ご近所さんの話 肆【大人夜と子昼、時々鴆】

 主はとても気紛れだ。それは猫のように、風のように、機嫌一つ、思惑一つで相手をあれやこれやと弄ぶ。珍しく差し出されたその白き手さえ、如何に鴆が恭しくいただき舌を這わそうとも眉一つ動かさず受け入れていたというのに、突然何を思ってか簡単にひらりひらりと翻された。
 まるで戯れごとは、もう終いだとでも言うように。否、事実、口にはせずともそう告げていたに違いない。その証拠に主の、リクオの貌は先程とは比べ物にならぬ程、とろり、ととろけるように甘く、されど決して作りものではない艶笑を湛えていたのだから。

「――……昼が来た」

 その一言で鴆は分かった。瞬時に喉元に引っ掛かった、だから何だ、先に訪れていたのは自分の方だ、という言葉は口にはしなかった。……言ってもただ、主の不興を買うだけにしかならぬと知っているが故に。
 一方でリクオはと言えば、傍らに置いてあった濡れ手ぬぐいで手指を清め、早々に立ち上がっていた。外では雪女たちの声が響いている。放っておけば後数分で立ち去るであろう来客がこの上無く無粋なものに感じた。それなのに主は颯爽と障子戸を開いて、かと思えば流し目でちらりとこちらを覗いては、それはそれは意地の悪いことをのたまってくれた。

「お前さんも来るかい、鴆?」

 喩え自分のためではないにしろ、一段と甘く耳に残る声に気が付けば己の意思とは関係なく、頷いていた。それに良い仔だ、とでも言うよう紅色の目が細められ、背筋がぞくりと震えた。――どう言い訳をしたところで、この御方一人に心底惚れていると認めざるを得ないのだ。

 ……だと言うのに。だと言うのに、なぜこの子どもは弟だというそれだけの立ち位置で、そんな主の心をいとも簡単に与えられるのか。それは妬みや僻みなどでなく、単純なる疑問だった。見目共にただの小さな子どもで、少し睨んだだけで怯えるあどけない子ども。まんまと主の誘いに乗って屋敷の中へと連れ込まれる子ども。他が分からずとも、義兄弟として長く隣にいた鴆には手に取るように分かった。……桃なんぞ、その場で幾らでも渡せば良かったのだ。それをわざわざ食べに来い、と中まで誘い込むくらいだ。何かしら〝愉しむ〟算段でも思い付いたか。悪趣味な御方だ、と、そう内心溜息を吐いていると、さっそくと言うべきか、主は何とはなしに邪魔者と思われる側近たちを剥がしに掛かった。

「――そうだ、つらら。桃はお前が剥いてくれねぇかい? この前、苺を出してやった時、氷菓子みたいだと喜んでいただろう?」
「あっ、そうでしたね! ふふふ、甘いの選んで来ますから楽しみにしててくださいね!」
 普段、氷漬けの食事に密かに嘆かれている分、得意の能力が役に立てると嬉しいのか、雪女はいつも以上に笑みを浮かべて子どもの頭を撫でると、すぐに台所の方へと消えていった。まず一人目、と言ったところか。次につい、と首無の方へと目を向けて、主はそれと、と口にする。

「首無には三つ四つばかり桃を包んでもらおうか。昼と一緒に送り届けられるように」
「そうですね、ちょうど食べ頃のものと少し置いておけるものにしましょうか」
「あぁ、頼む」

 呆気ないほど簡単に、一人また一人と傍らを離れさせられる。これでは自分の番が回ってくるのも時間の問題か、と密かに肩を竦めていれば、ふと遠ざかる首無の動きが気になった。一見自然ではあるが、細心の注意を払った動き……何か違和感を感じてしばらく見ていれば、あぁ首が離れていないのだな、ということに気付く。いつもであれば空宙をふわふわと漂っているその頭も、今では黒いマフラーに埋もれてどこにでもいそうな徒人の姿となっていた。そう言えば、と鴆は思う。……成りは変わらねども雪女も人間に変化してはいなかったか。それについ半刻程前までのあの溢れ返っていたこの屋敷の騒々しさは一体いつの間に消えてしまったのだろう。
 湧きだした疑問が次から次へと浮かんでは鴆を悩ます。まさかと思う。まさかこの子どもに全てが起因するとでも言うのだろうか。こんなただの子どもと変わらぬ者一人のために……?

