ご近所さんの話 壱【大人夜と子昼】

 怖い、怖いよ、と子どもの泣く声がする。赤い赤い夕焼け色に染まる世界で、奇異な目で嘲笑うばかり誰一人として助けてくれる者のいない世界で、子どもは必死にその短い足で走り、縺らせ、転び、されど起き上がっては這い逃げる。

 子どもはいつも追われていた。大禍時、逢魔ヶ時、追魔ヶ時。

 どうして自分だけが視えるのか分からなかった、どうして自分だけが追いかけられるのか見当も付かなかった。ただこれだけは本能で感じていた。……捕まればタダじゃあ済まない。きっときっとその身は喰われ、骨までしゃぶられ、もう二度と家に帰ることが出来なくなるだろう……そんな気がしていた。家には母さんがいる。いや母さんしかいない――家族は自分と母さんだけだから、自分がいなくなったらきっと母さんはすごく悲しむ。母さんを守れるのは、お前だけなのだと、昔、父さんが言ったのだ。だから自分がいなくなるなんてこと、あっちゃいけないのだ。嗚呼、でもどうしよう。怖い、怖いよ、誰か助けて。この化け物を誰かやっつけて。

 かつん、と何かが爪先に引っ掛かる。小石かもしれないし、また新しく出てきた化け物かもしれない。とにかく派手にすっ転んで、足を捻ったのと同時に諦めもに似た絶望がリクオの心を支配した。嗚呼、もうダメだ、今日こそ自分はこんな化け物たちに食べられてしまうのだ。ひくり、と喉が引き攣って、唇を噛み締めても堪えることの出来ない涙が大きな金茶の目から零れ落ちた。人より明らかに大きな化け物の口が開いて、尖りすぎた牙のような歯がぎらぎらと光る。ずり、ずり、と後ずさりして逃げようにも当り前だが距離など取れず、そもそも、にたぁり、と怖ろしく嗤う顔に縛られたように体も指先も、視線一つさえ動かせなくなっていた。その怖ろしい化け物はぶつぶつと何かを呟いて、その鋭い伸びきった爪を持つ手を伸ばしてくる。

 ギキョーダイ、……エサ、……サンダイメノ……チガウ、ニオイダ……ニオイガ、スルゾ……

 聞き取れても意味の分からない言葉たちを聞き流しながら、ひゅうひゅうと浅い息を繰り返す。鋭利な切っ先の爪が既に喉元へと伸びてくる。嗚呼、もうダメだ、誰か、誰か……

「……やっぱり、さっさと唾でも付けとくべきだったかねぇ」

 なぁ、ガゴゼ会の者たちよ? そう、心地良さも含んだ低い声音が背後から聞こえたかと思うと、ぴたり、と伸ばされていた爪が止まり、数瞬を置いて慌てたように引っ込められた。聞き覚えのある声に、リクオも驚く。そろそろと怯えながらも後ろを覗き見ると、やはりと言うべきか何と言うべきか、そこにはリクオよりもはるかに大きい男が、いや青年と言うべきか……とにかく、見知ったその姿に緊張と安堵と言う可笑しくも真逆の心地が胸を覆った。それもそうだ、だって彼は、

「……よ、る?」
「お前も、この時間帯は危ねぇって言ってんのに、なーんで独りで外に出るのかねぇ」

 そこら辺に出掛けるにしたってオレを呼べって、いつも言ってるだろう? そう不敵に笑うのは、唯一自分が視るモノを共有し、理解して、かつ怖いものを祓う力を持つらしい……優しくも不思議な自分のご近所さんだった。坂の上の大きな屋敷に住んでいるらしい彼は、いつもリクオがこのように怖いモノたちに追いかけられていると必ずと言って良いほど〝偶然〟に通り掛かるらしく、助けてくれる。〝偶然〟というのも、何かと彼が〝散歩〟するにはちょうど良い時間帯らしく、変に騒々しい声が聞こえたらそちらに向かうのが普通だろう? というのが彼の言い分だ。それが正しいのかどうなのかは幼いリクオには分からないが、常々助けてもらっている身としてあれこれ聞くのは野暮だと思ったので未だよく分からず終いなところも少なくは無い。

