咎人 弐

 また見られてる……。

 見返してはいけない。こちらが気付いていることをあちらに気付かせてはならない。こちらが気付かなければあちらもそう易々と手を出したりはしないから。自然に振舞うのだ。いつも通りの道と、いつも通りの眺めと、そう思い込むのだ。――そうすればただの人間として見逃してもらえる。無闇やたらに興味を抱かせてはいけない。
 速まりそうになる呼吸を、歩みを、強張りそうになる表情を押し留めながら昼はひたすら前へと進んだ。もう少し、もう少し……そうすれば屋敷の門だ。そこをくぐり抜ければ一時とは言え安全は保障されるはず。
 門前を進む自分の背にギラギラと獲物を狙うに似た視線を感じたまま、鞄を握った手のひらを冷や汗ごと握りしめる。大丈夫、この門前まで来て襲うような愚か者は居ない。大丈夫、大丈夫……。開けっぱなしの門の敷居を躓き転びそうになりながらくぐり抜ける。大丈夫、これで、もう――…。

 一歩。門の内なる敷地に入ってようやく昼は安堵にも近い感情の溜息を洩らし、急に力が抜けたようにずるずるとその場にしゃがみ込んでしまった。
 怖ろしいモノが、本来ならば見えないモノが見えるように、触れられるようになって早一ヶ月。子どもと言う加護を失った十三歳の誕生日を境に昼の世界はその見方をがらりと変えてしまった。これが本来の世界なのだと、あの日夜は、兄であったひとは、兄と信じていたひとは、血の繋がりなど一切無い妖は美しく嗤って言った。生まれて間もない頃、幼い自分を両親の元から勾引かしたのだと。お前は少し視え過ぎるから、この十三年、視えないようまじないを施していたのだと。そんなことは欠片も知らず十三年間生きてきた。そうして十三年経った今、隠されていた視界が開けた今、その年月の間、どれだけその夜という妖に護られて生きてきたのか嫌でも分かった。

 自分の見る世界はあまりにも他人のものとは違っている。この世界にはあまりにも多くの人ならざる者達が存在している。――明らかに人とは違った形相のモノ。人を食い物だと思っているモノ。そんなたくさんの恐ろしい妖たちが自由気ままに好き放題、跋扈している。視えるだけでも恐ろしいのに、それなのに視るだけでは飽き足らず、何度餌として、何度興味本位でその食指を伸ばされたことか。
 怖ろしい、恐ろしい、畏ろしい。どうしてこれまで気付かなかったのか。どうして誰もこの光景が視えないのか。学校の友人、屋敷の住人、他の誰かに言えるはずもなく、他の誰にも頼れるはずもなく、ただただ恐怖を押し殺して、日々を生きる。夜に相談などそれこそ出来るはずもなかった。彼は今、昼の最も恐ろしいと思っている妖そのものであり、何よりその主なのだ。……妖が怖いなどと言ったらきっと不快にさせてしまうに違いない。
 それにもしかしたら僅かなりとも抱いてくれるかもしれない心配も出来ることならさせたくなかった。如何にお前と血の繋がりは一切無いと言われようとも、これまでの生の中で兄と慕い、それを真実と信じてきた昼にとっては今も尚、夜は唯一の兄であり、家族であり――そして、罪深くも恋をしてしまった相手なのであった。

 ……言えるわけが無い。手のひらをぎゅっと握り締め、昼は涙が零れそうになるのを必死に押し留めた。気を抜けば、簡単に決壊し、溢れさせてしまうであろうそれ。怖い、恐い、こわい。だれかたすけて、と声ならぬ悲鳴を上げながら、がくがくと止まらぬ震えを抑える。だれか、だれか、だれか、こわい、たすけて、たすけて。

 