 否、ただの子どもでないと主が言ったではないか。妖にすれば水蜜桃の如く甘く滴る力と匂いが在る、と。そこで、はた、と思い当たった。〝匂い〟という言葉に首を傾げた。
 ……なぜならこの子どもは、妖を惹きつけるどころか、鴆の薬師としての嗅覚を以てしても甘い匂いなど欠片も感じ得なかったからある。故に、鴆もただの幼子だと見止めた。ただの頑是なき子どもだと。何かが可笑しい、と鴆は眉を顰めた。僅かだが決定的な認識の差があると。そんなことを知らずして、子どもは無邪気に声を上げた。

「ねぇ、夜。なんか夜から甘い匂いがするよ?」
「甘い?」
「うん。桃かな? たぶん着物から。もう食べたの? ずるーい」
「たくさんあるから、お前も好きなだけ食ってくと良いさ」

 そう言って笑うリクオだが、彼の場合、食べるというよりも丸ごと齧ってはいなかっただろうか、と胸中で思っていると、それを見透かしたように主は早々と視線だけで釘を刺した。曰く、余計なことは言うなよ、と。カラスにでもばれたら面倒だ、とでも思っているのだろう。苦虫を噛み潰したような顔が如実にそれを物語っていた。しかし、毛倡妓には言わずとも分かり切っていたのか、主が何か言う前に、早くお着替えになった方が良いですよと笑う。特に、首無辺りにばれると、まずそこで大目玉ですからねぇ、という言葉には、さすがの鴆も自分が言おうが言うまいが、既にばれてやしないだろうかと思ってしまう程だ。それには主も苦々しく思ったのだろう、仕方ないと言った風に一つ溜息を吐いて、着替えるから後で引き取りに来てくれとさっさと毛倡妓を追いやってしまった。

「じゃあ、鴆。少しばかり昼を頼んだぞ」
「は……!?」
「は、じゃねぇよ。だだっ広い広間に昼独りで待たせる訳にはいかねぇだろう?」

 唐突に、しかも傍から離されると予想していたとは言え、まさかこのように離されるとは思っていなかった鴆としては、ただただ驚く他無かった。なのに主ときたら、目を瞠る自分がそんなに面白いのか、くっくっと笑って、医者と床屋は子どもの扱いが上手いらしいからなぁ? と簡単に言ってくれる。確かに命と言われれば、子どもの相手だって何だってやってやるが、気が重いとばかりにちらりと子どもを覗けば、子どももこちらを見ていたようで視線は交差したものの、それも束の間すぐに目を逸らされ、かと思えば繋いだままの主の手をぎゅっと握り締めた。

「ん? なんだい昼?」
「……ぅ、あのね、大人しくしてるから、外で待ってちゃダメ?」
「人見知りする性でもねぇお前が珍しいな」

 そんなに鴆が怖いかい? と笑って言う主に、怖くはないけど……、と子どもは言葉を濁らせ、思いあぐねるが結局言葉にならず黙り込んでしまう。もしかしたら、先程から少しばかり睨み過ぎたのかもしれない。少々大人げないことをしたかと反省はすれど、ちょうど良いとも思った。自分には主に聞きたい事が幾つかある。それと確認したい事も。
 じゃあ、付いてきな、と子どもの手を引く主に乗じて共に付いていこうとするとリクオはからかうように、覗きでもするつもりかい? と嗤い掛けた。それに問い質したいことがあるだけだ、と面白味の無い言葉だけを口にすればそうかい、と一言応じるだけでそれ以上の興味は失われる。代わりに、外で待ってると言い張る子どもに、着替えるだけなんだから一緒に部屋へ入れば良いだろう、と誘いかけ、その頬を赤く染めさせる方に勤しんで。

 からん、ころん、と子どもの下駄の音が響く。それが、なんだか先行く主と自分の距離が酷く遠いと言っているような気がして、鴆は小さく眉を顰めた。

 

 

