ひとりがふたりになる話 参

 風邪を引いてもいけないから、先に湯浴みしてしまいなさいな。そう言って追い立てられた浴場で、湯により浮かび上がる同じ箇所の傷痕に触れ合い、あわよくばと夜が食指を伸ばしかけたところで、その知らせは届いた。――あと四半刻もしないうちに今宵の宴は始まるぞ。無視しようにも元々、この宴を目的として訪れているのだから無視するわけにもいかず、渋々手を引っ込めて頬を膨らませる夜に、昼は苦い笑いを洩らした。

「わざわざ赤河童様と約束までしてくれた宴なんでしょ? ボク、楽しみにしてたんだよ」

 宴が終わった後でも間に合うから、ね? と濡れそぼった長い髪に指を通せば、絶対だかんな、と約束の口付けをして。長くて三日……それはいつ元に戻るか保証されていないのに等しいものだが、今夜だけは確実だとイタクも言っていた。宴が長引いたとしても、上手く抜けられれば問題ないだろう。……なんせこちらはぬらりひょんの孫。気付かれずに出たり入ったりすることは専門分野と言って良い。それに年に一度の宴……陽も落ちつつある今、一体何が見られるというのか。昼の興味も大きい。二人、用意された質の良い着物を身に付け、髪を乾かすなど簡単に準備を済ませて外に出れば、そこにはイタクが壁に背を預け、遅ぇよ、と腕を組んで待っていた。やはり客人の世話係に当てられたのか。悪い悪い、と言いながら特に悪びれた様子も無く、遠いのか? と尋ねる夜に、いいやと短く答えてこっちだと背を向けると高い枝の上へと飛び上がった。……どうやら妖怪相手にはさほど、と言う意味のようだ。
 ひょいと昼を抱き上げて夜も軽々と枝の上へと着地する。本当、妖怪の体ってどうなっているのか甚だ疑問を感じ得ずにはいられない。枝の上だとは一切感じさせない身軽さと安定感で、ぴょんぴょん先を進んで行くと、どこかの山の中ほどでイタクは急に立ち止まった。

「……これは?」

 目の前には太い太い注連縄。おそらく大の男でも腕に抱えるには難しいであろうそれは、大木にきっちりと結ばれ、山を一周しているのではないかと思うほど、視力の良い昼の目でも見えないくらいに遠くまで続いていた。まるでここと、この先を区切るような。と言うのも注連縄と言うのは元来そういう役割なのだ。
 場を分ける。区切られた世界は違う力を持つ。

「見ての通り境界だ。普段はここから先に立ち入ることは赦されないが、年に一度……つまり今日だけは中で宴を催すことにしている」

 そう言って、イタクはストンと地へと降りる。続けて夜も降りるとそこにも大木に結んであるものより幾分か細い注連縄が敷かれていた。枝の上にいた時よりもざわざわと騒がしい葉ずれの音が聞こえる。何があるわけでもない。ほとんど暗くなってしまった灯り一つ無いこの山奥で宴を催すというのだろうか? 金色に光るイタクの目がこちらだとでも言うように、くい、と差し示した。

「縄を超えろ」

 そう言ってイタクは注連縄を超える。すると、どうしたことか、その姿はたちまち掻き消えてしまい、え、と昼は瞠目する。人の目だけにそう見えるのか、と夜の方を覗いてみれば夜も同じように驚いた顔をしており、どうもそういうことではないらしい。行ってみるか、という言葉にこくりと頷くと、夜は敷かれたその注連縄をゆっくりと跨いだ。

 

瞬間、世界が白く、染まる―――……。

 

