ご近所さんの話 参【大人夜と子昼の訪問】

 静かな夜道にからん、ころん、と音が鳴る。歩を進める度にからん、ころん。小さな歩幅でゆっくりとからん、ころん。軽やかなそれは耳に心地よくリクオにとっては決して嫌いな音ではなかった。……いや、むしろ好き、という部類に入るだろう。
 母の揺れる袂を追いかけながら、子どもは楽しそうに下駄の音を鳴らす。からん、ころん、からん、ころん。始めは慣れなかった履き物も数分もすればお手の物。思わず駆け出していきたい衝動を抑えてリクオは母と歩を合わせるようにゆっくりゆっくりと坂道を上った。坂の上にはお屋敷がある。大きな大きなお屋敷。そこはここ近辺では恐ろしい化け物が住みついている『妖怪屋敷』なんて噂もあるけれど、そうではないことをリクオは知っている。そのお屋敷には優しいリクオのご近所さんとその家族が住んでいるだけだ。よくリクオを助け慰め、家まで送り届けてくれる〝夜〟という名のご近所さん――そう、今日もそうやって救ってくれたひとだ。あやうく妖怪に喰われてしまいそうになったところを危機一髪と言ったところで助けてくれた。
 今夜はそのお礼も含めて、日頃からお世話になってるからご挨拶しに行きましょうね、と母さんに誘われこうして二人で坂道を上っているのである。

 母さんの両手には立派な酒瓶が抱えられており、曰く、夜はお酒が好きだからだそうで、ちょうど頼んでおいたお酒が届いたから、と言うことらしい。そして下駄を履いているのもきちんとした服装をしないとね、ということでかの屋敷に向かう時は必ず二人して着物を身に付ける決まりとなっていた。普段、洋服である分、着物というのは動き回るに少し窮屈と感じるところもあるが、それを除けば子ども心にそれはそれは斬新で悪くなかった。むしろ夜もいつも着物を身に付けている分、リクオ自身お揃いにしたみたいで内心、密かにはしゃいでいるところもある。

 リクオは夜のことが、ご近所さんのことが大好きだった。強くて、優しくて、時折意地悪で、でもやっぱり安心出来て、それからとってもとっても綺麗なところが。子どもは綺麗なものが大好きで、それはリクオにも当てはまる。夜はとっても綺麗だった。あまり見かけない不思議な色を宿しているところが更に好奇心旺盛な子どもの心を惹き付けた。銀の髪に紅い目、それから白い白い太陽を知らなそうな肌。もしかしたら、異国とか言う遠いところの人なのかもしれない。……それにしては着こなしも言葉も随分流暢な気もするが。

 しかし、そんな知らないところ、秘密なところがまた良いのだ、とリクオは思う。子どもと言うのは全てを秘密にされることは嫌いだが、ちょっとした秘密となれば話は別で、その〝ちょっと〟に堪らないくすぐったさを感じて秘密を秘密のままにしておきたくなるのだ。
 だから、とリクオはちょっとだけ目を細める。――坂の上に上り詰めたところで、門前まで続く道の脇に掲げられた提灯が突然ボッと音を立てて青白い炎を宿したからだ。妖怪屋敷と恐れて近寄らない人々は知らないであろう、この不思議で美しい光景もまた、リクオの胸の中では〝ちょっとした〟秘密の一つだった。それと同じくしてまぁ! と門先で女の人の声が聞こえる。その声の主もまた、リクオとよく面識のある人物のものだった。

「やっぱり、若菜さまでしたか……!」
「こんばんは、つららちゃん。久しぶりだけど、元気にしてた?」
「えぇ、それはもう! 若菜さまこそお元気そうで何よりです。昼若さまもお久しゅうございます!」
「久しぶり、つらら!」

 駆け寄って、勢い任せにぎゅっとリクオが抱きつくと、つららと呼ばれた女性もまたぎゅっとリクオを抱きしめた。いつも白い着物を身に付けたつららは母のように優しく、そんなところも大好きで、つららの方も、また少し大きくなられましたね~、と抱きしめ返してくれるので、いけないことだと分かっていてもついついこのように抱きついてしまう。それを母がくすくすと楽しそうに笑うので尚一層のことだ。あぁ、一体誰がここを妖怪屋敷と言ったのか。こんなにも優しい人を妖怪とは……。妖怪というのは事実、とても恐ろしいもので、リクオにしてみればこの人たちよりも自分たちを蔑む大人たちの方がよっぽどそれに近しいとさえ思う。

