汝、ネコと和解せよ-2

「……ハァ~~~~……つっかれたァ……」

まさかトリートメントひとつであんなに面倒な事になるなんて。ごりごりと肩を揉みながらレイフロはソファへと座り込む。本当に大変だった、あの後は……。唸るわ、暴れるわ、噛もうとするわ、逃げ出そうとするわで……。思い出しただけでも頭痛がしてきて、ついでにこめかみも揉んでおく。まったく、猫化するにも程がある。あれで残りの部分は一人でちゃんと洗えるのだろうか。さすがにそこは大丈夫だと信じたいのだが、あの惨劇を思い出すと少しばかり心配になる。まぁ、ヴァンパイアだから皮脂汚れはさほど無いだろうし、服も着ていたから肌に付いている泥さえ落としてくれれば満点だ。もうそういうことにする。そういうことにでもしなければやってられない。

「――レイフロ様」

掛けられた声に、こめかみをぐりぐりと揉みながら下ろしていた瞼を押し上げる。そうすれば大きなバスケットを抱えたミネアが覗いた。

「……お~、どしたーミネア」
「じきにチャールズ様が出てこられるようなので必要かと思い、用意致しました」
「う~ん? 用意って……あぁ、なるほどなァ。アイツ、やっぱ無理そうか?」

バスケットの中を見て、思わず納得してしまう。確かに今のクリスなら用意しておくのが賢明だ。何せあの部分シャワーだけで大騒動だったのだから。

「一概には言えませんが、猫の耳は聴覚に優れているので好む個体自体少ないです。なのでチャールズ様も避ける可能性が高いかと。あと人間の髪と違い、猫の毛は密集していて乾きづらく冷えやすいので、しっかりとタオルドライすることもおすすめします」

そう言って取り出したのはドライヤーだ。それを近くの電源へと繋ぎ、残りのタオルやブラシなどの一式は使う順にテーブルの上へと並べていく。さすがミネアだ。猫仲間だ。痒いところに手が届く完璧さだ。助かる、と声を掛ければいいえ、と応えつつも互いに見合わせた瞳がキラリと光った。なんだろうな、コレ。まるで悪役同士の打ち合わせみたいになってきたな。まぁこれからの事を考えればなかなかに間違っていない気もするが。なんせ大いに駄々を捏ねるであろうクリスにドライヤーをかけねばならないのだから。

「…ベッドルームに閉じ籠もる前に捕まえてくるかァ……」

籠城でもされたら堪らない。バスルームから出てきた瞬間、捕まえてしまうのが一番だろう。やれやれと立ち上がるレイフロに、ミネアの瞳がまたキラリと光った。

「それには及びません。チャールズ様の確保には適任がおりますので」
「適任?」

何のことだと首を傾げると同時に廊下側からワンッという鳴き声がひとつ。そしてコラッ、やめなさい……! というクリスの声までも聞こえ、うっかり遠い目となる。

馬鹿犬サクラです」
「……有能だな、ミネア。確かに適任だ」

濡れた髪のまま出てきたら体調を崩すからレイフロの元へと引きずって来いとでも言ったのか。とにかく大して応用の利かない主人第一のプログラムに的確な情報と条件を与えたのは確かだろう。恐ろしい子だ……。応用が利かないのを逆手に取って主人クリスを確保させるとは……。未だに相性が良いのか悪いのかよく分からんな……と思いつつ、上手く足止めされたクリスをそのまま回収する。ミネアの想定通り、シャツやズボンを身に付けていても髪や猫毛の部分はぐっしょりと湿ったままだ。雫が垂れていないだけマシなのかもしれない。脱衣所にあるドライヤーは見ないふりをしたのだろう。普段のクリスならあり得ないことである。さてさて仕方がないなと、う゛~~~~だの、シャーーーー! だの、話が違うだの、上げられる抗議は全て無視してフルセットで用意されたソファへと連行する。あのシャワー事件で学んだのは何事も手早く簡潔に、だ。とは言え、レイフロの足の間に座らせ、クッションを抱かせ、湿りに湿った猫の毛をしっかりタオルドライし終わる頃にはすっかり唸り声を発し続ける駄々っ子の完成となった。