 ザッと風が強く吹きあがって、暗闇に慣れていた目には眩しいくらいの白い光が、はらはらと零れ落ちる。思わず目を閉じるも、ほぅ、と夜の溜息が聞こえた気がしてそっと目を開いた。つられるように周囲を仰ぎ見ると、昼の唇からも、わぁ……と感嘆の声が洩れる。
 それは一面に咲き誇る桜の花。一本や二本ではなく、見渡す限りの大木という大木全てが桜の木であり、満開となり散っていく花弁は風に吹かれて舞い落ちて、その下には地が見えぬほどの厚い薄紅色の絨毯を作り出していた。灯りのためにと付けられた幾つもの赤提灯が、またきらきらと美しく桜の花弁を照ら出して。桜の雨とはこういうものなのかと唐突に思った。柔らかな花弁が頬や肩を撫でていく。

「……話には聞いていたが、すげぇな、これは…」
「…本当…きれい……」

 二人して美しさに目を奪われていれば、おお、来たか、ぬらりひょんの孫……! と、遠くから大きな声が掛けられた。
 見れば、奥にはたくさんの遠野妖怪たち。顔を揃え、中には各々手にする盃を干している者たちもいて、宴は疾うに始まっているのだろう。今宵は無礼講ぞ! と抱きかかえる昼を下ろすや否や、いつの間に側へと来ていたのか、遠野の者たちは夜の腕をガチリと掴むと奥へとずるずる連れて行ってしまった。無礼講も何も、そもそも敬意を払われた覚えは無いのだが、そう言えば以前、遠野では酒の飲み比べをして勝ち逃げして帰っていったことがあったような、無かったような……と記憶を辿る。遠野の者たちもなかなかの酒豪揃いであるので、負けとあっては面子に関わるのだろう。何だかんだ言っても仲良いな、と昼は思う。
 上でもなく下でもなく、ただのリクオ、ひとりの妖怪として、ここの者たちは夜を扱ってくれる。それが堪らなく嬉しい。遠野妖怪たちは昼で言う、学校の友人みたいなものなのだ。……だから遠慮がいらないし、容赦も無い。限られた時間しか外に出られない夜の世界にその存在は大きな意味を持っている。まぁ、せっかく二人に分かれている時まで連れて行かなくても、と少々寂しく思うところもあるのだが、それでも微笑ましさはそれに勝る。夜の作ったあの世界で微睡みながら楽しそうにしている記憶をなぞるよりも、誰かと共に笑っている姿をこの目で確かに見ている方がずっとずっと心があったかくなるのだ。

 しかしながら、さてどうしようかと昼はひとり思案する。宴と分かっていても出来れば酒は遠慮したいところ、イタクとて酒くらい嗜むであろうし、他のところで絡まれても後々困ることは分かりきっている。はて、困ったものだと見回していれば、これ、昼の方の、と声がした。

「――暇なら酒を注いではくれんか?」

 そう言ってぐい、と差し出された大きな盃、手にしているのはこの里の長、赤河童だった。隣には青河童もいるようで、来るならほぅれ、と席を空けてくれる。手持ち無沙汰と見ての言葉なのか下戸か何かと思っての言葉なのか、どちらにしろありがたいことなので、よろこんで、と昼はにっこり笑うと、赤河童の傍らへ座り用意されている銚子を取った。盃へと注ぐ間にも、透き通る酒の上に花弁が一枚、二枚とひらひら落ちてきて。美しかろう、と赤河童が言う。本当に、と昼はまた感嘆の溜息を零した。

「ふぅむ、あんたはまこと、あのにくらしいぬらりひょんよりも、姫の方に似ておるな」
「……姫?」
「孫だから……そうだな、お前のばあさんと言ったところか? いっとう桜の好きな綺麗な姫さんで、ここの桜もたいへん気に入っておった」

 何ぞあやつ、自分の英雄譚ばかり話しおって、そんな話はしないのかい、と呆れた口調の赤河童に、昼と言えば驚きに目を丸くしていた。ばあ様と言えば、屋敷でも未だ語られる珱姫のことだ。母と同じれっきとした人間と聞いていたが、ここ遠野を訪れていたとは……。あやつは何でも自慢したがる男だからな、でぇとと称してよくここまで自分の妻を見せに来おったわい、と青河童は肩を竦める。