「……おや、若菜さま!」
「あらまぁ、昼若さまも!」

 つららのはしゃぐ声に引かれたように次々とこの屋敷の者たちが集まってきた。首無に毛倡妓、それから遅れて黒田坊も。皆、それぞれにあまり見かけない服装をしているが、どれも良い人には変わりない。
 その中で、今日最も用のある人物の姿が見えずに、リクオはこっそりと肩を落とした。夜の姿だけが見えない。よくよく出掛けているらしくこうして屋敷を訪ねても三回に一度の割合でしか出会えないことから、なんとなく覚悟していたが実際に会えないとどうしても落胆してしまう。実はまだちゃんとお礼を言えてないのはリクオもなのだ。怖さと痛さに半べそを掻くという情けない姿なら幾らでも晒したが、その後と言えば抱き上げられてそのまま安心と共に眠り込んだあげく結局目が覚めたら夜は帰ってしまった後だったのだ。これなら手紙でも書いてくるべきだったかな、とやってもしょうがない後悔をしていると、急に大人しくなったリクオに気付いてか、つららがどうかしましたか? と心配そうな目でこちらを見てきた。
 つららなら教えてくれるだろうか。しばらくの間、逡巡し、とにかく聞くだけ聞いてみよう、と考える。

「あのね、つらら……その、夜は、今日いないの……?」
「夜若さま、ですか…? えぇっと、いらっしゃるにはいらっしゃるんですが……、」

 先客の方がいらっしゃるので、今はちょっとお会い出来ないかもしれませんね……、いえ、昼若さまがいらっしゃったとお伝えすれば一も二も無くいらっしゃるとは思うんですけど……とそう歯切れ悪く言葉を濁すつららにリクオは小さく首を傾げた。難しいことはよく分からないが、とにかく誰かと会っているため、自分とは会えないということだろう。
 じゃあ、先にお客さんが来てるんなら、しょうがないよ、とだけ呟いて、代わりにお礼の言伝だけでも頼んでおこうか、と口を開こうとしたところで、つららたちの後ろからざり、と石畳を踏みしめる音がした。顔を上げて見れば、そこにはいつの間に居たのか夜が佇んでおり、リクオが目を丸くすると夜はからからと朗らかに笑った。

「つらら、〝客〟なんて言ったら、まぁた鴆がうるせぇぞ?」
「わ、若……!」
「……オレはそこまで狭量じゃねぇよ」

 夜の後ろからもう一人、不機嫌そうに眉を寄せながらも宵闇に沈む鶯色を宿した男が現れる。誰……? と口にする前にじろり、と睨み付ける眼光と交わって、ぞくりと肌が粟立ち、体が勝手に後ずさろうと動いた。からん、と下駄が鳴る。
 リクオ? と母さんが呼んだ。数瞬立ち竦んで、それから思い出したように大丈夫、なんでもないよ、と答え、もう一度ちらりと鶯色の人を覗き見る。同じままの鋭い眼光、でも今度は怖くなかった。……否、あれは怖いと言うよりも何か違った。何か、どこかで同じようなものを見た気がする。それに一瞬かぶったのだ。もちろんそんな記憶は無いし、この人とだってたぶん会うのは初めてなのに。

「こんばんは、二人とも。鴆くんとは一年ぶりかしら? どう、変わりはない?」
「えぇ、まぁ……」
「それは良かった。あぁ、そうそう、はい、これ」

 いつもこの子がお世話になってるからせめてもの気持ちってことでね、と流れるように母さんが手にしていた酒瓶を手渡す。一方で、一年ぶり、という言葉に引っ掛かったリクオはあれ……? と小首を傾げながら去年の記憶を引っ張っていた。
 くるくると巡る記憶の片隅には何度かこの屋敷を訪れる景色は出てくるものの、やはり鶯色を持つ男のことは出て来ない。もしかしたら会ったと言ってもちょっとした挨拶程度で忘れてしまったのだろうか。……いや、こんなに鮮やかな色を持つ人を忘れるなんて滅多に無いと思うのだが、何せ子どもの記憶は目まぐるしい故に、終ぞ忘れてしまっている可能性も決してゼロでは無い。覚えてない、と思えば、それはそれで悪い気もした。名前、なんだっけ、と先程母が言った言葉を思い出していると、えええ! とつららが驚いたような素っ頓狂な声を上げた。