「………昼若さま?」
「――――ひっ…」

 突如、ぽん、と叩かれた肩。――――恐怖が限界を超える。
 喉奥で絡まった悲鳴と共に、昼は無我夢中で肩に乗せられたものを力の限り振り払う。ガリッ、と嫌な音と感触を感じたが気にしてなどいられなかった。逃げろ、にげろ、はやくとおくに、おいつかれないように……っ。とは言え、腰を抜かした体、竦んでしまった足は逃げるどころか動けるはずもなく、ただ地面の上でずりずりと後ずさるだけで……とうとう我慢できなくなった昼の目からは涙がぽとり、ぽとりと零れ落ちた。

 どうして、どうして……どうして自分だけがこんな目に。
 たったひと月、されどひと月、その間に昼の心は酷く脆くなってしまっていた。いつ音を立てて切れても可笑しくないほど、心は常に張り詰め、怯え、震えていた。いっそ喰われてしまった方が楽になれるかもしれない。そう思い詰めさえする昼の肩に再び何かが掴みかかる。ひくりと喉を震わせて、反射的に嫌だと、抵抗しようと顔を上げる――――――……と、そこには金色の髪を風に遊ばせる男の顔……否、頭が浮いているのであった。

「……かさま、昼若さま!? どこか痛いのですか? お怪我でもなさってるんですか?」

 辛いのでしたら、どうぞこの首無におっしゃってください……! ――そう焦った男の声に昼ははっと息を呑み、ふと我に返る。僅かに混乱の残るままの頭で男の顔を見つめ、そして恐る恐る自分の肩へとちらりと視線をやると、血の滲む引っ掻き傷の出来た手が乗っており、それからまた手首、腕へと辿って行けば今度は首より上の無い胴が映って。少し視線を動かせば、ふわりふわりと浮かぶ頭。そこでようやく昼は目の前の男が、先程肩に触れた者が、自分の世話役として宛がわれた首無であるということに気付いたのである。
 そんな昼の目に正気の色を確認したのか、首無がほっと息を吐いた。が、昼はまた違った意味で顔を青く染め上げるのであった。

「…ぁ、…ご、ごめん、……ごめん…なさい…っ…」

 恐怖のさなか、無我夢中とは言え、自分の身を案じてくれた者に傷を付けるとは……。あまりにも酷い顔をしていたのか首無もあぁ、これですか? ほんの掠り傷です、気になさらないでください、と慌てて言ってはくれるものの、信じられるはずもなかった。正直、昼にとってこの屋敷に住まう妖怪たちも十分恐ろしい対象なのである。
 十三年間知らなかっただけで、彼らも共に暮らしていたのだと教えられても、これまで一度も見ることも感じることもなかったのだ。今、外で見た者たちと何が違うのか、昼には分かりっこなかった。敢えて言うなら、恐ろしい形相をした者たちの中に人間味の多い者が混じり、何故か労わってくれるということ。それくらいだ。それも、妙に仰々しく名前も昼若さまと呼び、必ず敬語で話しかけてくるところは更に昼を疑心暗鬼へと導いた。

 どうしてこんなにも彼らは自分を敬ってくれるのか。どうしてこんなにも彼らは優しいのか――…少し考えれば分かることだった。妖怪の主と言い放ったそのひとを見れば。
 対のように夜若さまと呼ばれる彼に、妖怪の主であるそのひとに、気に入られているから、だから同等の扱いをしてくれるのだと。逆を言えば、夜がいなかったら、夜の目に止まらなくなれば彼らもまた外の者たちと同じような目でこちらを見るのではないか、と。与えられる笑みが怖い。優しくされるのが恐い。いつその見慣れた風貌で手のひらを返した扱いをされるのか、考えれば考えるほど恐くなる。

「――…昼若さま? 少しお疲れではありませんか……? そうですね、後で雪女か誰かに甘いものでも運ばせましょう。少しは落ち着きますよ」
「……ッ、い、いいです…今日は少し気分が悪いからもう部屋で休みます…夕食も、いいんで……」
「……そうですか? では布団を敷かせましょう。あまり無理をなさってもいけませんからね」
「いいから…っ…、お願いだから、放っておいてください…っ…少しの間で良いから、お願いします…ッ…」