「だがあの時、あの姫に救われ、ここに眠らずに済んだ者もいくらかおる」
「…眠る……?」
「ここは遠野妖怪の最後の場所だ。遠野で生まれ遠野に生きた者たちは皆、ここで眠りに就くことを願うのじゃ」

 なんだ、誰も教えていないのか、と赤河童が笑う。ならばひとつ話をしてやろう、と膝を叩いて、あれはお前のじいさんが妖の主になったばかりの頃だな……、と語り始めた。

 狐の宿願、それを打ち破ったのはかのぬらりひょん、そう聞いてはいるだろうがその狐を始めとする京妖怪の中にはこの妖怪忍者、遠野妖怪も混じっていた。後にその扱われ方は酷いものだったと伝え聞いているが事実、狐が殺られたと知れば京妖怪たちはさっさと傭兵たちを捨て駒の如く打ち捨てたのだと言う。
 打ち捨てられるならまだ良かった。未だ戦力になると共に連れられた者さえ、宿願を果たせなかったと知り暴れ出す者――例えば土蜘蛛などの餌食にされたと風の噂で聞いたから。打ち捨てられた妖怪、その先に待つのは死のみであるというのに、その妖怪たち……遠野妖怪も、京妖怪までもを見捨てなかった存在は妖怪、人間含めても唯一、珱姫だけだったと言う。

 ――傷付いてるひとたちは皆、私の前では同じです。

 自らの生き胆を狙われて尚、敵、味方など違わずにその場で動けぬ者たち全ての傷を癒した。
 戦力になろうともどこにも属さぬのが遠野の誇り。そんな誇りを持つ者ほど哀れみを掛けられることを一番に嫌い、拒むのだが、ぴしゃりとそう言い切った。

「姫のおかげで多くの者たちが生き残り、多くの仲間が骸と共に帰ってくることが出来た。この木の下で眠ることが出来た」

 桜の下には骸が埋まっていると言う。この桜の下にはそうやって帰って来た遠野の者たちが最期の眠りに就く場所であり、春になればそれはそれは美しい花を咲かせる場所なのだと。
 そんな薄紅色の妖しく美しく散る花の中で、我らはまた盃を片手に集うのだ、とそう口にする青河童に、じゃあ、と言った昼はそこですぐに口を噤んだ。催されるこの宴は、年に一度だけ開かれるこの空間は弔いのためなのか、とそう問い掛けようとした言葉を喉奥へと呑み込む。そうすればまったく、あの姫と似たような顔をするのぉ、と赤河童は盃の酒を干した。

「何を考えておるかは知らんがな、勘違いだけはするでないぞ。我らは朋、兄弟、愛する者たちへ逢いに来ている。それが宴の目的じゃ」

 慰めでも弔いでもなく、ただ花となり咲き誇る者たちと語らうために。
 良いか、昼の方、と青河童が諭すような口調で語る。――この領域もまた、里の畏れの一つなのだと。この空間という世界で畏れを集め続けているのだと。この花は、亡き者たちが咲かす花だと遠野の者たちは信じている。喩えその骸がこの土の下に有ろうと無かろうと、遠野の者が遠野の者である限り、ここへ帰ってきては桜の花を咲かせているのだとそう信じている。それは強い強い想いであり……想いという名の畏れでもあるのだと。

「――妖怪は時に人などよりもずっとずっと欲深くなる。そして力ある故にそれを一心に望み、叶えてしまう」

 亡き後も逢いたいと願い、形となった畏れ、それがこの空間。過度に囚われてはいかぬからと逢う日を年に一度とすれば、逢えぬ間に想いは、畏れは、より一層降り積もって形に残そうとする。
 だがな、と二人は笑う。妖怪なんてのはそんなものだ、と。
それでも後悔せぬのがまた妖怪故よ、とそう言って、赤河童は、だろう? と後ろを振り返った。なに、と昼がつられて振り向く前に、……悪いか、というぶすくれた返答。そして同時に後ろからぎゅっと体を抱きしめられる感触にびくっと体が跳ね上がる。

