猫又物語【かくれんぼ】

 気持ちの良い風が吹き、生い茂った青い葉がさわさわと葉擦れの音を響かせる。季節は春から夏へ。花の盛りも疾うに過ぎたしだれ桜の上で、リクオは煙管を片手にのんびりと夜の帳が下りるのを眺めていた。夕暮れから夜へと変わっていく時間帯、妖怪たちの動き出す時間帯である。
 さて今夜は何をしようか。次々と灯されていく軒先の提灯を目の端に捉えながら、リクオはあれやこれやと考える。蛇ニョロに乗ってふらりと街に出掛けるのも良いし、牛鬼のところへ行くのも悪くない。いや、昨夜、良太猫に任せた不届き者の始末を確認するためにも、そちらに足を運んだ方が良いだろうか。心の向くまま、気の向くままに、今日も今日とて生きている。何物にも捕らわれることのない自由な妖怪、それがぬらりひょんなのである。囚われるとすれば、ひとりだけ。

「あ、やっぱり、ここにいた!」

 半年前に拾った、今は遠目からでも分かる、不機嫌そうに尾を振った小さな猫又だけだ。

「あーあ、見つかっちまったか」

 リクオはからりと笑った。相変わらず鼻は利くようで、と肩を竦めると、猫又……もとい昼は唇を尖らせ、なんで君、こんなところにいるのさ! と咎めの言葉を口にする。何故、と言われてもそういう気分だったから、としか答えようがなく、さてな、と一言返してみれば、昼はさらにブンブンと尾を振ってみせた。大分、おかんむりなようである。日頃、温厚な性質なのでこうして目くじらを立てている姿はどこか新鮮だ。ついつい面白くて、そんなに怒ってどうしたんだい? と尋ねてみれば、それこそ噴火した山のように声を上げた。

「まだ仕事が残ってるのに君がいないって、首無が泣き付いてきたんだよ!」

 しかも君、わざと畏れで目くらまししたでしょ? と投げ掛けられる問いに、あぁ、それか、とひとり納得する。仕事と言うか最終確認と言うか、組の出納、名簿など総大将として一度は目を通しておいてください、と言われている代物だ。優秀で信頼も厚い下僕に任せているのだから特に必要ないだろうと常々言っているというのに、未だその言が通じたことはなく、毎度のことながらあの手この手で逃げ出すはめとなっている元凶でもある。何と言っても何時間も机に向かうことなど自分には到底無理な話だし、どうせ眠くなってしまうのだ。そんなことをする暇があったら剣術でも磨いていた方がマシだとさえ思っている。まぁ、そんなことを言えば、古株の妖怪達は、そういうところも先代にそっくりで、と笑うのだが。とにかく、何と言われようと苦手なものは苦手なのだ。適材適所と言うように、出来る者がやれば良い、というのがリクオの持論である。

「……って、ちょっと、聞いてるの、夜!」

ぼんやりと物思いに耽るリクオに、怒り心頭の子猫が噛み付く。全く、せっかく隠れたと言うのに、これでは誰かに見つかってしまうではないか。
困った子どもだ、と小さく笑い、リクオはしーっ、と人差し指を唇に当てると、悪戯っ子の顔をして沈黙を促した。

『見つかっちまうだろ?』

 そう小さな声で囁けば、あれだけ怒っていたにも関わらず、子どもの口がぴたりと閉じる。素直なものだ。そう感心しながら、とりあえずこちらへ来いとちょいちょいと指で誘った。
 しだれ桜の枝の上。……自分の特等席。自分が呼ばない限り、子どもも登って来ない特別な場所。その意味をすぐに理解したのか、憤慨したようにせわしなく動いていた二つの尾は、たちまちピンと伸びて、こちらを窺った。気になるのだろう。
 しかしながら、なかなか行動に移さず、じっとこちらを見つめるだけなのは、ほだされても困ると思ってか。はたまた以前、上手く丸め込まれた時のことを根に持っているせいなのか。賢い上に真面目だと損をするもんだな、と今回もほだす気満々の男はそっと笑みを濃くする。

