Adam’s CHERRY-6

 可笑しいと思わなかったのかい、アダム
 エヴァほどのヴァンパイアが飢血になるほど消耗したことに
 同性しか反応しないはずなのに君の愛し子の血を欲したことに
 忘れたのかい、アダム
 君が大切なものを失うのに私は直接手を下す必要なんてないんだよ
 なぜなら君が、君の手でそれを壊すのだから────

 

「──チェリーとレイフロが居なくなったァ?」

 真剣な顔つきのアルフォードとは対照的にレイチェルは素っ頓狂な声を上げた。すぐに来てくれと我が子に頼まれ、チェリルと共に訪ねてみれば、また突拍子もない話である。

「二人でバカンスにでも出掛けたんじゃないのか? もしくは痴話喧嘩でもしてお互い傷心の世界旅行にでも出てるのか」

 あまりにもくだらない話題に適当な返事を返す。わざわざ呼び出されたかと思えばレイフロとチェリーの居場所だと? そんなこと聞かれても自分もチェリルもいちいち把握しているわけがない。手を組む理由や目的が無ければ尚更だった。どこで何をしていようと全く欠片も興味がない。見当も付かんな、と肩を竦めれば、チェリルも同じく困ったように首を傾げた。

「レイフロさんはともかく、チャールズさんでしたら貴方がたの方がお詳しいのでは?」

 なにせモデルだなんだと表の世界に引っ張り出して、連れ回しているのは目の前の者達なのである。チェリーのスケジュールを管理しているアルフォード、そして秘書としてよく側に付いているレイモンドやその他クローン達。ここにいる彼らが分からないのであれば自分達に分かるはずもない。

「その通りだ……と言いたいところだが、肝心のクリストファーが約束の撮影場所に現れなくてね。それが三日前の話だ」

 連絡はもちろん無く、不審に思って訪ねたアパートももぬけの殻。唯一残っていたサクラとミネアにも確認したが、事件性は感じられないどころかミネアに至っては主人からしばらく留守にすると言伝てを預かっていると応えるくらいだった。

「はぁ、つまり誘拐という線は消えたということですね」
「なら、どう考えてもアイツらの意思で出て行ったんだろ。……とは言え大切な商品が三日もいないのによくそれだけ放置してたな」
「それを言われると耳が痛いな。……自らの意思であるならば大事にすべきでないと判断したんだ。あのクリストファーなら時間がかかろうと必ず連絡してくるからな」
「なのに今の今まで無かった、と」

 それはそれは大事件だなァ。心底興味がないとばかりに心にもないことを口にすればチェリルが咎めるようにしかめ面となる。そんな二人を相手に、そもそもとアルフォードは吐息を溢した。

「…可笑しいと思わないか。部屋は荒らされていなかった。言伝てまで残し、事件性もない。ならば何故クリストファーは連絡の一つもしない?」
「遅い反抗期でも迎えたんじゃないのか?」
「マスター!」

 さすがに調子に乗りすぎたのか、チェリルが声を上げる。確かにあの四角四面の几帳面で堅物で義理堅いチェリーが連絡一つ寄越さないのは可笑しいと思う。だが、生きているのなら必ずレイフロが近くにいるはずなのだ。余程のことがない限り、命に関わることもない。心配するだけ取り越し苦労というもの。留守にするとわざわざ言伝てするくらいなのだ。それこそ危険など──そこで、ざわりと違和感が込み上げた。なんだ。何かが可笑しい。何かが引っ掛かる。

「いっそミスター&ミス バリーに探していただきましょうか? チャールズさんは難しいかもしれませんが、レイフロさんなら居場所が、」
「……待て、留守にすると言付けたのはどっちだ、二人ともか?」
「い、……いえ彼女は主人から、とだけ」