 放っておいて欲しかった。ひとりになったところで何も解決しないと分かっていても、今はただ、心に押しかかるこの恐怖をやり過ごしたかった。昼若さま、と心配そうに覗き込む首無から逃げるように昼は無理やり立ち上がると、鞄を拾い、悪いとは思いつつも背を向けて屋敷の中へと足早に進んだ。屋敷の中にもまだまだ小さいとは言えたくさんの妖怪たちがいるのだろう。出迎えてくれているのだと分かってはいる。おかえりと言ってくれるのも。でも、怖いのだ。怖くて恐くてしょうがないのである。自分はきっと可笑しいに違いない。優しく笑って掛けられる労わりの言葉も信じられないなんて……。きっと妖怪たちの目から見ても嫌な人間だろう。
 怯えたまま自室を目指す……少なくとも自室に着けば恐怖から遠ざかれるから、そう自らを奮い立たせて強張った笑みを浮かべながら、昼は玄関をくぐるのだった。

 

 

 子どもが去った後、首無は襖を開けてここにいらっしゃいましたか、ととある一室へと足を踏み入れた。目的の人物――自分の主であるそのひとは振り向きもせず、縁側と座敷の境近くに腰を下ろし、のんきに煙管を嗜んでいた。リクオさま、と首無は声掛ける。……リクオさま、少々御話が、と。

「――…そろそろ『印』を付けて差しあげるべきではありませんか?」
「へぇ、誰にだい?」
「もちろん昼若さまに、ですよ」
「ふぅん、昼に、ねぇ……」

 こちらは真剣な面持ちで話しているというのに主と言えば適当な生返事を返すので、ちょっと、ちゃんと聞いてるんですか? リクオさま、と首無は眉を顰めた。聞いてるさ、とすぐに応えはあるものの、煙管片手に柱に凭れてのんびりと庭を眺めていた主は、ふとこちらを見れば、よりにもよってお前が珍しいことでも言うもんだなぁと、くっくっと笑いを零す。珍しいとは何です、というしょうもない小言は抑え、首無は己の右手を掲げた。それは引っ掻き傷の残る甲であり、つい先程、かの子どもによって付けられたものだった。本来ならばこれくらい簡単に消せるものではあったが敢えて残したその傷跡にどうしたんだい、とでも言いたげな主の視線が投じられ、昼若さまですよ、と首無は早々に口を開いた。

「何かと勘違いされたのか、酷く怯えられた様子で手を払われましてね……その時に出来た傷です」
「なんだ、子猫に引っ掻かれたくらいで喚くとは、お前も案外、狭量なんだな」
「違います! 私が言いたいのはそこではありません……そうするまでに至った昼若さまの心情を察してあげてくださいと言いたいんです」

 喩えかの子どもには見えずとも、首無たちはずっとあの子どもを見守ってきた。それこそ首の座らぬ頃から大切な守り子として仕え、ずっと傍らに居た。それ故に、戯れなら止めるよう、いっそ親元へ返すよう主へと過去幾度も苦言を呈していた。その度に戯れでなどあるか、と言い捨てられ、それ以上は何も口にすることは無かったが、今日と言う今日は首無も口を出さずにはいられなかった。首無には分かる――あの子どもがひと月経った今でも妖怪と言う存在に、この屋敷の者たちに怯えていることが。
 それもいつか心が罅割れてしまうのでは、というくらいに酷いことも。あれほどまでに怯える理由に首無は思い至るものがあった。突如、視えるようになったというだけでもその戸惑いは大きいだろうに、そこにこの主の気に入りという噂が広まってしまったのだ。妖怪は好奇心が旺盛だ。一目見ようと道すがら次から次へと湧いて出るのだろう。

 ……いや、それだけならまだ良い。見ているだけならば、気味は悪くとも実害はないのだから。しかし主の気に入りと言うのに『印』のひとつも付いてない子ども、なれば我こそは、と食指を伸ばされればどうなるだろうか……。簡単だ、つい先日まで徒人として生きてきた子どもには怯え、恐怖するしか無いのである。