「来ないのかい?」
「う、……」

 躊躇う子猫にわざとそう聞いて。そわそわと落ち着かないことを知りつつ、良い返事が返ってこないところでリクオはふぅん、と呟き、途端、興味を失ったようにふい、とあちらの方を見てやった。なら、良いさ。まるでそう切り捨てるかのように。それだけで子猫のうろたえる様が手に取るように分かった。
 いつものことなのだ。変な意地を張って、こうして自分の意地の悪い手に嵌るのは。きっと今だってぱっと見、傍から見れば何でもないような顔をしていながら、その実、立てていた尾をしょんぼりと垂らし、素直に頷いておけば良かったなんて思っているに違いない。その証拠に、横顔に刺さる、もう一度こちらを見ろとばかりの視線が痛いのなんの。本当、素直なのに素直じゃない。ほんの少し意地っ張り。でもそこが可愛くて、ひとつ背中を押してやれば簡単に堕ちてくるから、悪いと分かっていても毎度毎度止められないのである。

 さてさてあの提灯が全て灯されてから振り向こうか。それとも帰りそびれた烏達を見送ってからにするか。焦らして、揺らして時間を置いて。それだけやっても離れていかないことを分かっているからこそ出来る悪戯にリクオの心は少しばかり優越感を得る。莫迦なことをやってるもんだ。大人げないにも程がある。そう苦笑しながらもちらりと覗いた先で、子猫が恨めしそうな目でこちらを見ているものだから、やはり止められないなと思ってしまう。

「――昼、来るだろ?」
ようやく長い沈黙を破り、そう一言声を掛けると。
「……うぅ、…君は、意地悪だ、」

 根負けしたのか、むぅ、と頬を膨らませながらも、こくりと子どもは頷いた。トン、と地を蹴り、高く身軽に跳躍すると同じ枝に飛び乗る。物音ひとつ立てないあたり、さすが猫又と言うべきか。ただ少々、意地悪をし過ぎたせいで拗ねて距離を取ろうとしたので有無を言わさず引き寄せ、膝の上に座らせておく。不機嫌なまま噛みつかれないよう良く出来ましたと頭も撫でておく。そうすればぴしりと二本の尾が枝を叩いた。

「機嫌が悪そうだな、昼」
「……そういう君は随分、機嫌がよろしいようで」
「そう見えるかい?」

 飄々と言ってみせる男に唇を尖らせて、……別に、と答える子どもは大概いじりがいがある。だがこれ以上拗ねられても困るので、そう拗ねるな、やっかいな鬼役を捕まえただけだ、と笑うだけに留めておく。鬼役? 何それ、と子どもが怪訝な顔をした。それにお前のことだよ、とリクオは愉しげにくつりと喉を鳴らし、ちょんと子猫の鼻先をつつく。

「かくれんぼ。上手く隠れたって、鼻の良いお前さんはあっと言う間に見つけちまうだろ?」

 畏れを使っても見つかるし――いや、使うからこそ見つかっちまうのか? まぁ、どっちだって良い、とにかくこうして捕まえておくのが一番だからな、とそう言ってリクオは腕の中の子どもを抱きしめ、その胸元へと顔を埋める。手ずから与えた懐かしくも清い子どもの匂い。理想とも呼べるその匂いが鼻先をふわりと掠め、しばしの間うっとりと酔いしれる。

「……だって、君。一番、良い匂いがするんだもん」

 拗ねた声音は変わらずも、男が寄り添ってくることに多少気を良くしたのか、蜜に魅かれる蝶のように、子どももまたリクオの髪へと顔を寄せ、すんと鼻を動かした。甘くて濃くて良い匂い。そう呟くのは、知らず溢れ出る妖気のせいか。

「嫌いじゃねぇだろ?」
「ん、」

 今度は素直に頷く子どもに、男は満足げに笑みを浮かべる。
 漂う妖気が大きければ大きいほど子どもは甘い良い匂いがすると言う。そのため猫又由来の鼻の良さもあってか、如何にリクオが明鏡止水で隠れようともすぐに匂いで見つけてしまうのだ。やっかいと言えばやっかいな能力。おかげで側近達からはいなくなった自分を探すよう頼まれることもしばしばで、その度に怒りながら、呆れながら追いかけてくる。全く、飽きもせず健気なことだ。そう思いつつ、そんな子どもを見たいがために、わざと畏れを使って雲隠れし、あちこち逃げ回っている自分も自分だが。
 気付いていないのだろうな、とリクオは心の内で呟く。追いかけてくるお前が見たいなどと、そんな理由でこの戯れを続けているなんて。

「さぁて、捕まえた鬼さんはどうしようか」

 捕まえたお前をここぞとばかり構いたいなんて。リクオはうっそりと口端を上げる。
どうしてしまおうか。頭からぱくりと食べてしまおうか。それとも大事に懐へ仕舞ってしまおうか。愉しげに考えるリクオに、それ、どっちも鬼役相手にすることじゃないよね! と慌てふためく子どもの声は聞こえないことにする。都合の悪いことなど右から左へ。聞き流すのが一番だ。

