「出てやろうか?」
聞く耳を持たずといった姦しい座敷をひとり言葉もなく見つめる片割れに男はそう囁いた。声につられてつい、と片割れが視線を向ける。片割れにしてみればまた突然に、と言ったところだろう。障子戸の合間から見えるであろう桜の大木、枝の上でその男は煙管を片手に片割れを見下ろしていた。
一瞬で連れ去った精神世界、変わらず同じ席に座ったままの片割れはひょいと肩を竦める。
「まさか。まだ君の番じゃないよ」
「――確かに。舞台はまだ整ってないようだ」
「そうそう。だから大人しくそこで待ってなさい」
まるで餌を前に涎を垂らした犬へ待てと言う主のように。泰然と佇む片割れに男は心底、愉しそうに目を眇めた。弱いだけでない凛とした姿、自分を相手に引けを取らぬその姿は見ているだけでも喜悦を齎し、そうだなぁ、と男は唇を弧にする。
「お前の用意する舞台は心地が良い。動きやすいし、思う存分暴れられる」
「君はそればかりだ」
「嘘じゃねぇさ。元々オレは妖怪だからなぁ」
子どものお守りはもう真っ平だと笑う男に酷いなぁと片割れも笑う。その昔、片割れの力も畏れも足りなかった頃はその場しのぎの力技で押してきたようなものだった。どこかで生まれる綻びはまた次の綻びを生んでいくだけで、どうしようもない歯がゆさばかりが募っていた。――だが、今は違う。先の先まで見通す力を十分に身に付けた片割れはころころころりと誰でも手のひらで転がして、ぬらりくらりと捉えどころがない立派なぬらりひょんだ。
「王手(チェックメイト)は任せたよ。妖怪のボク」
「――手柄はいつもオレのだねぇ」
「君の? ……まさか」
くすりと片割れが笑みを零す。
「『ボクら』の、だろ?」
あぁ、そうだったなと男はゆるりと目を細めた。その声に皮肉や嘲りなどは一切入ってるおらず、ただただ満足気な色だけを含んでいた。
「お前の手腕を、畏れを一度でも知ってしまえば誰も離れらんねぇからなぁ」
そう言ってうっとりと男が目を瞑る。かつて妖怪であるぬらりひょんの畏れを誰かは漆の如きと例えた。ならば、と男は思うのだ。自分の片割れの畏れを表すならばおそらく真綿のようなものだろうと。
あたたかく、ふわふわと柔らかく、心地よい。ただあまりにも心地よくて、その真綿の如き畏れがじわじわと己の首を絞めていくのを、一度捕まれば逃げられないことを、つい忘れてしまう。
「だが、お前はオレだけのもの」
「――……馬鹿だねぇ、君。妖怪の主は誰のものにもならないんだよ」
「主、だったらな。主なんてもんはみんな奴らにくれてやらぁ。だが、奴良リクオ、お前自身はオレのものだ」
「……ふふ、欲張りだね。だったら、まだ大人しくしておいで。ボクの用意する最高の舞台で魅せつけておくれ」
そう言ってすっ、と懐から扇を持ち出すと、目の前まで掲げ、ふわりと笑みを浮かべる。そして、ビシリ、と響く固く鋭い音。扇で畳を叩く音。――掻き消される幻の世界。ざわざわとしていた座敷が、まだまだ子どもであるはずの畏れに気圧されて一瞬で静まり返った。
「おだまんなさい。弱きものを嘲る者は今すぐこの部屋からご退出願おうか」
求めるのは同志。何かを支え、守りたいと願う者たちよ、同じ意志を有する者たちよ――力無き者たちのために、この組(かぞく)のために力を貸せる者を今、ここで集おうぞ。
我らの、良き闇夜のために。