「悋気丸出しの目で昼を見るのは止めろ」

 子どもを開けっぱなしの縁側で待たせ、自分は半分開けた襖へと隣あった部屋から背を預けたところで、主は第一声にそう言った。数瞬躊躇って別にそんなつもりはない、と答えるも、少しだけ覚えのある行為に苦々しく思うところもある。もちろん、言い訳など通用しないとばかりにアレの境遇を知らない訳ではないくせに、と機嫌の悪さを隠しもしない声音のまま糾弾は続けられ、静かで重い空間にしゅるり、と帯を解く音が響いた。それともオレに一から説明させたいかい? と、頼まれたって言わないであろう事まで言い募るのは、それほどまでに勘に触ったということだ。

「あいつは『ああいう』目を一番に怖れるんだよ。〝記憶は無く〟とも本能は否定しきれんもんだ」
「……少しは、悪かったかもしれねぇが…なぁ、どうなってやがんだ、この屋敷は……」
「あ?」
「なぜ、あいつらは人の振りをしている? なぜ屋敷の者たちはこんなにも息を潜めてやがる……?」

 言外にあの子どものためなのか、と問えば、リクオは何を今更、と言った風にくつくつと嗤った。そりゃ、お前、そんなこと当り前だろう、と。……かの子どもを人の子として全うさせるのならば、近くに居るモノも人の振りをしてなくてどうするのか、と。ならば、あの子どもに己が妖の身であることを伝えていないのか、と、それ以前にあの子どもは本気でここを人の屋敷だと思っているのか、とそう問い質そうとも答えは全て是、としか返って来なかった。鴆は困惑する。主が何を考えているのか分からなくなる。

「なぁ、鴆。これは余興なんだよ」
「余、興……?」
「あぁ。あの子どもが、昼がこの組に帰ってくるまでの、一時の人としての興だ。それにうちのもんが静かなのも意欲的なのも奴らの勝手だ。オレの命令じゃない」

 奴らなりの優しさと非道さをそう嫌ってやるもんじゃない、と僅かに柔らかくなった声と共にぱさり、と畳の上へ落ちる衣の音がし、次いで新たな着物を手に取ったのか、さらさらと衣擦れの音が耳を掠める。常を妖怪に囲まれて過ごす主は喩えその血に人間のものが混じろうとも、どこまでも妖怪を愛し、贔屓していた。決して人の世を蔑ろにするわけではないが、考え方はあくまでも妖怪側のものだ。

「まぁ、ばらしたきゃあ、ばらせば良いさ。別に言ってねぇだけで、必死に隠してるわけでもねぇしな。その方がうちのもん達も堂々と出られて喜ぶかもしれねぇぜ?」
「……そんな野暮するもんか」
「賢明な判断だな。余興は愉しんでこそ余興だ」

 終わらせるなら愉しませてこそすれ、面白味もない終わり方など誰も望んじゃあいない。やるならば主の思惑以上のものでなければ意味が無い。主を愉しませ、且つその願望を叶える終末など、鴆にはとんと思い付きやしなかった。なら最後に聞きたいんだが、と鴆は口を開く。

「あの子どもの匂いの話ってのは本当かい……?」
「本当も何も……あぁ、今はしねぇよ。着てる着物の裏に呪符が縫いつけてあるからな」

 花開院家の陰陽師直々に頂戴した呪符が妖怪の血を押さえてんだ、と。まぁ、効力は一刻が限界。それ以上は呪符の方が堪えられん、とあっさりと述べてはいるが、しゅるしゅると帯を結ぶ音の狭間で主が唇を弧にしている様が目に浮かんだ。心成しか愉快そうに声が弾んでいる気がする。
 主はそんな声音で、なのに一方で蜜のように甘く言う。つまり一刻過ぎるのを待つか、着物を脱がしゃあ匂いはするぜ? と。試してみるかい? とも聞こえる声色に鴆は、そうか、とだけ言って口を閉じた。宵の今、子どもの服を脱がせるだの、宵の宵まで引き留めるだの、その言葉の裏にはどんな意味が込められているのか、鴆が分からぬはずもない。もっとも、妖を惑わす匂いなど、少なくとも主の前ではげに恐ろしきこと、この上ないが。

「じゃあ、そうだな、代わりに一つだけ良いことを教えてやろうか」

 着替え終わったらしい主が突然ふわり、と襖の向こうから顔を覗かせる。急なことに驚き、目を丸くしていると、主は鴆の傍らへと近付き内緒話のようにその耳朶へと小さな小さな声で囁いた。

