酒は飲んでも呑まれるな

 ――ねぇ誰、ここまで夜を酔わせたのは?

 声には出ていなかったが、顔もにっこりと愛らしい笑みを浮かべていたが、周囲にいる者たちは皆、恐ろしい地響きのような低い昼若さまの言葉を耳にしたような気がした。
 どうしてこうなったのかって?
 答えは簡単だ……全ては目の前にいるこの御人のせい、夜若さまのせいなのである。
 皆が皆、自分ではありません! 誤解です! と全力で首を振るのだが、何分そこにはへべれけに酔っぱらった夜若さま、全ての元凶であるお方が周囲の焦りなどどこ吹く風で、あひゃあひゃと笑って昼若様に抱きついていれば信じるも何もあったものではないだろう。
 何と言ってもこの方、普段は涼しい顔してうわばみの如くごくごくと次から次へと飲み干していく大酒豪なのである。そんな方が、己の分も弁えずべろんべろんになるまでひとり飲むなんて有り得るだろうか。
 いや、本来ならそんなこと誰も思いやしないだろう。だが、その誰も思いやしないことが実際目の前で起こっているのだから他の妖怪たちにはどうすることも出来やしない。むしろ自分たちは止めたのだ、と主張したいくらいだろう。普段嗜む量の四倍も五倍もの酒を体の中へと注いでいくのだから、止めない方がおかしい。

 それでも呑んだ。止める者たちそっちのけで夜若さまは呑んだ。……呑んだ結果、見事出来あがったのが現状であったけど。
 ――抱き付き魔、とそう表現すれば良いのだろうか。
 頭の方に昼若さま限定の、と付けたそんな感じの。とにかくそういう若さまが気が付けば出来上がっていた。前述の通り、何がどういう事なのかさっぱり分からないが、どうも抱き付く相手は昼若さまでないといけないらしく、それは不味いですよ、と何度も何度も説得を試みるのだが、まるで子ども返りをしてしまったように駄々を捏ねる。
 言うまでも無く昼若さまに代わるぬいぐるみなんてものは(付喪神の付いた人形を除いては)あるはずもなく、必死な説得も虚しく夜若さまはすくり、と立ち上がったかと思えば明鏡止水であっという間に消え去ってくれた。そして、遠く離れた座敷の隅で上がる、昼若さまのお怒りの声。それを聞き付けようやっと駆け付けた者たちに浴びせられたのが一番初めの言葉であった。

 確かに昼若さまにしてみれば同じ座敷の、けれどかなり離れた場所で、お酒は呑めないから、という理由で毛倡妓や雪女たちの踊る舞いや唄などを楽しんでいたところへ突然の襲来。抱き付き魔。怒るのだって無理は無い。
 しかし、よくよく考えれば今の夜若さまを任せられるのも昼若さましか居ないこともこれまた事実なのであった。背に腹は抱えられない、とは誰が言ったのか。妖怪たちは皆々、口を揃えて言った――昼若さま、夜若さまのことお願いします、と。

 もちろん、昼若さまは一も二も無く断った。こんな酔っ払い、面倒見るなんてごめんだよ! と。それでも心優しい昼若さま、引き剥がそうにも酔っ払いのくせに大人しく引き剥がされず、説教をしようにもいやいやと首を横に振って、最後はうるりと紅い目を潤ませる夜若さまに、とうとう根負けしたのか引き受けてくださった。元々、二人の仲睦まじさはこの組の者なら誰でも知っている故、それを見込んでの頼み事では少々卑怯な手だったのかもしれないが、言った通り背に腹は抱えられない。ぐずった夜若さまが挙句の果てに何をするのか、明鏡止水を目前で魅せられた者は一瞬でも思ったはずだ。

 ……奥義・明鏡止水〝桜〟なんぞされてみろ、この屋敷どころか妖怪共々全滅だぞ、と。
 
 酔っ払いに理性なんて求めてはいけないのだ。あれはただの爆弾なのだ、刺激の方向を間違えればすぐにすさまじい被害を周囲に齎して碌でもない結果を導くただの爆弾。その安全装置が昼若さまだと言うのなら、ここはどんなに恐ろしくともお頼み申すしか道は無いのである。
 そして、そんな昼若さまは渋々ながらも是と頷いてくれた。これで安心、これで心置きなく宴会が続けられると、周囲の者たちがそう思ったのは始めの三分程にしか過ぎなかった……。

 

 

な ん だ こ れ は !

