猫又物語【プロローグ・出逢い】

 どんなに時が流れても、どんな姿になろうとも、また君の元に戻ってくるよ。
 そう小指を絡め合って紡いだ約束を、君はまだ覚えているだろうか…――。

 

 

 それは雪のちらつく寒い日のことだった。雪見酒だ、と鴆のところまで足を伸ばし、明け方近くに戻った門前でその者を見つけたのだ。
 始めは人かと思った。人の子どもが倒れているのかと。
 それにしては可笑しなものだと思ったのはそれが一糸纏わぬ姿であったからだ。この季節、着物一枚でも寒いというのに何を考えているのか。そう訝しんで近寄れば、すぐにその考えが間違いであることに気が付いた。
 身を守るように体を丸める小さな子どもの頭の上には栗色の髪と同じ色の、どう見ても人のものではない柔らかな三角の耳が生え、その象牙色のなめらかな背の先には二本の長い尾が伸びていたからだ。
 猫又か。
 そう分かりはするものの、この子ども、いつからそこにいたのか肌の上ではうっすらと雪化粧が為されており、それは寒さに強いリクオまでも、ふるりと背を震わせる光景だった。急いで雪を払い、肩に掛けていた羽織でその身を包むと、顔を隠していた髪がさらりと頬を滑り、その貌をあらわにする。

 ――それが全ての始まりだった。

 覗いた顔、幼さの残る面影。それを見た瞬間、リクオは目を瞠り、動けなくなった。
 驚き、なんてものではなかった。それこそ呼吸が止まってしまう程、茫然とした。
 その猫又はかつて遠い過去に失ってしまった片割れと、瓜二つの姿をしていたのだから。

「―――…ひ、る?」

 思わず口を突いて出た言葉は二人の間で決めた呼び名だった。無論、意識の無い相手から返事が返ってくることはなく、しかしどうしてだろう、心が酷くざわめいた。どくりと心臓が脈を打ち、抱いた腕に力が籠る。まるで止まっていた時間が再び動き出したような、そんな感覚だった。

 

 

「――リクオ様?」

 不意に掛けられる声にハッと意識が戻される。振り返って見てみれば、門からつららが覗いており、そんなところで、どうされたんです? と首を傾げていた。おそらく、帰ってくる姿は見かけたものの、いつまで経っても中に入らぬ主を心配してのことだろう。心配性だと思う一方で、反射的に何でもない、と口にしそうになった言葉を喉奥へと押し込んだ。
 腕の中には冷たい温度。何でも無いことなどないのに、むしろ一大事だというのに。それなのにこの事実を、この存在を一瞬でも隠そうとした己の心に、リクオは驚きを隠せなかった。このまま、何でもないと誤魔化して、誰にも知られず閉じ込めてしまいたい、と願うなど、一体何を考えているのか。

「リクオ様? どうしました? お腹痛ですか?」

 口を開けては閉じ、閉じては開け。沈黙を続ける主につららは不審な顔をする。こんな寒いところでしゃがみ込んで、大丈夫ですか? と駆け寄る姿は、普段なら相変わらずガキ扱いするもんだと苦笑するところなのに、今は無性に嫌な気分へとさせた。近付くな、と舌先まで出かかった言葉を無理やり飲み下し、すぅと目を細めることで無言の静止を命じる。何故だかは分からない。ただ、誰であろうと、この子どもに近付けたくないと思ったのだ。

「……リクオ、様?」

 突然向けられる、睨むようなその視線に、つららはびくりと震え、立ち止まる。畏れも入り混じり、恐怖に立ち竦む姿は主としてやってはならぬことだと一目で分かった。けれど、動揺したつららの目が偶然とは言え、自分ではなくこの子どもを捉えるのを見て、どうしようもなく腹が立った。自分以外の者がこの子を見たというその事実が不快で不快で堪らなかった。

「――つらら。至急、鴆を呼べ。急患だ。この寒い中、裸で外に倒れてる奴がいたと伝えろ」

 地を這う低い声で、カタカタと震えるつららにそれだけを告げると、子どもの体を抱き上げ、お前は見なくても良い、とでも言うように背を向けた。莫迦な話だ、誰にも見せたくないなんて。あと一刻もしないうちに、幹部を集め、この子どもは皆の目に晒されるだろうに。
 それだけの事態なのだ。そう頭で理解は出来ても、心が追い付かない。人間で言うところの十を過ぎたばかりの体の重みは、まるで昔に戻ったような感覚を蘇らせ、まともな思考を妨げる。くらくらと眩暈がするようだった。抱いてはならぬ感情が溢れ出し、影を重ねずにはいられない。これは別の者なのだと何度繰り返しても、知らず知らずのうちに吐息が零れる。
 愛しい子ども。
 この身から消えてしまったもう一人の自分。
 もう何十年も前の話だと言うのに今もまだ記憶の中の子どもは色褪せることなく笑っていて。

 あぁ、おかえりと無性に囁きたくなった。

 

 

 

 その後、訪れた鴆により処置を施された猫又は一晩を置いて目を覚ました。ゆっくりと開いた瞼の下、その目の色は柔らかな琥珀色で、忘れもせぬ、かの子どもと同じ色だった。
 誰もが息を呑み、誰もが信じられぬと凝視した。まるで生き写しだと誰かが呟いた。もはや他人の空似では説明できぬと。もしや先代を討った、例の反魂の術ではないか、と囁く声さえ聞こえた。それにくつりと嗤って、ならば試してみるかと手を伸ばしたのはリクオだった。
 見知らぬ者達に囲まれ、怯え、戸惑っているだろうに、気丈にも、じっとこちらを見上げる猫又へそっと指を這わす。頬を撫でれば、ぴくりと三角の耳が揺れ、長い尾が布団から覗いた。反応はするようだ。引っ掻きはしない。ただむやみやたらと手は出さず、大人しく状況を見極めようとする姿がより一層、かの子どもと重なった。