『――こんな余興なんてな、本当は今すぐにだって終わらせることは出来んだよ』

 昼には大事な『約束』がある。親父と交わした大事な大事な『約束』がなぁ? ……そう言って、主はくつりと嗤った。
 まるで生粋たる妖の本性が姿を現したかのように、残虐な一面を残したまま育ってしまった子どものように、純粋に艶やかで美しく。主は、リクオはその艶めかしい唇で呪詛のように言葉を紡ぐ。昼は母親を守らなくちゃあならない、と。どんな時でも、どうあっても、もうお前しか母を守る者はいないのだと親父の遺した言葉に縛られてなぁ、と。そんな子どもがつい先程まで慕っていた相手に裏切られたら、どうなるだろうか。かつて梅若丸と呼ばれた少年より幼い歳で、確固たる誓いを胸にしながら、その比類なき絶望と恐怖が霊障よりも畏ろしい強大な妖力へと呑まれた時、その子どもはどうなってしまうのだろうか。

 それとも何が起こったのかさえ分からない間に、その首を刎ねようか、と主はささめく。母を守れなかった、と死への悲嘆そのままにこの世を彷徨う亡霊に動くための肉体を与えてやろうか、と。それこそ霊体であっても見初められたオレの母のように。それこそ力ではなく傍に居ることを望まれた祖母のように。

『でも、それだけじゃあダメだ。それじゃあ面白くもなんとも無いだろう?』

 絶望も恐怖も悲嘆も、ましてや憎悪など疾うの昔に厭いている。つまらない。そんなものが欲しいのではない。羨望でもない。畏敬でもない。一方的な恋慕でもない。欲しいのは、己が焦がれる程に欲しいと願った相手だけから貰いうける同等の……否、それ以上の恋情だ。
 お前には分からんだろう? とあどけないとさえ取れる声で紡がれる言葉に鴆の柳眉はきつく寄った。分からない? いいや、焦がれる想いなら自分はずっと前から知っている。
 そんな自分を見やっても主は、いいや分からんさ、と言ってのける。お前さんには分かんねぇよ、と。恋焦がれる相手を堕としてまで手に入れたいという想いなんて永遠に分からねぇよ、と。暗に、まぁ、知ったって出来もしないだろうがな、と嘲笑うかのような言葉まで聞こえた気がして思わずギリッ、と拳を握った。まさにそんな時。

「……ひッ! ……あ、あぁ…あ」
「――――…昼?」

 縁側へと続く障子戸の向こうから、か細い子どもの悲鳴にも似た声が響く。ひらり、と主の姿が翻った。この屋敷にいる以上、危険な事は起こらないはずだろう、と一瞬、引き留めようか逡巡すれば、主はふと振り返って嗤った。
 言っただろう? と。そう、引き上げられた唇は存分に語る。堕とすどころか引き留めることさえ出来ぬままである、と。
 カッと上った激情のままに手を伸ばすも寸でのところで時既に遅く、影を掴まされたまま主はすす、と障子戸を開けて、縁側へと赴いていた。その頃には、鴆には視えぬがあの妖艶さも残虐性もおくびにも出さず、ただ幼子を慰める笑みへと変わっていた。

「どうしたんだい、昼……と、首無、お前も何してるんだい?」
「あああ、これはその……! 若たちを呼びに来ましたところ、昼若さまが独り縁側にいらっしゃったので声を掛けようかと思ったら、怖がられてしまい……」

 あわあわと慌てふためき子どもと距離を取る首無を一瞥し、それから縁側へと出て、その端で小さく震えているだろう子どもの傍にしゃがみ込む。一体どうしたんだい、と尋ねる声音は決して憤りなど含まぬ優しいもので、つられて鴆も縁側へと足を踏み出した。きし、きし、と畳を踏む音の合間を縫って、何でもない、と弱々しい声が聞こえる。笑わないから言ってみな、と宥める主にしばらく黙って、本当に……? と確認し、頷いてもらえたのだろう。そこへ来てようやっと子どもは怖々と唇を開いた。

「……あの…影が、…くびから二つにわかれてて…っ、」

 影、という言葉に縁側を覗いてみれば、軒下に掲げられた鬼火の提灯を光源に、子どもの方へと長く影が伸びていた。分かれていた、というのも、首無は元から頭と胴体が別個のものなので当り前と言えば当り前の現象であるのだが、これを徒人だと思っている子どもにしてみれば大した事になったらしい。今はくっついているように見せてはいるものの、どうせ背後からだからと首無も気を抜いたのだろう。……まさか、こんな大事になるとは思ってもみなかったのか、首無の方が子どもよりよっぽど驚き慌てているように見えた。一方で主はそうかい、と子どもの頭をぽんぽんと撫でると、ちらりと首無を眺めて微笑を湛えた。

