異母兄弟パロ 肆(少し大きくなった子夜と子昼)

「……お前が望まなければ、オレはこれ以上の危害を加えない」

 そういう誓約だ、だから安心しろ。そう言って押し倒したままの姿勢で、夜は昼の茶色い髪をさらりと指梳く。思った以上に優しい手つきに、もしかしたらこれは何かの冗談なのかもしれないという一縷の望みを掛けて、夜、と声掛けるもそれは徒労に終わった。

「昼、……忘れるな」

 にぃ、と余裕のない仄暗い嗤いを顔に浮かべ、夜のリクオはこちらを睨みつけるくらい強く、その猫のように細く黒い瞳孔を向ける。そしてゆっくりと顔を近づけてその紅い唇が耳朶に触れ、ぴくりと跳ねる体を嗤っているかのように、掛かる吐息がくすぐったい一方で言いようのない感覚と恐怖心がリクオを煽った。

「オレは確かに鎖に繋がれている。……だが、所詮は獣だ」

 その鎖の届く範囲に入ってみろ。その瞬間、お前の意思は無いと思え――……。する、と首筋に鼻先が寄せられ、開いた口元にある尖り気味の犬歯が皮膚を掠める。

「……ぁ、…やッ…っ…!」

 途端、怖くなってドン、と力いっぱい夜のリクオの体を押しのけた。予想以上に重い体、厚い胸に心臓を竦ませながらも出来た隙間から体を滑り込ませて、出入り口である閉まったままの襖の前で腰が抜け、ずるずると後ずさる。

 彼は一体、誰なのだろうか。

 恐怖に浅い呼吸を繰り返しながら昼のリクオは思う。昨日まで隣で眠って、隣で食事をし、向かい合って次の悪戯の内緒話もした。ずっと隣に、一緒にいたのに、……どうしてこんな、急に。今にも泣き出しそうな昼の目には零れ落ちる寸前の涙が浮かんでいるのに、夜は慰めてくれるどころか、ゆるりと目を細めて紅い唇を開く。

「逃げないのかい、昼? ずっとそこにいるんなら……オレはお前を喰っちまうぜ……?」

 細い黒の瞳孔が、紅い沈んだ色の目が、舐めるように昼を見て。とうとう恐怖が極限へと至る。

「…ひ、…ぁ、あ、ッ……!」

 半狂乱のごとく襖を引っ掻き開いて、震える体を叱咤しながら廊下へと逃げ出した。外は明るい陽光が降り注ぐ、人間の領域。さんさんと零れ落ちる光は妖である彼には毒のはずだから。もう、怖くない、彼は追ってこられない。
 そんな馬鹿みたいなことを繰り返すも、不安も恐怖も泣きそうになるくらいの悲しみも、胸の中から溶け出すことは一切なかった。もう、戻ることは出来ないのだろうか。ぽたりと我慢出来ず涙が零れた。もう、隣にはいられないのだろうか、もう、二人で手を繋ぎ共に体温を分け合って眠ることも出来ないのだろうか。ぽたり、ぽたり、と涙が頬を伝う。誰もいない廊下の壁に凭れかかって頬を、目元をゴシゴシト擦るのに、その効果はちっとも効きやしない。

「よるぅ……」

 いつものように眠たい体を預けて、なのに乱暴にも急に己の体を組み敷いた兄。どうして、どうして……。昼の頭はそのことでいっぱいだった。

 

 

 滑稽で、愚かなこの感情を抑えることが出来なかった。傷付けたい訳じゃない。脅かしたい訳じゃない。誓約なんて、四分の三が人間であるリクオに今後一切弓を引かない、なんていうそんな大それた誓いなど無くとも、喩え刃を向けられようともそんなことは考えたりなどしない。ただ、この手に抱き留めていたい、それだけを……。

「…ッッ…ハ…ァッ……さす、が、生半可な、誓い、じゃ、ねぇ、な…ッ」

 掻き毟るように胸を抑え、夜のリクオは膝を着く。それも一瞬のことで、支えきれぬ下肢は力を失い体はなす術もなく崩れ落ちる。今ではこれは誓いなのか、呪いなのか、それさえも定かではない。……ただ分かるのは破れば罰が下るということだけ。それ相応の苦しみが、痛みが、この身を襲う。それだけの話だ。逃げる場所などどこにも無い。未来はただ一つに定められている。それを破ることは赦されない。
 それにしたって、相手はまだ年端もいかない子どもだぞ……。そう小さく嘯いて、乾いた嘲笑を零した。そうだ、これは恋や愛などと言った代物ではない。あの子どもが傍にいるとずっと胸が痛くてしょうがないのだ。だから遠くへと追いやった。それだけだ。あの子の未来を脅かす自分が隣になんていたから、だから誓約はそれを罪とした。だからこんなにも苦しくて痛くて哀しいほどに呼吸さえままらなくなる。

「ひる……」

 泣いていた。きっとあの柔らかな色を宿す目は今や痛々しく赤く染まっているだろう。拭ってやれなかった。慰めてやらなかった。泣きじゃくるあの子どもの目元を拭う者はおそらくこの屋敷に数多といることだろう。それでもしばらくその涙が止まることがない、などと自惚れても少しは赦されるだろうか……。しかし、そう思うと同時にじくじくと胸の奥が強く痛んだ。
 あぁ、やっぱり、ダメだな。

(――お前を想うことさえきっと悪……)