 酒を含んではちらり。冗談を言い合ってはちらり。どこからともなくちらりちらりと投げられる視線に昼若さまは気付いているのにわざと気付かぬ振りをしているのか、それとも本当に気付いていないのか決してその視線を気にすることはなかった。
 昼若さまの意識が向かうのはただただ膝の上の夜若さまのみ。銀色の髪をゆっくりと指で梳いて、よしよしと頭を撫でていた。そんな夜若さまと言えば、昼若さまの腰に己の腕を回して、時折すりすりと頭を擦りつけて甘えていらっしゃるという……あぁ、もうこの際だからはっきり言おう、どこの新婚夫婦だお前ら!
 いちゃいちゃいちゃいちゃと、抱きついて、膝枕して、伸ばされた腕や指を捕まえて唇を落としてみたり、こら、ダメだよと口付けを落とされた指で悪戯する唇をふに、と封じてみたり。むぅ、と膨れた夜若さまが頭を上げて手を伸ばし、頬を包んだ手で昼若さまの顔を引き寄せてみれば、昼若さまはちゅっと音を立てて唇に触れ、大人しく寝てなさい、とまた寝かし付けてみたり。

 あぁ、もう、こそばゆいったら仕方がない!

 まさか、昼若さまに夜若さまを押しつけた代償がこんな現場を見せつけられるはめになるなんて思ってもみなかった。そう全員が全員思っただろう――頼むからそういうのは自分たちの部屋でやってくれ、と。もちろん口になどしたりしないが、各々に引き攣った笑みを浮かべて自分を呪ったのには間違いないはずだ。……何故、この二人を引き合わせてしまったのだろう、と。
 今夜のどこをどう過去に戻ったって防ぐことの出来なかった巡りあわせだと分かっていても呪わずにはいられなかった。これでは宴会どころの話ではない。いっそ、誰か三味線でも弾いて子守唄代わりに出来やしないだろうか、と思案し始めた頃、またまた夜若さまは駄々を捏ね始めた。

 ……曰く、もっと酒が呑みたい、らしい。

 言わずもがな昼若さまはダーメ、と唇に指を添えてその意を伝えようとするが、さすがは酔っ払い、そんなことで自分の意見を曲げたりなどしない。あむり、と噛み付いて見事昼若さまを驚かせてみせ、かと思えばむくりと起きて大型犬が飛びつくように昼若さまを押し倒してしまった。あぁ、もう昼若さまの雷が落ちてしまうぞ、だの、だからそういうのは部屋でやれ、だの各個人、思いは違えどもひやひやとした気持ちで見守っている一方で、当の本人はきょとんとした顔のまま。はて何が起こったのかとぱちくり瞬いている間に、夜若さまはちゅっちゅっと頬に、額に、目元に、耳朶に触れるだけの口付けを落としていく。

 ――あー、つまりなんだ。抱き付き魔の次はキス魔なのかと。

 妖怪たちは遠い目をせざるを得なかった。分かってはいたが、さっきからそういう気がしていたが……目のやり場に困るだろ! と思ってはいても相手が相手にぶつけようにもぶつけられないこの衝動。酒が欲しいというのも口寂しいという意味だったのか。そう心の中で呟く妖怪たちのことなどお構いなしに夜若さまはさらなる場所へと口付けようとする。だが、それは中途半端な位置で止められてしまった……。
 むに、と。
 夜若さまの頬をつねった昼若さま。痛くは無いだろうが、良い子にしてなさいってのが聞こえなかったのかな、君は、なんて事をひんやりとした声で尋ねるものだから、自分に問い掛けられていないと分かっている妖怪たちさえもその背筋をぞくりと凍えさせる。
 夜若さまはもっと怖ろしいのか涙まで零される……………………涙まで?