「そもそも、何故隠したのです? 始めから視せておけば、慣らしておけば、昼若さまもあそこまで怯えることはなかったはずです」
「今日のお前はよく噛みつくなぁ。これまで一切口を出さなかったくせに」
「冗談めかしてる場合ではありません。あんな昼若さま、私ども、見ていられません」
「良いじゃねぇか。見たくなければ見なければ良い」
「リクオさま……!」
「本当なら誰にも視せたくねぇくらいだ……喩えお前たちでもなぁ? だが、加護でも無けりゃあ、あの視界を塞ぐことは出来ない」

 嫉妬と……そうでなければ執着と。赤子の時から共にある子どもに対し決して似つかわしくない言葉であろうが、それが一番近いと首無は思った。
 子どもの加護とは十三の歳より下の者たちに平等に与えられる神の加護のことである。――この年端を満たさぬ者たちは子どもと言う生き物として、神聖なものとして扱われ、またその尊き子どもたちが悪しきものに近づかぬよう神はほんの少し加護を授けている。そこらを跋扈する弱きもの程度が相手であれば弾くだけの力を子どもは生まれると同時に有しているのだ。これより、弱きものの間では赤子の生き胆信仰などが囁かれたりもするのだが、主の場合は違った。闇の主である彼は己の妖気を混ぜ込むことでその加護を歪めてしまったのである。

 子どもの視る力はあまりにも強く、主の力だけでは塞ぎきれなかったから。だから主は神の加護を用いて、妖の手が子どもに触れられるようする代わりに、その視界を覆い隠した。
 僅かであろうと神の加護。使いようによっては莫大な力へと変わるそれは確かに十三年と言う歳月、子どもの視界を奪い、織り込まれた力で以て主以外、妖たちの姿を映さなくなってしまった。そう、主が子どもを連れて来た初めの頃は、子どもも自分たちを認識していたのである。
 それがある日、主は唐突に子どもの視る力を封じてしまった。ただ知覚されずとも触れられたから誰もが何故、と思いつつも口を閉じた。……そこに寂寥の思いを抱こうとも世話役として宛がわれた者たちに困ることなど無かったからだ。
 だがそれも十三年という時を経てようやく理解する。嫉妬と、執着と、独占欲と……そんな簡単な言葉では片付いてしまう奇行。その感情はあまりにも深く、強すぎたせいで誰も気付けなかった。

「……では、それこそ『印』を付けるべきです。今のところ未遂に終わっているかもしれませんが、いつ取って喰われても可笑しくないのでは?」
「さぁて。いっそ、外に出なくなれば良いんじゃねぇのかい?」
「……本気でおっしゃっているんですか?」
「おーおー、恐いねぇ。そこは笑って流すところだろ? 大体、唾付けて嫌われでもしたら、どうしてくれるんだい」
「嫌われないようになさいな! それくらい出来るでしょう! あんまりもたもたしてると、このままでは昼若さまは神経をすり減らしていつかは倒れられてしまいますよ!」

 そりゃあ、困るな、とからから笑う姿はどうも危機感など感じさせず、それでもしょうがねぇなぁと言って主はようやく重い腰を上げる。ふと、部屋を出て行こうとして、そうそう、と思いだしたように振り向いた。なんです? と怪訝に眉を寄せる首無に、主はつい寸前まで浮かべていた笑みを収め、うっそりとした笑みを唇に乗せて、言った。

「そういや、人払いを頼むのを忘れてた。昼の部屋にはしばらくの間、呼ぶまで誰も近付けねぇよう言っといてくれ」
「承知致しました……が、何故?」
「お前が『印』を付けてやれと言ったんだろう?」
「………何を、なさる気です?」