「ちょっ……夜!」

 嫌な予感にじたばたと暴れる子ども。それに背へと回した腕ではいはい、とあやすようにするするとさすって、つ、と指先で脇腹を辿ることにする。そうすれば途端、息を詰めて固まって。それが面白くて、今度はさらけ出されている首筋に舌を這わせ、痛くない程度に歯を立ててやれば子どもの体がびくりと震え、同時にひっ、と短い悲鳴のようなものが唇から滑り落ちた。

「~~~~~っ、」

 言葉は続かぬも、尾がべしべしと腕を叩き、抵抗の意を表して。一見、怒っているようにも見えるその光景。しかしそれが違うということは、子どもの顔を見れば言われずとも分かった。ふっくらとした頬はりんごの如く真っ赤に染まり、今にも泣き出してしまいそうな目はどうしようと惑うばかり。言葉よりもずっと雄弁に、その表情は怒っているのではなく、ただただ気恥ずかしさを隠したがっているための行為だと教えてくれる。見た目と同じく子どもらしい反応。それにリクオは胸中でこっそりと悦を広げる。のだが。

「……ばっ、」
「ば?」

 ぱくぱくと開閉を繰り返していた唇がようやく何かを紡いだかと思えば、よく分からぬもので。 何のことだ、と小首を傾げるのも束の間、勢いよく子どもは、ばかばかばか! と大きな声で叫んでみせた。

「…こんのっ、ばか夜っ!」

 誰が見てるかも分かんないところで何すんのさ!
 そう耳元で喚く昼の顔は耳まで真っ赤に染まっていて、あぁ、羞恥の限界を超えたんだな、とキーンと痛む耳を押さえながらなんとなく理解する。と言うか、お前が騒ぐから誰かが来ちまうんだろ? という言葉が浮かんだのは、自分だけだろうか。もちろん思うままにそうつっこんでも良かったのだろうが、何となく無粋なような気がして、結局、喉奥に仕舞い込むことにした。むやみに藪をつついてこれ以上蛇を出す必要もあるまい。

 それよりもその小さくふるふると震える唇が目に付いて、己のそれで塞いでやりたい衝動に駆られる。子どもの興奮して赤く色付いた唇が妙に美味そうだった。どうせ塞いでしまえば、可愛くない言葉は紡げなくなるし、自ずと静かにもなるだろう。なるほど、悪くないな、とリクオは舌舐めずりをし、目の前の子猫よりも猫らしく、きゅっと赤い目を細めた。

「――昼。静かにしろって、そう言ったよな?」

 邪な笑みでそう言えば後は早く、ずいと互いの唇が触れる寸前の距離まで顔を近付ける。噛み付いていた子猫が驚いて反射的に身を引いた。それにリクオは、ふ、と吐息だけを洩らして問答無用で体を引き寄せると、その小さな唇へ素早く口付ける。

「ん……っ、ふっ、」

 柔らかい感触。そこに可愛くない小言も、鼻にかかる高い声も、閉じ込めて。まずは触れ合わせるだけの口付けをじっくりと時間を掛けて与える。食むように、吸い付くように、触れては離れ、その柔らかさを堪能し、ちゅ、ちゅ、と音を立てては、何度も角度を変えてやる。じわりと高い子どもの熱が唇を通して伝わって来るのが心地良かった。欲よりも心が満たされる感覚。まるで子ども同士がするような可愛らしい口付けであるが、ゆっくりと緩やかな触れ合いを続け、気を取られない程度に指先で背をくすぐり、抱きしめることで、子どもの固まっていた体からは上手く力が抜けていく。

「甘ぇ…だろ?」

 そうして良い頃合いにくたりと体から力が抜けたところを見計らい、一度、唇を離して、そう囁けば子どもは思いのままにこくりと頷いて。それからハッと思い出したように慌てて知らない、と首を振る。強情だな、とリクオは煙管を持つ手で顎をつまんだ。今やその貌はとろりと愉悦に浸っているというのに。