「ヴ~~~~……」
「言っただろ。ちゃんと乾かしてから出てこいって。そうしなかったお前が悪い」
「う゛ぅ…………ヴァンパイアはこんなことくらいでは風邪を引きません……」
「どうだかな。今のお前は半分猫で、」
「ひゃ、…ッ」
「耳だけでもこんだけ冷えっ冷えなんだ。ミネアが言ってたぞー。猫の毛は髪と違って乾きづらいって。あのまま寝てたら少なくとも明日の朝にはベッドがびしょびしょだったろうな」

しっかりと追加のタオルドライを終え、そのお陰でじっとりと濡れそぼったタオルを眼前に掲げて見せてやる。そうすればさすがのクリスも黙るしかなかった。言い逃れ出来ない証拠が目の前にあるのだ。むっつりと不満げに、けれども完全にしょぼくれてしまったクリスを宥めながら、タオルの代わりにドライヤーを手に取る。こうなればさっさと終わらせてしまうのが良だ。長引けば長引くほど碌なことにはならない。

「じゃあ、風当ててくぞー。早く終わるなら一番強いので良いか?」
「……一番よわいので」
「なんでだよ。時間かかるぞ?」
「かかっても良いです。音が怖いんですよ……マスターは『猫耳コレ』が付いてないから分からないんでしょうけど、ものすごく音が響くんです。怖いんです。だから嫌だったのに……」
「あー……」

そう言えばそれもミネアが言っていたな。猫の耳は聴覚に優れていると。分かった分かったとへたれた耳ごと頭を撫で、ドライヤーをオンにする。温風の一番弱いモード。レイフロの耳では明らかに弱そうな機械音にしか聞こえない音だが、クリスにとっては違うようで、あからさまに眉間に皺を寄せ、ものすごく嫌そうな顔をする。なんなら抱いているクッションの角に噛みつく程に。

「そんなにイヤなのか……」
「う゛ぅぅ……」

そういうものらしい。まぁそれで気が紛れるのなら安いものだ。何よりも終わらせる事が先決である。音が怖いと言うなら今回はしっぽの方からやった方が良いだろうか。そうしたらその間に少しは音に慣れるかもしれない。そもそもしっぽは触れられるのさえ嫌だというのはこの際置いといて。

「じゃあ、まずはしっぽからな……ってコラ逃げるな……!」

すかさずぴゃっと跳ねて逃げようとするのを片腕で取り押さえる。危ない危ない。しかもやりづらいし。
とりあえず、やけどしないよう距離を離してみるが弱モードなこともあってか効果の程が良く分からない。一応濡れた毛が靡いているようなので風が届いているのは間違いないはずだ。とは言えせっかくの温風なのにこれだと当たる頃には冷風になってやしないだろうか。むしろコッチの方が風邪を引くような……? 両手使えないの難しすぎだろ……。などと考えている間にも駄々っ子の駄々は止まらない。クッションを齧っていたはずの口がいつの間にかレイフロの指をがじがじと咬みつき始めたのだ。

「痛い、痛いってクリス、なんで咬んでだ」
「ウ゛~~~~」

本気咬みとはいかなくとも甘咬みと言うには割りと容赦のない咬みつき方に頭を抱える。もう何なの、お前。早く終わらせたいの、邪魔したいの、どっちなんだよ。それともあれか。腹でも減ってんのか? 喰わせろって意味なのか、コレ?

「あー……そっち…?」

なるほど。確かに帰ってきた時から疲労困憊の顔はしていたし、風呂でも大暴れした。今になって腹が減ってきても可笑しくはない。つまり、そういうことなのだろうか。腹が減ったから血を飲ませろと……?

「う~ん、…クリス、口を開けろ」
「ーー……? ……、」

とりあえず、やってみるしかない。なんだかんだで素直に口を開けたクリスの牙に己の指を引っ掻け、傷を創る。すぐさまそこからはぷくりと血が生まれ、滴るほどの量となり。それを口の中へと突っ込み、舌へと擦り付ける。これで食い付けばビンゴだ。その場合は一旦食事タイムへと変更して、それからドライヤーをかけるしかない。