 恐る恐る投げ掛けた首無の問いに主は唇を弧にしたまま答えることなく、するりと溶けるように目の前から姿を消す。嫌な予感がする……。されど主を止める術など持っているはずもなく、首無はとにかくと思い直した。主の命を遂行しなければ。胸のうちにしこりを残しながらも、首無は台所へと向かおうと立ち上がる。――主の声が届かない所などこの屋敷ではそこぐらいしかなく、他は庭でも、一室でもどこかしら誰かが耳を欹てているものだ。逆を言えば、そんな者たち全てを遠ざけるという意味は決して浅くないということで。
 主へと呈した自分の苦言がどうか子どもを傷つけないことを首無はただただ祈ることしか出来なかった。

 

 

 自室に戻ると、いらないと断ったはずの布団が敷いてあった。広い屋敷と言っても玄関から自室まで、その距離などたかが知れており、つまるところ首無が誰かに指示する時間は無かったはずなのだ。それが敷いてある。どこかで騒ぎを聞いていた誰かが親切心でこの短い間に敷いてくれたのだろう。……それを恐いと思う自分は果たして異常なのか、正常なのか。昼にはもう分からなかった。ただありがたいと思うより先に恐いと思ってしまうのである。言葉も無く後ろ手に障子戸を閉めると、投げ捨てるように鞄を部屋の隅に置いて昼は布団の上でぎゅっと膝を抱えた。カタカタと止まらない震える手を握りしめ、ドクドクと脈打つ心臓を落ち着かせようと息を吐いては吸って、吸っては吐いてを繰り返す。こんな姿さえも、この屋敷の誰かは見ているのだろうか。情けなさに昼はまた涙が溢れそうになった。

 ――…そうやってどれだけの時間が過ぎたのか。五分か十分か……いや、それよりも長いのか。時間の長短さえも麻痺させて俯いていた昼はふと音を拾い、顔を上げる。それはキシ、キシ、と古い床の軋む音だった。
 放っておいて欲しいという願いさえここでは叶えられないのか……。昼が知らず唇を噛み締めている間に、誰かの近付く足音は確実に大きくなって、とうとう障子戸には影を映り込ませる。

「――――昼」

 びく、と体が震えた。なんで、という言葉が瞬時に浮かぶも声にはならず、茫然と障子戸の向こうを見ているとすっ、と障子戸は開けられる。佇んでいたのは予想に反すること無く、夜という妖怪。昼、ともう一度声を掛けられると、自分でも制御出来ないところで他者から見ても分かるほど大きくびくりと体を戦かせた。怖いわけではなかった。恐いはずが無い。……それでも体は勝手に反応するのだ。ミシ、と畳を踏む音がする。昼は戸惑った。許可を得ることもなく、むしろ当然と言ったように内へと入ってきた夜は、ふっと笑みを湛えそんな昼の傍らへと膝を着くとそっと問い掛ける。

「――怖いかい、昼? 妖怪は恐ろしいかい?」

 唐突な問い掛け……されど、それは今の昼の心情を当てていて。決して何かを問い詰めるような声ではなかった。ただ優しく、子どもをあやすような、兄が弟を労わるようなそんな柔らかさが含まれていた。正直に言っても良いのだと背中を押された心地で、昼は気不味くもこくりと頷くとそうかい、と夜は苦笑して手のひらでその頬を撫でた。ひんやりとした手が気持ちよく猫のように目を細めていると、それなら、と夜はもう一つ質問を投げ掛ける。

「――うちに居るもん達も怖いかい?」

 ぴたり、と体が硬直する。まるで心の中を覗かれたような心境で。思わず視線を外して、何と答えれば正しい応えとなるのかを考える。それに、昼、と夜は呼び掛ける。嘘は言わなくて良いのだと、どのような答えでも怒りはしないのだと頭を撫で、偽りならざる応えを導く。……もちろん躊躇った。躊躇うのだが、結局、昼がおずおずと頷くと、そうかい、と夜は柔らかい声音のまま呟いた。