「嘘はいけねぇなぁ、昼?」

 お前はそういう体なんだ。もっと素直になりゃあ良いだろう? そう言って、ふぅ、と吹き掛ける吐息。ただの息ではない。妖気のこもった吐息である。それに、違うと言い張る子猫の喉が知らずこくりと上下するのを見逃しはしなかった。
 ……無理もない。まだまだ妖怪として幼い子どもは、猫又の中でもかなり弱い部類に入り、子猫が母猫から乳を貰うように他者から妖気を得る必要があるのだ。
 体が求めているものというのは、大体にしてその舌に甘美なもの。昼にとっての強い妖気というのもまた、何度でも口にしたくなる菓子のような甘さと、麻薬のような魅惑を有しているのである。
 ――それこそ場所も怒りも忘れるほど強く、蠱惑的な誘惑として。

「欲しいだろ、昼」

 それとも、そんなに恥ずかしいのかい? 固く目を閉じる子どもの唇を掠め取り、男はそう言うと、ならば手伝ってやるとばかりにそれまで抑えていた畏れを一気に広げた。

「………ぁ、」

 突然、放たれる強大な妖気に、ふるりと子猫が戦いて。肩を掴む指先がするりと力を失い、甘い匂いに惹き込まれる。ぬらりひょんの畏れ、明鏡止水。呑み込まれれば、如何に声を上げようと誰にも認識されぬ、その力に。

「これでもう、悩むこたぁねぇだろ?」

 ほら、とリクオが背中を押した。吐息が交わり、寄せられる唇。くらくらと銘酊感にも似た感覚にもはや抗う術はなく、とうとう昼の舌がリクオの唇へと伸ばされる。
 恐る恐ると言うようにぺろりと舐める舌先。それを怯えぬようそっと自分の口内へと誘い込んで、やんわりと絡ませれば、ぴちゃり、と響く水の音。猫又と言えど、その舌はひとのそれとよく似て柔らかく、子どもの肩はぴくりと跳ねた。

「…っ、ん…ぅ」

 ゆっくりと触れ合い、徐々に呼吸さえ惜しんでいって。ついには舌を舌で舐め合う行為へと変わっていく。絡ませ、吸い付き、ぴたりと合わせ。気が付けばあれだけ躊躇っていたのが嘘のように子どもは夢中で妖気と悦楽を貪っていた。
 その気持ち良さを教えたのは間違いなく自分で。舌先でつつき、表面をざらりと擦り合わせることで背筋がぞくりと震える気持ち良さも、舌同士を深く絡め、吸い上げ、不意に歯を立てられて知る腰の抜けるような気持ち良さも全て一から教え込んだのである。
 ――この妖気、口に含めばさぞ甘いだろうよ。
 そう何も知らなかった子どもを唆して。

「は…、っ」

 重なり合った唇は、触れて交わる舌先は、幸か不幸か甘い甘い蜜の味を齎した。かつては傍にいて、手で触れるだけで補っていた妖気も、この味覚と悦楽の前では既に子どもを満たすに至らなくなってしまった。一度口付けてしまえば二度と忘れることなど出来なくて。今では悦楽さえも糧のひとつとなっている。
 もっと、とでも言うようにつたない舌が、ぬるりと唾液を纏って男のそれを必死に追いかける。貪られるのと同時に貪って、わざと逃げては、引き寄せて。応えたと思ったら、翻弄して。舌だけで物足りなくなれば、柔らかい粘膜や鋭敏な上顎をくすぐる。

「―――…ん、っっ、」

 そう長い時間ではないけれども、濃厚な応えにもう十分だと昼がぷはりと息を吐き、口付けを解く。離れる間際につぅ、と舌先で繋がる銀の糸。そして、はぁ、はぁ、と繰り返される短い呼吸。脱力した体はぐらぐらと不安定で、いつものようにしなりと凭れかかってくると思いきや、今日に限ってそんなことはなく。むしろ、ぐい、と肩を押しやり、きつく眉を寄せて渋面を作ると、唐突に赤く、てらてらと濡れた舌を男に出して見せた。
 はて、何だろうか。示す意味が分からず、子どもをよくよく見てみれば、ずっと立ち上がっていた三角の耳も力無くへにょりと折れ曲がっており。一体どうしたんだい? とリクオが甚だ不思議がっていると、見る見るうちに子どもはしかめっ面から泣きそうな顔をして訴えるのだった。

「…………ッ、にがい!」

 それまで甘いと貪るように食らっていた子どもが、急に何を言い出すのか、と全く分からないと言った顔をするリクオに、妖気じゃなくて君が! と何とも理不尽な返しをされる。自分が苦いとはどういうことなのか。ますます分からないと言った風に眉を寄せ、考え込みながらリクオは無意識のうちにくるくると片手で弄っていた煙管を口に銜えた。長年、付いてしまった癖。口寂しい時や考え事をする時などよくやってしまうもの、なのだが……そこではた、と思い出す。苦いと言われる、その元凶を。

