上げると、反射的に立ち上がり逃げようと足を踏み出した。補導は不味い。自分のせいで呼び出された父親の顔を想像し、苦虫を噛み潰したような顔をする。きっとこれ以上ないほど叱咤されるだろう。あの青い目に烈火の炎を盛らせて。それが嫌でダッシュで土砂降りの雨の中へと突っ込もうとするプロンプトを止めたのは、他の誰でもない、声を掛けてきた男だった。
「こらこら、こんな酷い雨の中どこ行くの、”プロンプト”くん」
がっしりと腕を掴まれ勢い余ってたたらを踏むプロンプトを支えながら、男は面白おかしげに首を傾げる。は? とプロンプトは戸惑いながら男を見上げた。背の高い男だった。自分より頭一つ高い中年の男。緩やかに波打った赤い髪を肩まで伸ばし、無精ひげを放ったらかしにした一見野暮ったい風貌の男は、その一方でひげやら何やらを抜かせばそれなりに整った顔をしており、上等であろう衣類を身に着け、黒い傘を片手に年相応の余裕を携えているように見える。
「……誰、」
とは言え、全くの知らない男だ。恰好からして警察関係の人間とも思えず、プロンプトは掴まれる腕の強さに多少の怯えを滲ませながらも、警戒の色を浮かべた。アンタ、誰。なんでオレの名前を知ってるの。しっぽを丸めながらも牙を剥く獣のようなプロンプトに男は薄く笑みを刷く。
「そんなに警戒しないでよ。見ての通り、ただの一般人だよ」
胡散臭い笑みに、胡散臭い言葉。間違っても信用してはいけない類のそれに、警戒心はより一層強まる。
「そういうの聞いてない。用が無いなら手、離してよ」
腕、痛いじゃん。むっつりと返すプロンプトに男はきょとんとした顔で数度瞬きをすると、おや、ごめんね、と全然申し訳なさそうでない笑った声で謝罪し、あっけなく腕を解放した。
「逃げられると思ったらつい、ね。ほらこんな雨の中、傘も持たずに飛び出そうとしたから気になって。キミ、ノクトの家の子でしょ?」
「え…?」
「お父さん。ノクティス・アージェンタム。あれ、違った?」
「いや、違うくは、ない…ですけど…」
男の口にしたノクト、という言葉にプロンプトは目を丸くする。ノクト──それはノクティスの愛称であり、それにアージェンタムの姓がつくのならほぼ確実に──父親のことを指していた。
「…ノクトのこと知ってる、…ん、ですか?」
「もちろん知ってるよ。同じ仕事先で会う仲だからね。キミのことも、よく聞いてる」
王様の子煩悩っぷりは有名だしね。揶揄うような口調で語る男に今度はプロンプトがきょとんとした顔となり瞬いて、首を傾げる。
「王様って?」
「あぁ、ノクトのことだよ。まぁ、俺だけがそう呼んでるんだけどね。なんだか彼、王様っぽくない?」
偉そうっていうか、やたらと自信満々なとこあるっていうか。思い出したのかくすりと男がわらう。嘘を言っているような顔には見えなかった。
確かに父親にはそういう面がある。ただ、そういう顔を見せるのも、ノクトや他の愛称で呼ぶことを許している人間もそう多くはなく、あの人はあれでいて人当たりはいいが交友関係はきっちりしている。認めた人間以外、愛称で呼ばれることを嫌っているし、認めた人間が他人行儀に愛称以外で呼ぶことも嫌う。そう考えれば男は間違いなく父親の知り合いなのだろう。それも愛称を呼べるほど深い仲の。
「おじさん……名前、なんていうんですか?」
「ハハ、おじさんかぁ…ま、いいんだけど。俺の名前長くってね。他の人にはアーデン、って呼ばれてる。キミもそう呼んでよ」
「…アーデン、さん?」
「アーデン、ね。俺もキミのことプロンプト、って呼ぶからさ」
敬語も無しね。王様の子に敬れるなんて畏れ多いし。
そう冗談混じりに言われる言葉に、戸惑いつつもアーデン、と呼べば男はよく出来ましたとばかりに微笑み、ぽたぽたとプロンプトの髪先から滴るしずくを拭い取る。そのしぐさに再び寒さを思い出したのか、その身はまたぶるぶると震えだした。
「ところで、プロンプト。こんな遅くにこんなところに居たら危ないよ。ほら体も濡れて寒そうだし。家まで送るよ」
近くに車を止めてるから。ほら、一緒にいこう。そう言って差し出される男の手と言葉にしばし逡巡し、うろうろと目を泳がすも、やがて諦めたようにプロンプトはふるりと首を横に振った。我儘は百も承知だ。それでも、あの家には帰りたくない。伸ばされる男の手、ではなく袖先を掴むと、プロンプトはいやだ…、と小さく呟いた。
「……かえりたくない」
男の手がぴたりと止まる。ゆるやかに浮かんでいた笑みはたちまち驚いたような、困惑したような、不可思議な生き物を見ているような、そんなごっちゃなものへと変わり、最後は駄々を捏ねる子どもに苦笑するような表情へと変わる。