「――昼、」

 そう優しく、僅かに掠れた声で呼んだのは、自分とかの子どもを繋ぐ名であり。

「昼」

 ――もしもこの子が何かの罠だとするならば、必ず何か『鍵』となるものがあるはずだと、先代には山吹の古歌があったように自分達にもまた縁深き言葉があるはずだと、そう思って紡いだ名だった。

「……ひる?」

 だからそれ以上のことは敢えて考えないようにしていた。考えては自分の中で何かが崩れ落ちるような気がしたから。この子どもを傷つけるような気がしたから。だから応えなど求めていなかった。この場限りの身勝手のつもりだった。
 それなのに。
 丸く大きな目を更に丸く大きくして、この猫又はかの子どもと同じ声で、同じ姿で、その名を繰り返す。昼ってなぁに? と初めて名を決めたあの時と同じ顔をする、から。

「あぁ、――……お前の名だ、『昼』。気に入らねぇかい?」

 何かが可笑しくなった。同じ名を与えれば、またあの頃に戻れるのではないかと夢見てしまった。子どもは、ぱちくりと瞬きをする。リクオの胸の内など欠片も知らないで、ふるふると頭を振る。そして、ひる、昼かぁと無邪気に舌の上で何度も転がし、嬉しそうに、にこりと笑った。
 リクオ様! と誰かの咎めるような声が聞こえた。しかしリクオの耳には届かない。聞こえるのは何かが崩れるような音だけ。子どもは受け入れてしまった。もう誰にもこの衝動は止められないと思った。赤い唇がゆうるりと弧を描く。

「りくおさま?」

 君のことは、りくおさまと呼べば良いの? と、子どもが首を傾げる。違う、とリクオは嗤った。

「リクオ様じゃねぇ。夜だ。夜って呼べよ、昼」

 両手で顔を掬って、吐息が掠めるくらいの距離で琥珀の目と自分の紅い目をかち合わせる。
 絡み合う視線。
 それにほんの少しだけ驚いた顔をして、よ、る? とたどたどしく紡ぐ言葉が愛らしくて、こそばゆくて。そうだ、と髪を梳き、頭を撫でてやれば昼と名付けた子どもは誉められたと思ったのだろう、きらきらと目を輝かせ、幾度もその名を呼んだ。

「よる、夜」

 幼子が言葉を覚えるように。赤い眼に魅入られたように。うわごとの如く子どもが名前を呼ぶ。リクオではなく二つ名の夜と。それがとても心地よくて、この数十年間渇き続けていた心が少しだけ満たされるような気がした。

「夜、よる…――ふふ、ボクとおそろいの名前だ」

 ひ『る』とよ『る』と。対を為すのに同じ韻を踏んだその名前が随分、気に入ったようで笑みを洩らす傍ら、いつの間にか布団から伸び出した尾がすりすりと巻き付くようにリクオの腕をくすぐった。
 おそろいのもの。
 同じもの。
 言われてみれば、ものではないにしろ、あの子も同じことをしたがったことを思い出す。同じことが出来るようにならねばと常に気を張っていたことも。

「……そういや、着物も、」

 あの子がいなくなってしまった時、未練が残っては、とあの子に関する全てのものが、ひとつ残らず焼かれてしまった。それゆえにこの屋敷には目の前の猫又に合う着物はなく、今、着せている寝着もその体には大きい自分のものであった。合うものがなければ新調するしかない。ならば同じものにしようか、とリクオはひとり思案する。おそろいの黒い着物に、似た色合いの羽織を幾つか。かつてあの片割れが身に付けていたものとそっくりのものを揃えてやれば良いだろう。
 猫又なら良太猫のところにでも預ければ良い、という話も白紙に戻そう、と思い直す。この子は本家で引き取れば良い。反魂の術で戻ってきたかもしれないというのなら尚更だ。今は何も起こらなかったものの、もしかしたら鍵は名ではなく、もっと別の何かなのかもしれない。何が引き金で目覚めるか分からぬと言うならば、自分の側に置いておくのが賢明だ。自分の前に現れたのだ。用があるのは自分のはず。他のところでうっかり目覚められて面倒事を増やされるより、事情も対策も取れるこちらの方がずっと有利なのだと、そう幹部達には説明しておこう。
 この子にはずっと空けていたかの子どもの部屋を与えて、この柔らかい髪に合う、同じ匂いの洗髪料も用意してやらねば。猫又なのだから、もう学校と言うところには行かなくても良いし、違う個体として同じ時を過ごし、同じ世界を歩んで行ける。

「――……昼、」

 固唾を呑んで見守る周囲。彼らはこの様を狂気か何かと思っているのだろうか。それとも未練がましい情とでも?
 どちらにしろリクオとって構わぬ話だった。愛でも、情でも、狂気でも、執着でも始まるところも、行き着く先も全て同じだったから。
 違うのは過程だけ。美しいか醜いか、それともただただ末恐ろしいか。違いなんてそれだけのこと。どんなに綺麗な言葉を並べても、結局最後は同じことを思ってしまうのだ。

 二度と手放さないと。
 二度と手放せなくなってしまうと。