「……って、違うのかよ」

あぐあぐと口に含んで数秒。即、飽きたように指を離したかと思えばぷいとそっぽを向いて知らん顔をする。一体何なんだ、この猫は……。少なくとも腹は減ってないようだが、気分屋な猫の気持ちなどもはや分かるはずもない。ここは潔く考えるのをやめ、両手が空いたのを良いことにドライヤーがけへと専念するのが一番か……。風の当たる距離を調節し直し、先の方から根元の方へと再度乾かし始めていく。――うん、この毛並み。このなめらかさ。乾きかけからツヤツヤしっとり、すべすべになっていく感触。あれだけ大騒ぎをしてもトリートメントを強行した甲斐があったというものだ。現実逃避ついでに満足な仕上がりとなりつつある毛並みへと口端を上げる。いっそのこと、このまま最高の出来になるよう仕上げてやろうか。どうせなら徹底的にやるのも悪くないと気合いを入れブラシを手に取ろうとするも、何か動物的な勘でも働いたのか、それまで大人しくしていたしっぽがビリビリと震え、レイフロの顔をぺしぺしと叩く。

「わ、ぷっ…、…ちょっ…コラっ……クリス! クリス!」
「失礼……なにか悪寒がしたもので」
「本当に失礼だなァ…ブラシ取ろうとしただけだろ」
「そうでしたか……? でももうしっぽは良いです」

ツンと澄ました顔でクッションをぎゅうぎゅうと抱き締めながら、そんなことを言う。何なんだ、急に? そんなにさっさと終わらせたいのか? 猫耳やしっぽと、視覚の情報が増えたというのにどうにも今日のクリスは分かりづらい。

「いいじゃねぇか。ここまで来たんだから俺がピッカピカに磨いてやるよ」
「……結構です。どうせ消えるのですから時間の無駄です」
「無駄なんてこたァ無いだろ。少なくとも俺は愉しい」

ツンツンとしなやかなしっぽを指でつつきながらクスクスと笑う。よく考えたら今の状況、猫化したクリスにハグして触れて撫で回す許可が出てるのとほぼ同じようなものではないだろうか。帰宅直後の押し問答を思い出しながら、思わず脂下がる。実質、足の間につかまえてがっつりドライヤーかけてハグして触れて撫で回してる状態だもんな、これ。そう思えばツンとそっぽを向く顔も容赦ない咬みつきも分かりづらい態度さえなんだか可愛く思えてくる。本来クリスはこんなにおおっぴらにもふもふすることを許すような性格ではないのだ。つまりどさくさに紛れて得られたこの貴重な機会を逃すなんてありえないということ。いいだろ~、やらせろよ~と押しに押して食い下がればクリスが不服そうに呟いた。

「……それならしっぽじゃなくてもいいじゃないですか…」
「……ん?」

ん? んん……? ん~~~~? 何だって? あのクリスが何だって……!?
ぼそりと呟かれた言葉が聞き間違いかと思うくらい可愛いもので思わず首を傾げてしまう。まさかあのクリスが、デレたのか……!? あのクリスが……!? しっぽじゃなくても、ってことは耳の方もやって良いと……!? 信じられないものでも見るかのように、目を見開いてしまう。

「…って、待て待て待て待て、逃げるなって」

だが、クリスは自分の言葉が蔑ろにされたとでも思ったのか。変な間まで生まれたこともあり、逃げ出そうとする。

「クリス」
「…………べつに、もういいです」
「もういい、だなんて言うなよ。ちょっとびっくりしただけだろ? お前が突然すごく可愛いこと言うから。なぁ、しっぽ乾いたから耳の方もドライヤーかけていいか?」
「いいですけど…………突然なんかじゃありません…私はずっと……」
「…………?」

いい、という言葉が翻らない内にさっさとやってしまおうとドライヤーを持ち上げたせいで、クリスの言葉尻が機械音に吸い込まれる。なんだ、何か言ったか? と思うもクリスも言葉を重ねることもなく口を閉じたままぎゅうぎゅうとクッションを抱えるだけだ。相変わらず音は嫌らしく、しっぽが不機嫌そうにゆらゆらと揺れている。が、

「…………ん?」

ふと、気付く。思った以上にドライヤーがかけやすいと。猫の耳ってこんなだったか……? 髪と同時に耳の部分へと満遍なく風を当てながらそんなことを思う。風呂場ではピンと立っていた耳が、しょぼくれてへたれたように畳まれているせいだろうか。冷えたそれを温めるよう、ゆるゆると撫でるように、梳くように乾かしていき、思い付く。あぁ、そうだ、この角度。これもなんだかアレに似ている気がする。つむじを撫でながら思い出す。まるで猫の姿で撫でられ待ちをするミネアの耳のようだと。そこでピンと閃いた。いや、でもまさか。あのクリスに限って……。けれども他に説明がつかない。