「……爺さんたちと随分楽しそうじゃねぇか、昼」

 オレがいねぇのによ、と熱を持った吐息と少し拗ねた声色が耳元を掠めた。見なくても分かる。夜だ。途中で抜け出してきたのか、ほんのりと酒の香を漂わせ、自分よりも高い体温がじわりと背中から伝わってくる。何もこんな誰かの前で抱き付かなくても……、と昼は焦って身を捩るが、逃げられないようぎゅっと抱き込んでこいつはオレんのだ、と誇示すれば、何ともあのぬらりひょんによう似とるわ、と二人して呆れた溜息を零した。

「何と言うか……昼の方。あんたも、かの姫と似て……いやそれ以上にやっかいな相手に見込まれたな」
「………え…?」
「分からんか。この男もまた人間であるお前より欲深き妖怪だということよ」

 なんせ、分ける必要のないあんたの体を無理やり分けたくらいだからな、と青河童は口を開く。珱姫のことで奴良組には借りが出来た遠野は、礼という名目の元、その後続く奴良組の総大将とその者が選んだ人間ひとりを、一度だけこの桜舞う空間に招くことを約束した。人間と定めたのは一つに珱姫が人間であったことと、あとは借りを作ったのが癪だったからだ。厭味だと言っても良い。それなのに奴良組の総大将ぬらりひょんも、その息子も遠野の考えを笑うように人間を娶り、大事なひとだと言っては連れてきた。

「……母さんもここに来たことがあるの…?」
「あぁ、あるな。我ら遠野妖怪に臆することのない陽気な娘だったぞ」
「そう思えば、昼の方、お前はあの娘の面影が残っておるな」

 そりゃあ、その娘は母親で、こいつは人間なんだから当たり前だろ、と口を尖らせる夜に、まぁ、良いと言いつつ、つ、と昼の肩越しに夜の方を指差した。もう、分かるだろう、と赤河童が言う。

「そんで、当代のぬらりひょん……そやつは己の片割れ、つまりは昼の方、あんたを連れてきた」

 あんたらは二人で一つの総大将だと聞いたんだがな、と口にしたが、そこのにくらしい男、総大将が選んだ人間が同じ総大将じゃあいけねぇなんて決まりはねぇだろ? なんぞ言いおる。ついでに体を分けることの出来る秘蔵の酒までくれと言う。ぬらりくらりと隙を突いて、何物にも囚われることなくひとりを選んで、さらに極めつけはこの言い分。酒はともかく一度きりだ、よく考えろと言っても聞きやせぬ。若さ故か、一途故か、それは我らも測り知れぬがな。それでもその破天荒さとにくらしいながらもどこかにくみきれぬ自由さに、気に入ったと招くことを決め、秘蔵の酒もくれてやったのだと言う。

「気を付けるんだな。あんたが思うよりずっと欲深いぞ、そやつは」

 かか、と笑う二人にオレは妖怪だからな、と開き直り、昔話ありがとよ、とにやりと笑えば、夜は昼の手を引いて立ち上がった。そしてザザ、とひとつ吹いた強い風、桜の花弁が煽られ舞い踊り、全員の目を眩ませる。ようやく落ち付いたかと次に目を開けた時、相変わらずだな、と赤河童が肩を竦めた。

