鴆と子リクオ

 遠くでごふ、かふ、と息を詰めるような我慢するような咳の音にふと意識が浮かび上がった。じっとりと重苦しいくらいの闇の中、いつもならぐっすりと眠っている時間で、これくらいの小さな音では起きもしないというのに、不思議と今日に限って目が覚めてしまった。何の音なのか。気になって リクオは温かかった布団に後ろ髪引かれながらもそっとそこから抜け出す。こふ、ぐふ……音はどうやら襖を挟んだ隣の部屋から聞こえているようだった。この部屋の隣には鴆がいるはずだった。客間を用意すると言い張った鴆に我儘を言って隣の部屋にしてもらったのだ。本当は一緒に寝たかったのだけれども、それだけは決して許してくれず妥協案の結果が隣室なのである。
 しばらく様子を窺うように部屋を区切る襖の前でリクオは耳を欹てた。しかしいつまで経っても止まらない咳の音にリクオは……鴆くん? といよいよ不安になり、音を立てないよう襖の少しだけ開けると、部屋の中奥では、行灯が煌々と橙色の光を放っていた。その傍らで蹲るような影が一つ、言わずもがな鴆の姿である。鴆くん? ひゅうひゅうと苦しそうに喘ぐ鴆にリクオは慌てて一歩足を踏み出す。きしり、と畳が軋む音を立てた。その瞬間。

「え……?」

 自分を取り囲む淡い翡翠の色をした羽、否、部屋という空間でその羽全てが切っ先を向けた形で浮いている。飛んで来ればただでは済まないであろう異様とも物騒とも言える雰囲気を湛えたその部屋に思わずリクオの足はぴたりと止まってしまった。遠くでは未だ鴆が喘鳴を繰り返している。怖い、でも鴆が苦しんでる。思いを天秤に掛ければあっけない程簡単に答えは出る――鴆くんを助けなきゃ。
 リクオは再び足をそろりと進めた。子ども心にその光景は大層恐ろしかったが、羽は警戒するようじりじりと照準を合わせようとも、決してリクオ目掛けて飛んでくることはなかった。それもそのはずで、その羽は全てひとつ残らず鴆のものであり、例え鴆に意識が無くとも鴆が唯一認める小さな主を傷つけることなど有りはしない。しかしそれを知らねども主であり子どもであるリクオは怯えつつも凛とした力強い視線で羽を睨みつけ歩みを止めなかった。羽は沈黙を湛えるも決して遮ることはことなくただ、リクオを見定めるように浮かび続ける。その中で無事鴆の元へと辿りつくと、リクオはくの字に折れ曲がる鴆の顔を覗き込んだ。

「……鴆くん、大丈夫?」
「!?  リ、リク……っ」

 かふ、ともう一度咳き込む鴆にリクオは急いでその小さな手を以て背をさすってやる。ねぇ、どうしたの? どうしてそんなに咳してるの? 風邪でも引いちゃったの? ねぇ鴆くん……そう口にするはずの言葉は喉奥へと消えてしまった。落とした視線の先には行灯で照らされ晒された色に、この場には似合わない、見るはずない濡れたそれに、子どもとは言えリクオはそれがなんなのか理解する。

 ――それは、血。

 ぐっ、と体を丸めて咳き込むごとに、その色は畳に着物に広がっていく。

「ぜ、……っ、ぜんくっ、」
「……さわっ…なよ、リクオ……ぜってぇ、これに、触んじゃ、ねぇ…ぞッ!」

 くそ、なんでだよ…っ……なんで、もう……っ。ごほごほ、と体を大きく震わせながら、泣いてるようなか細く頼りない鴆の声音は、どうしてかリクオをひどく泣きたい気持ちにさせた。

 

 

「鴆くんの体、冷たいね……」
 同じ布団に包まれていると言うのに、鴆の体はリクオのそれと比べて格段に低い温度をしていた。鳥妖怪と言うのだからもう少し温かくても良いのだろうが、そこは鴆、毒の回り始めた体は徐々に温度を下げ始めるのだ。体温が下がれば免疫も落ちる。免疫の落ちた体では鴆毒に冒されやすく短命にもなる。当たり前と言えば当たり前の事象。されど幼きリクオにはまだまだ分からぬ話であった。

「良いだろう? こうしてお前があっためてくれりゃあ、ちょうど良い」

 小さい体をぎゅっと腕で囲い、胸の中へと抱き寄せる。子どもの高い体温はじわりと温度の低い体に染み渡って、安堵と愛しさとどうしようもない切なさを生み出した。せっかく引き離したというのに。子どもの優しさに付け込んでしまう。

「どうしたの、鴆くん?」

 甘えん坊さんみたいだよ。そう言ってリクオは同じくらいぎゅっと抱きしめ返し、ぽんぽんと鴆の背を叩く。馬鹿みたいに小さい手なのに、笑えるくらい弱い力なのに、それでも小さな主の手のぬくもりは、今の鴆には痛いくらい染みた。

(鴆毒の前兆、毒による初めての吐血)