 そこで、ぴたりと妖怪たちは動きを止めた。夜若さまが、泣いていらっしゃる。あぁ、と妖怪たちは思う、あぁ、あぁ、ものすごく嫌な予感がすると。
 案の定、夜若さまは言ってくださった――ひる、ひるはオレのことがきらいなのか、と。

 ――キス魔の次は泣き上戸。

 忙しい、忙しすぎる、何なんだこの御人は……。そう、ここに集う全妖怪は思ったに違いない。普段涙なんて絶対見せないような御人が、いつも余裕ぶった顔しか、不敵に笑う姿しか見せない御人が、たったひとりの片割れに頬を軽くつねられただけで泣くなんて、もはや酒の力としか言いようが無いではないか。いやまぁ、二人でいらっしゃる時はどんな姿を見せるのかは知らないけれど、少なくともこうして他の者たちがいる時に泣くような御方で無いのは確かなのである。

 昼若さまをちらりと覗き見れば、実に面倒くさそうな顔をしていた。……そうでしょうね、面倒でしょうね、ものすごく。
 はいはい、嫌いじゃない、嫌いじゃないから泣きやみなさい、男の子でしょ、とぐしぐし目元を拭う昼若さまはまさに母親そのものだった。ただそれでも泣きやまないのが泣き上戸。うそだ、きらいだからちゅーしてくれないんだ、さけものませてくれないんだ、きらいだから、きらいだから……はいはい、ちゃんと好きだから、分かったよ呑んでいいから、もう勝手に呑んできなよ……ってなんでそこで泣くんだ君は!

 相手をしてもしなくても、肯定しても否定しても泣くわ泣くわ、そら泣くわ。面倒だ、心の底から面倒だ、泣き上戸って七面倒くさい……おそらくそんなことが昼若さまの頭をよぎったのだと思われる。自分たちも思ったのだから当の本人を相手にしている昼若さまは絶対思ったのだろう――…虚ろな目をして、ねぇ、誰か一献、いや瓶ごと持ってきてくれない? なんて口になさるくらいなのだから。

 まさか自ら酔い潰れて離脱を測ろうと……!?

 いやいや、そんなまさかと思いつつ、盃も忘れないでね、あぁ升でも良いよ、なんて言葉も添えられて妖怪たちは震え上がった。こんな若さま残していかないでくださいよ……!!
 とは思うものの、昼若さまの言葉を無視できるはずもなく、誰ともなく瓶と(せめてもの救いを込めて)盃を用意すれば、昼若さまは盃を手に取りありがとうとおっしゃった。あぁ、もうこれは見守るしかないなと。妖怪たちはごくりと唾を呑み込み、息を詰める。昼若さまは盃片手ににこりと笑って薄くその唇を開いた。

「一度しか言わないからよく聞くんだよ、夜。君には今、三つの選択肢が用意されている。このまま泣き続けるか、お酒を呑むか、それとも大人しく僕の膝で寝るか。僕は優しいからどれか一つだけ選ばせてあげる」

 ただし、間違って選んだその時は、分かってるよね……?
まず予想を大きく裏切られた言葉に全員がぽかんとして、それから選ばせると言いながら、正解と不正解が混じっているこの選択に、意義を申し立てる勇者など存在せず。じゃあ、時間は十秒で、ハイ、といきなり始まるカウントダウン。十、九、八……と容赦なく減らされていく数字に大慌てする妖怪たち。
 ひとつだけ? と首を傾げる夜若さま。答えることなく笑顔で数字を減らし続ける昼若さま。
 最後の三つになった時、夜若さまはまた、ぽろぽろと幾つも涙を零されて――……。

 

 

 

 欲張りだよ、君、と泣きながら抱き付く夜若さまの頭を撫で、昼若さまは笑ってそう言いなさった。

(そうして、再びいちゃいちゃし始める二人に、胸やけを起こす妖怪たちが続出したとかしないとか)