「あやつめ……また、ぶらっと来ては、あっという間に強かさを身に付けて、気に入ったものばかり連れていきおる……」

 やはり、にくらしいの、あのぬらりひょんの孫じゃ、と呟く声を背に、手を引かれた昼は一歩先を進む夜へと付いていった。
 明鏡止水。誰にも認識されることのなく動くことの出来るぬらりひょんの畏れ。今は器を持たぬ妖気の塊としてあるせいか、この空間の凝った畏れも自分のものとして使えるようだ。桜とは相性が良いなと小さく洩らす夜はちらりと昼に視線を投げかける。
 ――なぁ、昼。あの爺さんたちの話を聞いてオレのこと、嫌いになっちまったかい? そう、囁くような小さな声で問う夜に、ううん、と昼は首を横に振った。嫌いになるはずがない。ただ驚いただけのこと。
 自分たちは意識がふたつとは言え記憶を共有している。人間の自分は実際、目にしなくともあの優しい世界の微睡みの中でこの空間の存在を知ることが出来る。だから別の誰かを連れてきても良かったのだ。……今、決めずとも、将来それだけの誰かを見つける可能性もあったかもしれないのだ。それなのにその可能性を全て、自分を選ぶことで閉ざしてしまった。それにひどく驚いていて。

「もったいない、とか思ってんだろ?」
「え」
「そんな顔してるぜ? わざわざ自分を分けなくても、この景色を覚えてるのに、君が誰かと来たって別に自分がのけ者扱いされたとか言うわけないのに……ってそんな顔してる」

 ぴたりと胸の内を当てられて目を瞠る昼を眺めつつ、鈍いのか、心底良い奴なのか……どっちにしろここまで来ると問題だな、と夜は笑った。

「なぁ、昼。オレはお前とこの桜を見たいと思ったんだ。お前の隣で、お前と共にこの景色を覚えておきたいと思ったんだ」

 薄皮一枚向こうでの、どちらか一方の記憶でなく、互いが互いにその目に焼き付けたこの景色を残したいのだと。ぱちくりと瞬きを繰り返すだけの昼に、あの爺さんたちの言った通りだと夜は苦笑した。

 ――まったく、オレが欲深いのか、それともお前が無欲過ぎるのか。

 分かんねぇだろ、と夜は言う。お前はあの世界で逢えるだけでも満足していたのに、オレはもっともっとと現実のお前まで欲してしまうことも。ひとつの時にはふたつであれと願うくせに、分かれたら分かれたで傍にいないと不安になって、落ち付かなくなることも。だからと言って、こうして手を繋いでいれば満たされつつも、その一方で渇いた欲が込み上げることも。それを叶えられる力がある分、余計性質が悪いことも。……分かんねぇだろうなぁ、とそう言って繋いだ手をぐっと強く引っ張ると、夜はその甲へと唇を寄せた。
 はふりと零される熱い吐息。それが甲へと掛かり、あぁ、これが夜の欲なのだと昼はようやく理解するも、溢れてくるのはただただ愛おしさばかりだった。

「……君って…本当にボクのことが好きなんだね…」
「当たり前だろう?」

 あまりにも早い即答の言葉についくすりと笑って、同じように夜の頬へと指を伸ばすと、なら、あんまりばかにしないでよね、と指腹で頬を撫で、唇をそっと辿った。
 まさか、ボクが君に触れたくないとでも? 君とこの現実の世界で逢えたことを喜んでいないとでも? そう思ってるんなら君って本当ひどいや、と。
 繋いだ手を両手で引き寄せて、すり、と頬にすり寄せると徐々に下りては己の首筋へと当てた。とくとくといつもより速く脈打つそこに、ね? と首を傾げて見せて。今日一日、ずっとこんな調子なのに、ドキドキしてしょうがないのに、君だけ、みたいなこと言うのは許さないよ、と口にする。

「……それに、ボクに欲が無いって言うんなら、こんなこと気にしてないよ」

 そう言ってずい、と右手を夜の眼前へと差し出して。その薬指に填めてある白銀の指輪を見て、昼の顔を見て……何のことだ? と不思議そうにする夜に、だって右手じゃないか、と昼は眉尻を下げた。右手がどうしたんだ、とそれでも分からないといった顔をする夜に、だって…、と昼は言葉を続ける。