「わ、わ、若菜さま! これ妖銘酒ですよ!?」
「あら、ダメだったかしら。日本酒よりこっちの方が良いかと思ったんだけど」
「いや、とても有り難いんだが、若菜さん……これその中でもかなり珍しいもんじゃねぇのかい……?」
「というか、そんな代物一体どこで……!!」
「ふふ、それは秘密」

 大丈夫、ちゃんとしたところのだから安心して飲んでね、とにこにこ笑う母に、相変わらず底が知れません、と言った顔をするみんなが対照的で、考えに曲がっていたリクオの口元がゆるりと笑みの形に崩れた。なんだか急にほっとした気がする。
 難しい話なんて後回しにして、当初の目的を果たせと心が告げる。そうだ、自分は難しいことを考えるためにここへ来たのではない。ここへ来たのは一言口にするため、お礼を言うためだ。談笑に興じる母達を横目にリクオはくいっと夜の袂を引いた。

「あの、夜っ、」
「ん? なんだい、昼?」
「…今日は、その…って…う、わっ」

 母さん達が見ていないのを良いことに、ちゃんと聞いてるさ、とでも言うよう目線を合わせるため屈んだ夜の綺麗な顔がぐっと近付いてきて、見る見る内に自分の頬が赤くなるのを感じた。近い、近い……! これじゃあ、おでことおでこがくっついてしまうんじゃないか、と思わせる程の距離で赤い頬のままドキドキしていると、ふいに夜の口端が上がってるのを見咎めた。そこで、ようやく気が付いた――……これは、つまり、単に自分の反応を愉しんでるということだ。
 また、子ども扱いしてる。そして、また意地悪をする、とリクオは少しむくれる。なんとか意趣返しの一つでもしたくなって、ふと思い付くままに近づけられた顔を擦り抜けて少しだけ背伸びをする。
 それから手を口元に当てて、夜の耳へと近付き小さな小さな声でその言葉を囁いた。

『――今日、助けてくれてありがとねっ、夜、』

 ちょっと拗ねた口調だったが……まるで秘密の内緒話のように、こっそりと密やかに伝えられた言葉に夜はと言えば、ぱちくりと瞬きをし、かと思えば苦笑とも微笑とも付かない笑みを零した。もちろんリクオとしては予想外で、少しくらい頬を染めてくれるかと思いきや笑うなんて。学校ではもちろん、母さんだってくすぐったそうにほんのりと桜色に染まってくれるのに。なんとなく〝大人の余裕〟みたいなのを見せつけられた気分でずるい、などと思っていると、今度は夜がリクオの膨れた頬をつつき、先程のリクオと同じように耳朶をくすぐり唇を近づけた。なに、と驚いていると耳朶には熱っぽい吐息が零されて、それと共に、お前さんも相変わらず律儀なこった、とそっと囁かれる。とくん、と心臓が跳ねるような気がした。

 ちらり、と横目だけで夜を見ると、その紅い目は心底愉しそうにきゅうっと細められる。それから、もう一言、だがまぁ、そういうのは嫌いじゃない、とささめいて。同時にちり、と熱い感覚が耳朶を掠ったのは果たして唇か、舌か。言いたいだけ言ってふわり、と離れていく夜とは反対に、リクオは慌てて熱に染まる耳を押さえた。きっとこの宵闇の中でも分かるくらい、今の自分は耳まで真っ赤に染まっているだろう。
 ……どうしてこんなに赤くなる必要があるのか自分でも分からなかった。でも恥ずかしいと思って仕方が無かった。だと言うのに、夜は白々しく言うのだ。

「どういたしまして」

 そう言いながらも見る者が見れば、間違い無く愉しんでいるに違いないであろう夜の貌に、リクオは口をへの字へと曲げた。今夜の夜は意地悪ばかりで、全然優しくない。真っ赤な顔で涙目になりながら夜を睨むも、その辺は悲しいかな、ちゃんと対処の仕方も分かっているご近所さんな分、簡単に丸めこまれるのも常の事だった。ぽん、と頭に手を乗せられて、かと思えば宥めるように何度もさらさらと髪を梳きながら、そう言えば、と口を開く。