 大抵は、こうやって姿を現すだけで相手の方が畏れ入ったように逃げていくことが多く、リクオとしてはそれをとても不思議に思う半面、心配で心配でしょうがなかった。実際に彼が祓っているところを見たことが無いのである。もちろんそれだけ彼が強いという意味も込められての畏怖なのだろう。でもだからこそやはりどこか不安を感じるし、何より毎度毎度、自分の無力さから迷惑を掛けていると思えば申し訳無さでいっぱいとなった。故に呼べと言われても、今日みたいなちょっとした使いくらいであの大きな屋敷に行くのも、自分みたいな子どものために彼を呼び出すことも気が引けてそうそう出来るような事でもなく。けれども怒ってはないが、呆れた風の声色に結局は迷惑を掛けたのだと思えば、謝るしかなくて小さくごめん、と呟くと、まぁ、これも何かの縁さ、と笑い夜はリクオの小さな体を抱き寄せた。

「さーてお前さんたち、『わざわざ』こいつを追っかけてまで何用だい?」
「……ッ、…はて、何のことか。我々は偶々ガキの一人を襲っていただけのこと……貴方様に咎められる謂れなど、在りはしませんがなぁ……?」
「悪行は善行ってか? ハッ……随分、器の小せぇ奴もいたもんだ」
「しつれいですが、侮辱される謂れもございませんぞ…!」
「少なくとも相手を見極めることが出来ん奴も自我を抑えることが出来ん奴もこの組には要らねぇなぁ……報せは既に全ての組に回してあるはずだが?」

 まぁ、しょうがねぇ。こいつは良い匂いがするからなぁ?妖怪の身では堪らぬ程に美味そうな匂いがなぁ? なんせ、こいつはオレの……だから、なぁ? 途切れ途切れだが、耳に出来る言葉の端々に何を恐れたのか、うう…、と言葉に詰まる化け物――あぁ、そうだ、ああいうのを妖怪と言うんだ――その妖怪を相手に、男は低くドスの利いた声で脅す。今回は見逃してやる。……だが、次は無いと思えよ、と。そうすれば、妖怪共は瞬く間に散り散りと消えてゆき、太陽の沈みきった世界には自分と夜だけが残された。

 完全なる二人ぽっち。……そう言えばここはどこなのか、ただ我武者羅に走って逃げて道など覚えている訳もなく、気が付けば周りには人っ子一人いない。妖怪に追いかけられていた時とはまた違う、別の恐怖に再び涙が零れそうになるが、リクオは必死に歯を食いしばった。こんなことで男の子が泣いてはいけない。これじゃあ母さんを守れない。

「お前は変なところでおませさんだねぇ。痛いんなら、怖かったんなら好きなだけ泣くと良いさ」

 なんせ、ここにはお前の母さんもいない。だぁれもいない。お前とオレだけしかいねぇんだからよ。ぽんぽん、頭を撫でられ、ぎゅうと抱き込まれ、じんわりと温かい熱に抱かれてそこでようやくリクオの硬く戒めた心と涙腺が崩れ落ち、ぽろぽろと涙を溢れさせた。同年代の子どもとは違い大声で泣き叫ぶような真似は疾うの昔に忘れてしまったのだが、子どもながらに一旦落ち始めた涙を止めることは出来ない。ふぇっ、とかひっ、とか喉に詰まったみっともない泣き声。
 怖かったのだ。本当に本当に食べられてしまうと覚悟したのだ。

 いつもいつも自分ばかりが妖怪に追いかけられて、なのに周りの大人は誰一人気付いてくれず、それどころかまた変なことを言い出した、可笑しなことばかりをする子だよ、と嘲笑って。そのせいで母さんにいつもいつも悲しい思いをさせていることも知っていた。でも、自分がいなくなったらもっと悲しい顔をさせることも知っていた。どうしようもない。どうしようもなく力が無い。どうやったって母さんを悲しませるばかりで、自分はずっとずっと逃げてばかりで、一体どうしたら良いかなんて分からない。だから、ごめんなさい、ごめんなさいと嗚咽に紛れて言葉を吐きだすと、夜は頭を撫でる手を止め何を思ってか、からからと笑いだした。