「お前は、首無が怖いのかい?」
「ううん…っ…ちがっ、……くびなし、がっ…こわいんじゃなくてっ……」
「――じゃなくて?」
「…だ、だいじな、…とこでしょ…? ここは、……生きるのに…、無いといられなく、なっちゃう、から…だから……」

 そっと自らの首を押さえて、首無を見上げる。はて、と首無は分からないと言った風に惑うが、鴆には子どもの言いたいことがなんとなく分かった。怖いのは怖い。大事なところが、首から頭が離れていたのだから。でも怖いのはそこではない。首無が怖いのではない。大事なところだから離れててはいけない、そこが離れていれば本来生きてはいけないから、ここにはいられないから、いなくなってしまうから、誰かがいなくなってしまうから、そういう意味で怖いのだと子どもは言っているのだ。
 〝記憶は無く〟とも失う恐怖と、そこがいかに大事な部位であるかを身を以て知っているが故の怯え。

 ――当り前だ、と鴆は思い直した。この子どもが妖怪自体に畏れを抱くことなんて有り得ないのだ。……なぜなら、子どもはつい二年程前までこの屋敷で過ごしていたのだから。

「くく……つまり、首無を心配してのことか。色男もとうとう焼きが回ったらしいな」
「……は…? ええっと、この場合、私は喜んだら良いんですか? 嘆いたらいいんですか?」
「喜んどけ、喜んどけ」

 からからと笑い、主はそのまま軽々と子どもを抱き上げる。次いで、汚したから着物出しといてくれ、と用を言い付け、さっさとその場を後にして。鴆が首無と擦れ違いに縁側へと出れば、その気配を察したのか、ふと思い出したように主が振り返った。そして宵闇にさえ明るく見える紅色がうっそりと細まって、かと思えば子どもへと顔を近づけ、その頬へとそっと舌を這わし。子どもがくすぐったい、とでも言うように腕の中で身じろぎをした。

「そうそう、鴆……匂いとまではいかねぇが、甘い味なら味わわせてやろうか?」

 甘露だぞ、とそう言ってぺろり、と赤い舌を見せる主……おそらく子どもの涙を拭ってのことなのだろう……が、その真意は今や量り知れなかった。かの子どもの前では間違いなく厭う行為を含めたその言葉の意味を分かっているのだろうか。いや、分かっているからこそ性悪に誘うのか。当惑する鴆に主は嗤い、ただの口吸いだろう? と蠱惑的に首を傾げる。果たして引くべきか、寄るべきか……。どちらにせよ、分の悪い話だと言うことは分かっていた。引けば腰抜けと称し、寄れば戯れも分からぬ阿呆と言うのだろう。そういう男なのだ。逆鱗に触れれば、または興味が無くなれば簡単に手酷い仕打ちを与えるし、気に入れば玉のように大切に大切に疵一つ付けぬよう細心の注意を以て扱う。それが妖怪であり、己が主。そんな主のことを何も知らない子どもだけが、何も知らない顔で声を上げる。

「んー……ねぇ、くちすい、ってなぁに?」
「ん? 何って……あぁ、…くくく、そうかい、昼はまだ何にも知らねぇのか」
「むぅ、何にも知らないことは無いよっ!」
「どうだろうねぇ。まぁ、それでも良いが、少なくとも悋気くらいは覚えてもらわねぇとなぁ?」
「う……りんき、ってなに?」
「感情さ。嬉しい、悲しいみたいなもんだな。でも安心しろ」

 主の白い指が子どもの髪を丁寧に梳いて、優しく優しく囁きかける。お前ももう少し大きくなったら分かるさ、と。名前は分からずともいずれ心はそうなるさ、とも。大丈夫、オレが教えてやるよ、とも。子どもは、ふぅん、とよく分かっていないまま頷いていた。
 ……それがどういう意味を持ち、如何に稀なことかを知らず。何故主が愉しそうに嗤っているのかも知らず。ただただ無知のまま。

(触らぬ神に祟りなし)