「なぁクリス……実はお前、最初から頭乾かすのずっと待ってたりとかする?」
「……………………」 

そう訊ねるもクリスは何も返さないし、振り向きさえしない。もしかしたらドライヤーの音で聞こえなかったのかもしれないが。ただ、そう考えれば一連の行動に説明がつくなとは思う。音が苦手なのは事実として、せっかく腹を括ってこうして頭を乾かしてもらおうと耳を畳んで待っていたとしたら。それなのに気付いてもらえず先に苦手なしっぽをやられたとしたら。そりゃあ逃げたくもなるし、指だって咬みつきたくもなるだろう。今日に限って何を考えてるのか分かりづらいなんて、実は大間違いで。本当は猫の部分はとても素直で、感情的で、ただ素直じゃない表情と噛み合っていないだけで。それを言動や表情に気を取られ過ぎたレイフロが勝手に読み間違えていただけではないだろうか。現に今こうしてゆらゆらと揺れているしっぽも眉間に皺を寄せる顔さえ見なければ、不機嫌どころかとてもご機嫌な猫の動きによく似ている。……まぁクリスからの反応が無い分、全ては予想で、想像で、思い付きに過ぎないのだが。それならそれでいいかと大して深追いもせずドライヤーをかけ続けていると、揺れていたしっぽがぐにゃりと曲がり、レイフロの腕へと絡み付いてくる。

「……どうせ、」
「ん?」
「……どうせ私はミネアほど素直じゃありませんよ…」

ぽつりと溢されたそれに。しっぽも含め二重の意味で驚く。まさかこんなに可愛いことをした上にミネアを引き合いに出してくるなんて。これは相当弱ってる証拠だなと苦笑する。あのクリスがこんなに甘えるだなんて。なんだか可愛いを飛び越して、だんだんおかしくなってくる。張り合うも何も、相手は本物の猫ミネアなんだぞ、と。

「クククッ……、そうかァ? ミネアも大概ツンデレだと思うけどなァ。……ま、猫ってのは大体そんなもんだろ」

素直じゃないというか、気まぐれというか。巻き付いたしっぽを見ながら、一人笑む。

「だからこそたまに見せるデレがとてつもなく可愛いと言うか、堪んないと言うかァ~?」

そしてそのデレひとつで、あらゆるツンを赦せるのだから不思議なものだ。クスクスと笑いながらしっぽを一撫ですると、前どころか下を向きかけていた顔がゆるりとこちらを向き、レイフロの顔を覗き込んだ。

「……だから貴方はマゾヒストだって言われるんですよ」
その顔がそっと近付いてくる。まるで口付けを誘うかのように。
「クリ……っ、」

本気の目だ。掛かる吐息に体が硬直する。まさか。まさか……!? ドライヤーのことなんかすっかり忘れて、流れるように目を閉じる。まさかここで!? こんな、最上級のデレを更に……!? 逸る心を抑え、デレデレとその時を待っていると、スリ……と鼻に何かが触れた。

「…………?」
「フ、ふふ……っ」
「え、ちょっ…? クリス…っ……?」

微かな笑い声と触れる感触に、目を開ければもう一度クリスが目を合わせたままスリ……、と己の鼻先でレイフロのそれへと触れる。いたずらが成功した子どものような顔をして。……いわゆる鼻チュウというやつを。

「~~~~お前なァ……っ」

今のは絶対そういう雰囲気だったろ!? と赤くなっていく頬を感じながら独り言ちる。期待した俺、めちゃくちゃ恥ずかしいじゃねぇか……! この性悪めぇ……、と口にすればクリスはしてやったりとばかりに澄ました顔をして、顎を反らした。

「猫というのは気まぐれなんでしょう?」

私は今、猫なので。さも、そう言わんばかりの言葉と共に揺らめくしっぽと立ち上がる三角の耳。間違いない。楽しんでるなコイツ。完全にお猫様モードとなったクリスに息を溢し、ぐりぐりと頭を撫でるとドライヤーをオフにする。いいだろう。ならばこちらも手段を問わないことにする。ドライヤーの代わりに用意してあったブラシを手に取り、フッフッフッ……と怪しげな声で笑うと、ぶわりとクリスのしっぽが膨らんだ。