「――…あぁ、これか」

 今は空っぽであるそれ。特に何も考えず手慰みにと持っていたものであるが、そう言えば子猫が探しに来る半刻程前に一服していたな、と思うに至る。もう何十年と口に馴染んだ味なのでリクオの方はすっかり忘れていたのだが、子猫と言えば、忘れていたどころでは済まないのだろう。甘いものよりも苦いものの方がずっと敏感で、その上まだまだ幼いとくれば、嗜好品の苦みというのはどうあっても好むべきものではない。

 悪かった、悪かった、と煙管を懐に仕舞い、ますます尖らせる子猫の唇を親指の腹で優しく撫ぜ、機嫌を取ろうとすれば途端、よほど不服だったのか、あむりと噛みつかれ、そのままガジガジと歯を立てられる。痛いぞ、と言ったって聞きやしない。君が悪いんだ、と唾液まみれにして、ちゅうちゅうと吸い付き、それに飽きたかと思えば手のひらにべろりと舌を這わせる。要は自分の口からではなく肌から妖気を得ようという算段か。いくら苦かったとは言え、触れれば得られるのが妖気でありあの口付けで足りなかったとは考えづらいものの、実際はこの行動だ……そんなに腹が空いていたのか? と尋ねれば、違う、と言って、子どもはふい、とそっぽを向いた。

「……今日の君、いつもよりすっごく良い匂いがするんだよ」

 ずっとくっついていたいし、舐めていたい。さっきのは苦かったけど、これ自体はとっても甘いから。そう言って子どもは、言葉通り甘いらしい妖気だけを舐め取ることに熱を注ぐ。

「いつもより?」
「ん」

 今、広げている畏れのせいだろうか。結構、単純な仕組みなんだな、と感心する口ぶりのリクオに、それもあるけど……、と子猫は続ける。

「今日は最初から良い匂いだったよ。だから見つけるのも早かったでしょ?」

 何かしたんじゃないの? と言われても変わったことと言えば昨夜、巻き込まれた一番街のいざこざくらいだ。そこで多少なりとも畏れを放ったので、もしかするとそのせいなのかもしれない。そんなことを掻い摘んで話せば、妖気を口にするかたわら、子どもが興味ありげに耳を傾けた。人間の子どもが物語を好きなように、この子どももまた、『外』の話が好きなのである。続きはないのか、と耳や尾を立ち上げ、うずうずとする子猫に、リクオはひとつ良い考えを思い付く。

「――そんなに気になるなら一緒に行くかい?」

 一番街に。にっと笑って誘いをかけると、昼は舐めるのを止め、ぱっと顔を上げる。その目にはきらきらと嬉しそうな色が込められており、期待に満ち溢れていた。そりゃそうだ。何と言ってもあそこは子どもの『唯一』知る外の世界。同じ猫又の存在もあり、前に連れ出した時も、とてもはしゃいでいた。そうだな、とリクオはひとり思案する。『たまには』外に出してやっても良いか、と。

「行きてぇだろ? どうせオレも確認がてら行く予定だったし、お前が増えたところで誰も困りゃあしねぇよ」
「……っでも、仕事が!」

 行きたい、と言った顔して己の欲より他人の仕事とは。感心するやら呆れるやらで溜息のひとつでも吐きたいところだが、ここは我慢して、仕事ねぇ……とリクオは肩を竦めた。

「なぁ、昼。今日、やんなきゃならねぇことと、いつでもやれること……どっちを優先すべきか、賢いお前なら分かるだろう?」

 これも大将としての仕事なのだと暗に告げれば、子どもはうぅ、と言葉を詰まらせた。考えようによっては正論にも聞こえるそれに、そういや出掛ける時は誰か付けろとカラスの奴がうるさかったなぁ、とも付け足しておく。そうすれば、いよいよ子どもの欲が見え隠れして、そんなのボクが断れるわけないじゃないか、と呟く声。それは男の誘惑に頷いたのも同然で。

「―――……マタタビカクテル」

 せめてもの意地なのか、行くと答える代わりにそう言って、帰ったら絶対仕事するんだよ! と念押しする子どもにハイハイと適当に答えながら今回も上手くほだされてくれた、とリクオはこっそりほくそ笑むのだった。

 ――もちろん、与えられるままに甘いカクテルを飲み続け、酔い潰れた子どもがその後、男を逃したのは言うまでもない。