「……こういうのって、左手、でしょ…?」

 例えば結婚指輪であったり、婚約指輪であったり、兎にも角にも永遠の愛を誓うのは左手の薬指だと、そういう印象があった。誰かに聞いた話ではその指の先から伸びる血管は心臓と直接繋がっているんだとか。とは言うものの夜がくれたのは右手の方で……嬉しかった。本当に嬉しかったのだけど、どうしてなんだろう、とひっそり思ってしまった心も事実で。
 あぁ、そうかと夜はガリガリと頭を掻く。記憶を残していなかったな、と今更ながら思い出したように。
 と言うのも自分たちの記憶というのは互いが互いに共有していても、(かつて幼い昼が夜の姿へと変化した時のように)どちらか一方がそれを拒んでいれば相手には残らない造りとなっているのだ。故に有事に発展することは滅多にないとは言え、こうして齟齬が生じることが無きにしも非ずで。今回もその一例であり、昼の中には、かの酒を始めとする記憶は一切残っていなかった。そんな昼に、こいつを頼む時に言われたんだよ、と夜はするりと指輪を撫でる。

「恋人として毎日付けるんなら右手にしておけ。左手は本番用に残しておけ。相手が照れ屋なら尚更だ、ってな」

 右手の薬指は恋人を示すものなんだと。そう言って指輪をなぞる夜だったが、やっぱりなぁ、と繋いだ左手を解いて手に取ると、その薬指に口付けた。こっちにしとくべきだった、とちゅ、と音を立てて触れれば、ちろりと舌を伸ばし、歯を立てて。生ぬるく、舐められる感触にぴく、と肩を揺らせば、強く吸われる感覚……そうしてちりり、と火傷をした時に似た熱に眉を寄せると、癒すように舌を這わされる。夜が再び顔を上げたところで何したの、と覗いてみれば、ぽつんと赤い痕、どう見ても吸った、噛んだの痕では無くて、なにこれ、と目で訴えると火傷みてぇの、と夜は答えた。

「妖気で灼いた」
「…灼いたって…っ、まさかこれ消えないとか言わないよね?」
「まぁ、鴆くらいの医者なら治す薬も作れるだろうが、基本、人間の体じゃ治んねぇだろうな。別に良いだろ? 言わなきゃ誰も気付きやしねぇよ」
「君ねぇ……」
「これが妖怪という生き物だ、昼。オレの欲だ。自制なんて効きやしないし、欲しいと願ったら力ずくでも何とかしたくなる」

 ――そんなオレを、お前は嫌いになっちまうかい?
 そう先程と同じことを問い掛ける夜に、あぁ、もう何だかなぁ、と昼は笑うしかなかった。どうしてこう、不器用というか、何というか、自分を困らせるようなことばかり言ってくれるのだろう。どうしてもっと簡単に言ってくれないのだろうか。そう思う。

「……ボクはそんなことで君を嫌いになったりしないよ。でもね、こういう時はそういう言葉じゃないでしょ?」
「どう言う意味だい?」
「妖怪だから、とか、君の欲だから、とかそういうことじゃないでしょ?」

 どうして君は、赤河童様から体を二つに分けるお酒を貰おうと思ったの?
 どうして君は、ボクをデートに誘ってくれたの?
 どうして君は、この指にぴたりと填まる指輪をくれたの?
どうして君は、ボクを選んでこの景色を見せてくれたの?
 どうして君は、ボクにそんな欲を抱いたの?
 ……欲しい理由はその答えであって、妖怪だとか、欲だとかそんなものじゃないんだよ、と。

「ねぇ、夜。ボクは君が好きだよ。こんなに好きなのに嫌いになれるわけないじゃないか」

 ねぇ、君は? そう笑って口にする昼に、あぁ、と夜は苦笑した、なんだ、こんな簡単なことで良かったのか、とその腕を伸ばす。ぎゅっと抱きしめられるその感触に、昼も腕をぎゅっと背中へと回す。ふわりと吐息が耳朶を掠めて囁かれる言葉は心を満たして……欲しかったのはその一言だと抱きしめる腕に力を込めた。