弟夜と兄昼 参

 その者の印象は御機嫌麗しゅうなんて言葉使う奴、本当に居たんだなぁくらいだった。正直どうでも良かった。挨拶だろうが御機嫌取りだろうが。ただあまりにも自分ばかりに話しかけてくるのが気に入らなかった。この者には見えてないのだろうか――自分の手を優しく握り、隣に佇む兄の姿が。
 いや、見えているはずだ。ただまるで居ないように、空気のように見えない振りをしているだけなのだろう。昼は何も言わなかった。何も言わず静かに、それこそ空気のように黙ってその者から視線を外し前を向いていた。それを知ってか知らずかその者はよく喋った。べらべらと耳障りな声で、どうでも良い話におべっかといっそよくも底が尽きないものだと感心するくらいに。
 興味など無かった。それどころか、その者がどこの者かも、どんな者かも欠片も知らなかった。たぶん昼は知っているのだろう。昼の頭の中にはこの組の情報、その他周辺の情報がきっちりと収まっているのだから。自分は知らない。少なくともこのような者は知る必要は無いと思う。昼には、兄には礼を欠くくせに、自分にばかり胡麻を擦る者など、記憶に残しておくに値しない。それなのに、昼はちゃんと覚えておくのだろう。優しい兄はそんな者にさえ加護の采配を忘れないでいるのだろう。それに比べ目の前の者はなんという愚か者なのか。目に見える、力と言う一つの物差しでしか物事を測れない。誰をして自分たちの安寧が保たれているのか考えもしない。

「……失せろ」

 気分が悪い。兄を貶める者は喩え組の者だろうと、加護を与えるべき相手であろうと関係無い。無論、それは兄自身であってもだ。自分にとって兄は誇りなのだ。自分の畏れの原点と言っても良い。……兄がいるから己がいる。存在意義と言ったって良い。それを貶める者など疾く去ぬるが良い。それとも今すぐ消し去ってくれようか? とでも言うように、ぶわりと強大なる畏れを噴き出した。慌てたのは目の前の者である。それまでべっとりと気味の悪い笑みを張り付けていた者は途端、重く圧し掛かる畏れに青く顔色を変えて、されど突然の恐怖に震え、動けぬのか身体をぴたりと硬直させてしまった。

「さっさと失せろ。切り刻まれたいのか……?」

 小さい体には似つかぬ低い声。けれどもそれも加えてかさらにガクガクとみっともなく震えるばかりで、何とも言えぬ苛立ちだけが積み上がっていく。いっそのこと本当に切り刻んでやろうか、と懐から護身刀を抜きだそうと手を差し入れた瞬間、引き止めようとでもするように兄に繋いでいた手をそっと握り込まれ夜はなんとか動きを止めた。

「――ダメだよ、夜。そうやって誰彼構わず脅かしちゃダメ。怖がってるでしょ?」

 だからね、その手も止めて。目の前の者とは打って変わり、畏れることなく怯えることなく、淡々と窘める声。昼の言葉に蟠りはあれど、夜は素直に従った。代わりに何を言うでもなく、ぐい、と兄の手を引く。え、と驚きの声を上げる兄だったが応えることもなく、足を竦ませる者にももはや目を向けること無く側らを無言で過ぎ去り、いくつか部屋を過ぎ去ると、周囲に誰もいない部屋を選んで連れ込んだ。入ってきた障子戸はぴしゃりと閉じて、普段とは違う自分の態度に困惑した表情を見せる兄をじっと見上げた。

「……なんでだ、昼。なんで、あんなに無視されたのに昼は文句言わねぇんだ?」
「…………夜?」
「昼はオレの兄さんなんだ。オレより先に挨拶をされるべきだし、敬われるべきだ」

 それなのに、あいつは昼を無視した。一番やってはいけない侮辱の行為を平然とやってのけた。そして昼は昼で、それを当たり前の如く享受した。夜にとってはどちらも許せぬ行為。昼と言う兄を貶す行為そのもの。昼は困ったように苦く笑う。

「うーん……ほら、これ以上仲が悪くなってもお互い困るし、ね?」
「昼はあいつらに嫌われたくないのか?」
「えっと………そう、なる、のかなぁ…?」

 なんか違う気もするけど、とそう答える兄に、夜はとうとう不機嫌を隠そうともせずむっとした表情を浮かべた。なんだそれ。

「じゃあ、昼はオレに嫌われても良いのか? 昼はよくオレに怒ったりするのに?」

 さっきだって怒ってはないけど、ダメだよ、と注意はした。昔だったらもっと怒られてた――高い桜の木の枝に登った時とか、言葉遣いが酷い時とか、とにかく下手に言い訳をしたら烈火のように怒られたし、ごめんなさいと泣きながら謝ればちゃんと謝れる良い子だと頭を撫でられた。そんな自分があのような輩より下だと。そう含んだ言葉を投げかけると昼はむに、と両の手で夜の頬を添わせ、良いかい、夜、と口を開いた。

「確かに僕は君に嫌われても良いと思っているよ」
「…ッ…昼のば…っ」
「君が大怪我をしたり、恥を掻いたりするのを防げるんなら、僕は嫌われたって君を叱る」
「………っ」
「そんなの、僕が嫌だからね。君は僕の自慢の弟で、君が傷つくのを見るくらいなら嫌われた方がずっとマシだと思ってるからね」

 真剣な眼差しでそう言われて。数秒後にはふわりと笑って、その自分より少し大きな手で自分の髪を掻き撫でて。夜はきょとり、と目を丸くして、問い掛ける。

「…昼はオレが怪我するの、嫌なのか」
「うん」
「オレが恥を掻くのが嫌なのか」
「そうだよ」
「――……そっか。なら良い」

 そう言って、ぎゅう、と昼の体を抱きしめ、ふっと笑った。
逆に昼は目を白黒させるが、夜は構いやしなかった。そうか、と夜は納得する――あの者が恥を掻こうと何だろうと、昼にとってはどうでも良いことなのだと、だから昼が口を出すことは無いのだと。昼にとってはそれだけの者なのだと、ならば兄は空気のような存在でも良いと夜は思った。あのような者、昼の姿を見るだけでもおこがましいのだ。昼を見るのも、感じられるのも自分だけで良い。こうやって昼に知覚されるのも自分だけで良い。昼を貶めているようで、その実、貶められていることに気付かぬ阿呆共のなんと哀れなるものか。