「な…っ、な、…なん、です……?」
「さぁてキティちゃん、ますます男前になりましょうねェ~?」
「キティじゃっ、な……っ、~~~~ッ、グルゥウウ」

問答無用にブラシをピンと立った耳に当て、毛並みに沿って梳いていく。なんてことはない。ただのブラッシングだ。だがそれがどれだけ効果的なのかは、クリスを見れば一目瞭然だろう。

「名付けて猫ちゃんメロメロ大作戦……!」
「ひっ、卑怯ですよ…それは! ヴ~~~~……グルゥ」

虚勢を張って唸ってみるものの、それはすぐさまグルグル、ゴロゴロと甘えた喉を鳴らす音へと変わっていく。まぁココ、気持ちいいってシャワーの時にも言ってたしな。身体は正直だよなァ? フッフッフッとしたり顔で根元の方を掻けば、気持ちがいいのかもっとやれとばかりに耳がぺとりと折り畳まれる。可愛い。すごく可愛い。それを少しだけ焦らすように髪の方へとブラシをかければ、そちらではないとでも言うように今度は頭を擦り付けてきた。可愛すぎるだろ、これは。

「フッフッフ、いかがかな~、俺のゴッドハンドは」
「何がゴッドハンドですか…ただのブラシじゃ……グゥ…そこはズルい、です…っ」
「もっとしてくださいってお願いしても良いんだぞ~?」
「グルル…ご冗談を…もっと“させてください”の間違いでしょう?」

あくまでも俺が許されてブラッシングさせて頂く立場らしい。まったく、お猫様は気位が高いものだ。ツヤッツヤのピッカピカになった毛並みを一撫でし、反対側にも手をかける。そうすればクリスはまた喉を鳴らし始めた。こんなにも目に見えてご機嫌だと言うのに。どうして素直に言えないものなのか。

「……ふーむ、お願いネェ…」
「グルル…また余計なことを…グル……考えてますね……」

うっとりと心地好さげに目を閉じていたクリスが瞼を押し上げる。じとりとこちらを見る目は明らかに訝しげで、俺も大概信用がない。それでも耳の付け根を掻きながら、にっこりと笑う。

「い~え? せっかくだし、もっとブラッシングさせて頂こうかなァと思ってぇ~?」
「………グルゥ…言い方が…怪しい」
「なんでだよ。お前がこう言えって言ったんだろ~? で、いいの? ダメなの? どっち?」
「…グルル…グル………怪しいですが…仕方、ありませんね……どうしてもと言うのなら……」
「もちろん、ど~~しても♡」

ダメ押しに好きそうなところを念入りにブラシッングした甲斐があった。言質は取ったとばかりに笑みがにっこりからにんまりへと変わる。

「じゃ、そーいうことで」
「なっ…! そっちは良いと言っては……っ!」
「もっとブラッシングして良いんだろ~?」

既に許可は得たとばかりに。つるんつるんに整えた耳からさっさと揺らめくしっぽへとブラシを当て直す。そうそう、これこれ。この毛並み。この乱れた毛並みをピッカピカに整えるまでは、今日は終われないというものだ。にょろにょろとくねって逃げようとするしっぽの先を支えながらブラッシングを続けていると、クリスがぐりぐりとクッションに頭を埋めた。

「一応聞くけど痛くはないんだよな?」
「……痛くは、ないですけど……むずむずするというか…ぞわぞわ、するというか…とにかく変な感じなんです……っ…」
「耳だとあんなにグルグル喉鳴らして気に入ってたのに」
「感覚はそれぞれ別なんです……分かったら手を離しなさい」
「まぁまぁ。どうせすぐ終わるんだし少しくらい我慢しろって。お前だってボサボサのしっぽより綺麗に整ってるしっぽの方が良いだろ?」
「………………時と場合によります」
「少しは考えるのかよ」
「うるさいです……とにかく、今日は耳だけで良いと言って…っ、ひゃぁ……っ!」
「…………………は…?」

思わず洩れたと言うような、ひときわ高いクリスの声に動きが止まる。いや、待て。なんだその声は。なんでそんなエッチな声が出るんだよ。俺は根元の方をブラッシングしただけだぞ……。特別何かイタズラしたわけじゃないのに。なのになんかちょっと過剰なスキンシップした後みたいな気まずい雰囲気になってるじゃねぇか。そんな目で見るなよ。冤罪だ。まるで俺がセクハラしたみたいな感じになって………………あ。