「――こんなことなら、お前の力を封じなきゃあ良かったなぁ」

 幼いお前には視えない方が良かれと思ったんだが、とんだ誤算だったようだ。そう言ってするりと瞼を撫でられる。優しい言葉。そんな優しさに応えられない自分がとても情けなくて。悪いのは自分だ……いつまで経っても慣れることが出来ず、びくびくと怯え、誰ともなしに不快に、心配にさせてしまう自分が悪いのである。ごめんなさい、と口を突いて出た言葉に夜は気にするな、と笑った。

「――だが、そうだな。奴らにはあまりこの部屋には近付かないよう言っておこう。その方が、お前も気が休まるだろうよ?」

 せめて自室だけでも、とそう告げて、金茶色の髪へと指を絡ませながら薄い笑みを浮かべる夜に、あれ……? と昼は一瞬、違和感を感じた。何がどうとは言えないのだが、ぞくりと背が震えたのである。理由は分からず、それでも二度、三度と髪を梳く優しくて心地よいはずのその手が、どうしてか今この瞬間だけは、何か違うような気がして昼を落ち着かなくさせた。なんでだろう……と、そわそわと落ち着きなく目を泳がせる昼に、夜はくく、と喉で笑い、その顔を吐息が掠める距離まで近付ける。

「恐いかい、昼? オレもお前にとっちゃあ恐ろしい妖怪かい?」
「…そんな、わけ……」

 紅い目がこちらをじっと見る。それは先程とは違う、謀る事など赦さぬとばかりの強い視線で。初めてではないかと思うくらいあまりにも近い距離も手伝い昼は思わず息を詰めるが、それでも否定の言葉などあるはずがなかった。これまで夜とはずっと一緒だったのだ。――姿形も変わってもない夜に今更、自分は妖怪だと言われても恐いと思うわけが無いのである。加えて夜は自分が好きな相手。恐ろしいなど以ての外だった。

「ならば、昼。オレが何をしても、お前は恐ろしくないと思い続けることはできるかい?」
「……ぇ…、夜……?」
「出来ねぇってんなら、オレもお前に近付くのは止めよう」

 ひたりと冷たい刃をあてられたような感覚だった。……思いだしたのはひと月前の恐ろしい光景。夜の最大の優しさという名目で与えられた今という現実。恐怖の日常。そんなこと以上に恐ろしいことが何かあると――? 言葉の意味を上手く飲み込めぬまま、我知らず強張る昼の姿を夜はただ静かに見つめ続ける。……決めるのはお前だと、言うように紅い瞳は揺らぐ昼の姿を映し出す。あの日のことを思い出せば、夜の言葉の意味を疑い出せば全てが全て、怖く、恐ろしくなる。けれども、もしあの日、あの時、この恐ろしい現実を知らぬ代わりに、夜という存在を失っていたとしたら――? その恐怖は今のそれとどちらが大きいのだろうか。

「………出来るよ、夜。怖く、ないよ…」

 それなら問うまでも無い。……きっと同じ問題なのだ。何を掛けようとも自分の想う相手がもう片方にある限り、天秤の傾く方向は同じなのである。夜が何をするのかも分からない。どれくらい怖いのかも。でも、夜が遠く手の届かないところに行ってしまうことの方が今の昼にとってはずっとずっと恐ろしいことだと思った。

 ――変なのかもしれない。

 勾引かされて、兄と偽られて、怖ろしい者たちの中に放り込まれて。それでも尚、この妖に恋をしているという自分は。それしか知らないからと、本当の親も兄弟も世界も何も知らない中で、自分をずっと守ってくれたのは夜という存在だったからと、夜という存在以外に頼る者はいなかったからと、もしかしたら頭が勝手に勘違いをしているだけかもしれないのに。なのに。そうだとしても、今更変えることなど出来なくて。

「本当に?」
「本当、に」
「――……そうかい」

 その応えにふわり、と夜が笑う。花が綻ぶよう、とはこういうことを示すのかと何とはなしに思っていると、不意に夜の手が昼の腕を取った。え、と困惑する間も無く力強い腕はバランスを崩した昼の体を抱き寄せ、その胸へと囲う。近過ぎる距離に昼の心臓はどくんと跳ねた。と思った、瞬間――。