「ちょうど美味しい桃があるんだ。食べてかないかい、昼?」
「…………もも?」

 その言葉にぴくり、と体が反応する。別に食べ物に釣られた訳ではないが、夜が……というかこの屋敷の人達がくれるお菓子や果物は大抵が甘くて美味しいものばかりだということを、何とはなしに体が覚えているのだ。
 つい先程までの憤りも忘れて、魅力的な誘惑に惹かれそうになる。甘い桃は嫌いじゃないだろう? と再度問い掛ける声に思わず頷きそうになるが、そう言えば、と思い出す。確かこの後、母さんと宇佐美おばあちゃんのところへ行く予定となっていたはずだ――桃が気になるのは確かだが、それ以上に母に我が侭を言ってはならない、ということはリクオにとっての最優先事項でもあった。母さんを困らせてはならない、母さんを悲しませてはならない……それは二人っきりの家族で身に付けたリクオにとって半ば誓いにも等しいもの。故に、それに反するものであれば、喩えリクオの意思であろうとも頷けない。だからダメ、と首を横に振るリクオに夜は、幼いながらもその強固な意志へと苦笑すると、まるでこれくらいのこと、我が侭の内にも入らないとでも言うように笑い、ゆるりと唇を開いた。

「――なぁ、若菜さん。昼に桃を御馳走したいんだが、少しばかり借りても良いかい?」
「あらあら、……お邪魔じゃないかしら?」
「いいや、そんなことはないさ。むしろ、うちの奴らも久しぶりに昼の顔が見れるから喜ぶだろうよ」
「そう? じゃあ、……お願いできる? そうね、迎えは、」
「帰りはオレが家まで送り届けるさ。それに若菜さんもこれから用事があるんだろう?」

 ぽんぽん話が進むどころか、あら、そうだったわぁ~、忘れてた、そろそろ行かないとね~、と思い出したようにぱちん、と手を会わせる母にリクオは僅かばかり呆気に取られる。
 良いのだろうか、そんなので…。一方で夜は、ほうれ見ろ、とばかりに口端を上げながら黒田坊を呼んだ。夜道に女性一人は危ないと思ってのことだろう。護衛を頼むと口にすれば、分かりましたと一言置いて黒田坊が母さんの隣へと進んだ。少し離れたところでないのは曰く、どうせ同じ方向へ行くのなら一緒にお話しながら行きましょうよ、というのが母さんの口癖で、むしろ後を付いている方が怪しい上にどこかで見てるかもしれない〝あの人〟に誤解されちゃうわよ~、という脅し付きだとかなんとか。〝あの人〟――つまり、ここにはいない父さんのことなのだが何故だか黒田坊にとっては父さんの話が一番説得力があるらしい。他の住民の目云々よりも、今ここにいない父の存在の方が恐怖対象……いや説得材料になっているのは未だリクオにとっては謎である。

「じゃあ、お礼にって思ってたんだけどさっそくお世話になってごめんなさいね。その代わり、今度うちへ来たら夜ご飯食べていってね」
「あぁ。若菜さんの飯は美味いからな」
「黒田坊さんも、ありがとう。リクオも良い子にしてるのよ~」

 それじゃあ、お先に失礼しますね~、とこれまたあっさりと、にこにこ微笑みながら黒田坊と共に坂道を下りていく。決して大きくない柔らかな笑い声と後ろ姿が宵闇へと溶けるように消えてから、夜も、さてオレたちもさて中へ入るか、とリクオの手を繋いだ。こういうところがずるいな、とリクオは思う。……母さんみたいに自然とそういうことをするからついつい嬉しくて従ってしまい、どんなにむくれてても振り解けない。なので、代わりにぎゅうっと握る手に力を込めてみるが特に効果は無いようで、引かれる手のままに門の中へと足を踏み入れた。その姿を哂うようにからん、ころんと下駄が鳴る。

 ――そしてそんな硬い石畳を蹴る軽やかな音に、なぜかふっ、と夜が愉しそうに嗤ったような気がした。

(一寸先は闇)