「……………っ、…ヴ~~~~~~~!!」
「あ~~~~…………、なるほど……?」

首まで真っ赤になるクリスと脳裏に甦るシャワータイムの出来事で完全に理解する。つまりそういうことか。しっぽココ、性感帯なのかと。そう言えば前にどこかで聞いたことがあるな……とふと大昔の記憶が浮かび上がる。猫のしっぽは敏感で、だからこそ上手に扱ってやらないといけないとか何とかで……。あと、何と言っていただろうか。

「――――……あ、思い出した」
「……? っ、にゃあ……!?」
「ココ、良くないか? しっぽが苦手でも大抵の猫はココが好きだって前に聞いたんだが」
「ちょっ、やめ……やめな、さ…っ、…グルルゥ…っ」
「喉、鳴ってるよな?」

ポンポンと、トントンとしっぽの付け根あたりを優しく叩いてやる。そうすればクリスの身体はあっという間にくたりと力が抜け、気持ち良さそうにグルグルと喉が鳴った。なんだよ、やっぱ気持ちいいんじゃねぇか、と。我慢しなくても良いのに、と続けているとニャ、にゃっ、と甘ったるい声が漏れ始める。

「ん~~? もしかしてココもえっちポイントだったか?」
「っ、下品な言い方、は…っ! やめてください…! グルゥ……」
「でも気持ち良いんだよなァ?」

怒った口調なのに、ピンとしっぽを立てグルグルと喉を鳴らして。とろんと気持ち良さそうな顔をしてクッションを抱いてるのがアノの時のクリスのようですごく可愛い。しかも反対の手で根元の毛並みを整えてやると無意識なのかそっちの手でも叩けとばかりに尻をぐいぐいと押し付けてくる。あ~~~~もう可愛すぎだろコレ。猫ってこんなえっちな生き物だったか? クリスだから? とろんと蕩けた目が誘うようにこちらを向き、大して頑丈でもない理性の糸がぷちんと音を立てて切れる。ついでに大昔に聞いた猫のアレも思い出して。

「――そういや、もう一つ思い出したんだけど」
「ン……? グル……ん? ン……?」
「猫って棘チンなんだろ? やっぱりお前もそうなの?」

ポンポンと尻を叩く手はそのままに、しっぽを撫でていた腕をするりと下肢へと伸ばす。シャワータイムではついぞ確認しなかった裸体の部分。やはりそこも猫の部分へと変わっているのだろうか。変わっていようと変わっていまいとどちらでも良いとは言え、多少の関心くらいはある。夜は愉しいに越したことはないのだから。

「……? とげ、…ち…………?」

うっとりとしていたクリスがゆるゆると瞬き、指し示される方へと目を向ける。自身の股間へと。その言葉の意味をぼんやりと考えて。そして――

「え、」
「…………、ヴ~~~~~~ッッ!!」

さも夢から覚めたかのように、一瞬にしてスン……、とした顔をしたかと思えば、再度顔を真っ赤に染め、耳を横に倒すと、しっぽをぶわりと膨らませて。完全に怒った猫の姿そのままに、唸り声を上げると、牙を剥いた。

「え、…ちょっ、ま……っ、チェリー……!? クリスさん!?」

ポンポンと叩くレイフロの手を薙ぎ払うよう勢い良くこちらへ振り返ると、クリスはいつの間にやら長く伸びた鋭い爪を大きく振りかぶっていて。その容赦ない動きにその怒気が本気だと知る。いや待て、本当待てって! マジで伸びるのかよ、その爪は……!? ていうか怒る展開早すぎないか!? ちょっとからかっただろ!? それなのに、これって、これ…ッ……ひぃ……っ!!

「待て待て待て落ち着けってクリ……ッッ!!」
「フシャーーーーーーーーーッッ!!」
「ギャーーーーーーーーーーッッ!!」

 

その日、レイフロは思い出した。猫という生き物は感情の切り替えがとても早いことを。クリスがセクハラに対して人一倍敏感であったことを。バリバリと容赦なく引っ掻かれた傷だらけのその身を以て反省した。調子に乗って猫を怒らせるものではないと。