「……ん、…!?」

 唇を何かに覆われる感触。目の前にある煌々と光る紅い目には驚き、目を見開いた自分が映り込んでいて、何が起こっているのか分からず昼の思考は停止する。
 否、分かっていても、とても信じられる状況ではなかった。夜と自分が口付けているなんて――そんな、信じられる訳がない。……自分は夜のことが好きだったけれど、それを何か態度で示したことも、ましてや口にしたことさえ無いのだから。
 それは夜も同じだ。

 あの日まで、ただただ良き兄弟として接していたはずなのに。なのに何故、夜がこんなことをするのか。混乱する昼の思考。それを余所に、夜の舌がちろりと唇の合間を舐めた。くすぐったいのと、止めていた息が苦しくなったので、はふりと薄く唇を開けば容易くその舌は昼の口内へと侵入する。触れた先がちり、と火傷するほど熱くて、思わず舌を引っ込めると夜のそれは深く追いかけた。

「…ふっ…ぅ…ッッ…」

 息が出来ない、呼吸さえも貪られる。後頭部を抑えられた頭は離れることを赦されず、夜の口付けを享受するのみ。初めての感覚は熱くて、柔らかくて、それからじん、と苦い味が広がって、くらくらと眩暈がする。ざらりと舌で自分のものを擦られると体が勝手に跳ねて、奥からじくじくとした痺れのようなものが込み上げる。……これが何なのか知らないほど昼は子どもでも無かった。知っている。何度、夜を想ってそこを自分を慰めたことか……。ダメだと分かっていても昼の幼い性がゆっくりと熱を持ち始める。堪らず夜の袂を握り締めれば、服とは言え、夜に触れたという感覚に尚のこと熱は上がった。

 どうしよう、と昼は焦る。このままでは見つかってしまう。夜を卑しくもそんな対象として見ていたことが知られてしまう。離れなくては、と思うのに、夜は一層体を押し付け密着させ、昼はぎゅっと目を瞑った。――途端、ぐらりと傾ぐ体。口付けるまま、ぼすんと倒れ込んだのは布団の上で、支えられていた手のおかげか強く頭を打つことは無かったものの、その距離たるや。昼の体へと覆いかぶさるような形で同じく倒れ込む夜。
 そうして甘く食まれた後にようやく離された唇は、つ……、とお互いの舌を透明な糸で繋いで。ついで口内に残るほろ苦い味に気を取られ、夜の手が上から順に体の線を辿っていることに気付かせるのを僅かばかりに遅らせた。身じろぎをしてももはや無駄で、昼の唇を舐め取ると、夜はうっそりと目を細めてべろりと舌舐めずりをする。それだけで魅入られ、動けなくなる。その姿を横目に夜はその長い指先を着物の裾に伸ばすと合わせに沿って、さらりと両端へと広げた。そうすれば赤く染まった膝頭は夜の眼前へと曝け出され、羞恥に思わず擦り合わせれば男はその赤へとちゅっ、と音を立てて口付けを落とし。添えた手で膝をやんわりと割り開き、唇はゆっくりと内側を辿った。

 暴れようにも相手が相手のため抵抗することなど出来ず、緊張と焦りだけが高ぶり体を硬直させていると、それを良いことに留まることを知らない唇は、とうとう日の光を知らない真っ白な足の付け根、内腿まで上り詰めてしまう。あぁ、と昼の顔は羞恥で赤くなる。もう誤魔化すことなんて出来ない。見られてしまう。知られてしまう。やだ、いやだ、と――…。ぎゅっ、と布団を握った。
 それを嘲笑うかのように伸ばされる舌。突然の感覚に驚き、ひっ、と悲鳴のような声が洩れる。思ってもみなかったぬるりと濡れる感覚に、くすりと零される微笑。夜が何をしようとしているのか想像も付かなかった。動けぬままに固く目を閉じていると、あまり派手に動いてくれるなよ? と囁かれ。そして――ガリッ、と強く噛みつかれる。