「…随分魅力的な誘い文句だけど、ココどこだか分かってる?」
「……、分からないほどガキじゃない、」
きらびやかなネオン。ホテル街。けばけばしい電光に彩られたそこは、誰かが誰かの肩を寄せ、腰を抱いて一時の快楽を得るオトナの遊技場だ。そんな街のすみっこでみすぼらしく震える子どもが帰りたくないと口にする。その意味が分からないほど男も無粋なオトナではないはずだ。なぜなら男もまた、ひとりでこの街をふらついている人間なのだから。──この夜の街に子ども、に関わらずひとり身の者が彷徨っているとすれば、その理由は二つに一つ。道を誤って迷い込んだか、敢えて道を外れて入り込んだか。前者であれば保護の対象であるが、後者ならば――金で売買する対象だ。
なるほどねぇ、と言葉の意味を察した男は肩を竦めると、その口端を引き上げた。
──どうやらキミは迷子、ってわけじゃなさそうだ」
なら予定変更で。男は上着を脱いだかと思えば、それをプロンプトの肩に掛け。一回りも二回りも大きいそれがじんわりと熱を移すように冷えきったその体を包むと同時に、滑るような動きでプロンプトを立ち上がらせ、そっと体を引き寄せる。
「なっ、…に、すんの」
「帰りたくないんでしょ? なら、行き先は王様の家じゃなくても良いよね」
たとえばこの先のホテルとか。ぎくりとプロンプトの体が強張る。この街に来た以上、何の覚悟もしていないわけではないけれど、こうもあからさまに言葉にされると重みが変わる。
「…オレを、買うの?」
オレ、高いよ。強気に、はったりを掛けるプロンプトに男はそれこそ大人の余裕で、金はあり余るほどあるからねぇ、と喉を震わせた。それにプロンプトの喉がごくりと上下する。緊張に血の気が下がり、じわじわと馴染み始めていた上着の熱が急に分からなくなった。
「さて、プロンプト。交渉は成立? 不成立?」
まぁ答えはもう分かっているんだけど。そう言いたげな顔で訊ねる男が憎らしいのに、けれどもさっきやったような土砂降りの中へと飛び出す気概は微塵も生まれてこなかった。それが答えの全てだとでも言うように。男はプロンプトの腰に腕を回し、己の傘下へと招き入れると、ネオンの街へといざなった。
***** *****
もっと安っぽいところに連れていかれるのかと思ってた。それが男の提示した、たった一枚のカードで通された部屋を目の当たりにした、プロンプトの率直な感想だった。いや入り口からしてそこらにあるお安いラブホテルやビジネスホテルなどとは全く違うな、くらいは思ったけども。
まさかここまでちゃんとした──ちゃんとしすぎて一泊するだけで一体いくら掛かるのか心配になるほどの──ホテルに連れてこられるとは夢にも思わなかった。まるで大理石のようにつやつやと磨き上げられた床、その上に敷かれた高そうな毛足の長い絨毯と、赤い色が印象的な大きなカウチソファが二脚、その間を埋めるように置かれたテーブルはどっしりとした重厚な造りで。天井から釣り下がる洒落たシャンデリアを始めとする照明は明るすぎず暗すぎず、ほどよい明るさで煌めいており、その空間の先に続くベッドルームまでをも品よく照らしていた。二人で過ごすにはこころもとない心地になるほど広い空間。それを前に、プロンプトは知らず唾を飲み込んでいた。
「ずいぶん不安そうな顔をしてるね、プロンプト」
促されるまま足を踏み込んだ二人の後ろで、オートロック式の扉が鈍い音を立て、閉まる。ガチャリという錠の落ちる音がやけに耳に響いて、プロンプトはぴくりと肩を震わせた。
「べつに……」
そうあからさまな強がりを口にすれば男はくつくつと肩を揺らし、顔を覗き込んできて。その気まずさに思わず目を泳がせ、きゅっときつく唇を引き結べば、男のわらいは一層深くなった。
「ねぇ……ひとつ、聞いてもいい?」
「いいよ」
「あんたは、本当にノクトの知り合い…?」
このホテルを前にしてからずっと抱いていた疑問──この男は本当に父親の知り合いなのだろうか、というそれ。男のわらう声がぴたりと止まった。プロンプトは男の表情を見逃さないよう、じっとその顔を見つめ返した。
「なぜ?」
「……常識が違いすぎる」
悪いが父親は普通のサラリーマンで。その息子の自分は普通の男子高校生で、普通の一般的な中流家庭育ちで。ついでに言えば今はただの濡れ鼠同然の子どもで。そんな子どもを。たとえ知り合いの息子だからといって普通、こんな上等のホテルに連れ込むだろうか。答えは否である。
ゆったりとノクトの唇が弧を描く。あの、こわい目が自分を静かに射抜いた。