「子どものお前さんに出来ることなんて、そう幾つもありゃしねぇよ。お前はちゃんと逃げたし、ここで意地を張らずに泣くことも出来た。それで十分じゃねぇか」

 なぁ、昼? そう言って、夜はくしゃりとリクオの頭を掻き撫ぜる。お前は真昼の太陽みたいな笑顔が似合うと言って付けてくれた綽名に、少しだけ涙の数が少なくなる。さぁて、そろそろ泣くのはお止め、あんまりのんびりしていると、お前の母さんが心配するだろうし、夜風に当たって風邪も引いちまう。懐から手ぬぐいを取り出して、夜は泣き腫らしたであろうリクオの目元をそっと拭う。それから、あぁそうだ、と思い出したように違う面へと折り畳んで、リクオの膝を優しく擦った。ずきり、と痛むそこに、ようやく自分が転んだことを思い出す。短いズボンは生身の膝を守ってくれる訳も無く、赤く血が滲みだしている傷を想像してまたしても半べそを掻くリクオに、もうちょっと我慢してろな、と夜は苦笑交じりに付いた土埃を払いに掛かった。

「……つうか、いっそのこと唾付けておくか?」

 ふと宵闇に暮れた中で妙案だ、とばかりに呟いた夜に、何のことだとリクオが首を傾げると、夜はくっくっ、と笑って逃げんなよ、とだけ囁いた。
 薄暗い闇の中でもきらきらと光り、艶を帯びる銀色の髪がふわり、と空気を掠めて、尻もちをついたままの立てた自分の膝へと綺麗に収まる。否、それは夜が自分の膝へと顔を伏せたからであって、手中に収まった訳ではない。

「…っ…え、なにっ……つぅッ…」
「ちぃっと大人しくしてな、昼」
「…ぁ、……ひゃっ!」

 突然ぬるり、と湿った感触が膝を這う。急に怖ろしくなり、反射的に逃げようと後ずさるがそれは夜の手が大腿を――痛くない程度とは言え、掴むことで阻まれた。
 ぴちゃり、と音がする。微かな水音と共になぞられる傷からは、ぴりぴりとした痛みが膝から伝わって、夜が何をしているのか欠片も分からず思わずふぇっ、と情けない声と涙が出そうになると、くつくつと喉奥から洩れたような笑いが響いた。

 舐めときゃあ治るって言うだろう? 迷信じみた言葉を耳にしてハッと思い至るところまで来るが、ちゅうっ、と強く吸われ、驚いてびくんと肩が跳ねた。夜が何故だか知らないが傷を舐めているのだと言うことはなんとか分かった。怖いのも……完全ではないが平気に思えてきた。でもこれは、その……。

「やっ、…あの、…あの、ね、…よる、その、えっと、」
「なんだい」
「あの、その……くすぐったいから、ね…? だ、だから…ね…、」
「は……?」

 くすぐったい、と口にした途端、夜は顔を上げて(見えないけれど、たぶん)きょとん、とした顔をした。それから、すぐにからからと大笑いを始めて、そうかい、くすぐったいのかい、とそれはそれはもう愉しげに笑って……あの調子だと、笑い過ぎて涙も出てたのではなかろうか。それくらい大笑いをするので、何が何だかさっぱり分からないリクオは、なんだか自分が笑われてる気がして、その愛らしい唇を尖らせ、すべらかな頬をむぅっと膨らませた。だって、くすぐったいものはくすぐったいと言わずして何としようか。一頻り笑いに笑った後、まぁ、いいさ。お前もそう拗ねんなよ、と頭を撫でるので、しょうがないと言った風に唇を引っ込めると、夜の大きな手はそのままその小さな体を抱き上げた。ふわり、と足が地を離れ、バランスを取ろうとぎゅっと夜の首にしがみ付くと、落ち付けとばかりにぽんぽんと軽く背を叩かれる。まるで子ども扱いだ。実際、揶揄でなく子どもそのものなのだが。まだ少し拗ねてる部分もあったので、自分で歩けるよ、と提言するも、早く家に帰りたいだろう? と返されれば大人しくするしかなかった。大人と子どもの歩幅は違いすぎるし、捻った足首だって本当は痛かった。それに自分はここがどこだか分からない。

 帰り道、分かるの? と首を傾げると、当り前だ、と笑われる。……ついでに怖いんなら目でも瞑ってな、と。確かに赤い夕焼け色に染まった街は怖かった。誰一人いない昏い宵闇はもっと怖かった。けれども、この意地悪でとても優しく、とても強いご近所さんと一緒では、いつだって夕焼けだろうと、宵闇の中だろうと怖いと思ったことは一度も無く、ただただどっと出てきた疲れにそっと瞼を下ろして、その暖かい胸へと擦り寄るのだった。

(知らぬが仏)