「……いっ………やあああああ…――ッッ!!」

 痛い、なんてものではなかった。真っ赤に熱した鉄、それを押し付けられているような熱量が夜の噛み付いたところで生まれ。悲鳴にもならぬ声を上げて、逃げようと、抗おうと必死に布団を引っ掻いた。無論、逃げられるはずはなく指先は空を掴むだけで、あまりの熱さに涙がぼろぼろと溢れる。あつい、いたい、やだ、たすけて――…。
 実際、そんなに長い間では無かったはずだ。……時間にすればほんの数秒の出来事。されど、感じた熱量は確かに現実で、耐えきれぬ熱がようやく去った後もじくじくと痛みとして昼を苛み、溢れる涙を止められないでいた。それを慰めるように夜はべろりと噛み付いたところを舐め上げる。まるで癒すように愛おしげに舐めて、それからちゅう、と吸いついて、それはそれは満足げな笑みを浮かべ、口元を綻ばせた。
 昼に見えないそこには、白い肌とは対照的な艶めかしい赤い紅い桜の紋様と、その花々を彩る赤い痕が刻まれていたのだから。

「――オレの妖気を少しばかり入れたんだ。これで多少なりとも他の妖たちへの牽制にもなるだろう」

 滅多なことでは妖たちも寄っては来るまい。襲っては来るまい。もう外で怖ろしい心地はするまいよ、と夜は泣きじゃくる昼の顔を覗き込む。痛かったかい……? と指先で溢れる涙を拭えば、昼は一も二も無く頷いた。それにまた夜は笑って、触れるだけの優しい口付けをすると、額と視線を合わせてささめいた。

「だが、これからすることは同じくらい痛いかもしれねぇぞ?」

 まだ終わりではないのだと、遠回しに告げる夜に。怖いかい? 止めるかい? そう問い掛ける夜に、昼は惑い、躊躇する。今、この時、首を縦に振れば、夜は逃がしてくれるのだろう……痛いのは嫌だ、今よりもっと痛いのなんて考えても血の気が引いてしまう。けれど、その代償として、痛みを知らなくて良い代償として何が失われるのだろう。ただで逃がしてくれるほど夜は優しい妖であろうか?

「……怖いって言ったら、夜は止めてくれるの?」
「あぁ、お前が望むなら。二度と近付かないでおこう。触れないでおこう。近付いてしまえばお前の意志を踏みにじることになるだろうからなぁ」
「居なく、なるの?」
「居なくなりはしない。お前はオレのものだし、オレが連れて来たんだからな……ただ傍には近寄らなくなる。それだけは確かだ」
「傍に、近寄らなく……」

 同じだな、と思った。――同じ家にいても傍に居てくれないのなら意味など無いのだと。片方の天秤に掛けられていたのはやっぱり夜という妖だ。あぁ、莫迦だなぁ、と昼は思う。おそらく、平和に、心穏やかに生きていきたいならここで止めてと言うべきなのだ。それが正解なのだ。分かってるのに、それなのに臆病で、貪欲で、愚かな自分は敢えて違う道を選んでしまう。……恋してはならぬ者へ恋慕の情を抱いてしまったが故に。どうやったって消えざるこの想い故に。

「僕、怖くない、よ……?」

 だから続けて。止めないで。傍に寄らなくなるなんて言わないで。それに前に言ったよね……僕は君の全てを赦すって。
気丈にもそう言い切って笑おうとする昼の涙を舐め取り、夜は艶冶に笑った。その姿は相変わらず美しくて、畏ろしくて、ふるりと背が震えてしまう。

「昼……良い子だ」

 そう言って、夜はゆっくりと唇を重ねる。与えられた口付けは甘く、優しく、とろりと昼の思考を溶かすのだった。