 おろおろと困惑しつつ応えるレイモンドの言葉に短く舌打ちした。

「アレの主人はチェリーじゃない。レイフロだ。チェリーはどこへ行くと言っていた?」
「そ、それは………」
「何が言いたい」
「アイツがわざわざ律儀に家人へ留守を言付けるだと? チェリーじゃあるまいし。……タイミングが良すぎる」

 まるで何かの符号が合わさったかのように。何かがおかしい。何かが気持ち悪い。今にも繋がりそうであと一歩足りない心地に苛立ちが湧く。アルフォードが目で促し、レイモンドが慌てて退席した。ミネアに再確認するのだろう。何か情報を引き出せれば良いのだが。アレは猫でいてなかなかに主人に忠実な生き物だ。主人に不利な言動はしないだろう。残った情報で違和感の元を探る。わざわざ残した留守の言伝て。連絡一つ無いチェリー。平然とする家人。消えた三日間。

「三日……?」

 いや、まさか、とレイフェルは口元を引き攣らせる。仮にそうだとしてもそれでは計算が合わない。

「……念のために訊くがそれは三日前の話なんだよな? 言伝てを残したのはその前日ということか?」
「…いや、言伝て自体は今日を含めて一週間前だと聞いている。ちょうどその日、アダムから急遽四日間休暇を捩じ込まれた日だ」
「ということは、その休暇が明けたのが三日前ってことですか?」
「Shit……!」

 よりにもよって……! そう悪態を吐かないとやっていられなかった。タイミングが良すぎると言ったが良いどころの話ではない。最悪だ。当たってほしくない勘ほどよく当たるなんて。今日は厄日かと歯噛みする。

「なるほど……つまり、世紀に轟く大事件にでも巻き込まれてない限り、チェリーはレイフロと共に居る可能性が高い、ということだな……まぁ正確にはアイツに軟禁されてる可能性が、ってことだが」

 面倒なことを。そうレイフェルが口にすれば全員が全員、目を丸くする。その顔には分かりやすく疑問符が浮かんでいた。何故、何のために、本当に彼が──? 笑えるくらい凡庸に、危機感もなく、あの男がそんなことをしでかす者ではないと全員が全員思い込んでいるような雰囲気で。レイフェルは小さく舌打ちする。──知らないのだ。アレが……レイフロがどれほど冷酷で恐ろしい一面を持つ男なのかを。目的のためなら容易く他者に加害出来る男なのかを。バリーを連れてくるべきだったな、とどうでもいい後悔が浮かんだ。そうすればアレは面白可笑しく語っただろう。何度あの男に躊躇なく頸を刎ねられ、心の臓を貫かれたのかを。

「あの…なぜマスターはレイフロさんがそんなことをしたとお思いに? もしかして先日の……?」

 そんな中、チェリルは心当たりを思い出したのだろう。レイフェルは眉を寄せ、ひとつ頷いた。

「あぁ、……私がチェリーの血を口にしたから、だ。そのタイミングならアイツの防衛本能が働いた故の結果でも可笑しくない」

 自身の行為がトリガーな上に、チェリルを裏切ったに近いことを口にするのは苦々しい。いくら飢血状態であろうと、チェリルに誠心誠意謝罪しようとあれはひとつの大事な一線であった。手を出してはならないものだった。だが、そう思っていたのは自分だけで、やはり他の面々は理解が及ばないとでもいった顔をした。

「そのようなことであのアダムが……?」
「まさか……」
「────そんなこと?」

 動揺を隠しもせず溢されるクローン達──レイフ、ラルフの言葉に、もはやここまで来るとカルチャーショックだな、と内心ごちる。まだ人間であるチェリルはともかく、同じヴァンパイアでもここまで繭に包んで育てられると概念そのものが生まれなくなるだろうか。ヴァンパイアの性も、パートナーという重大性も。

「チェリーはアイツのパートナーだ。命が惜しければお前達も手を出さない方が良い。殺されても文句は言えないぞ」

 それほどまでにヴァンパイアにとってパートナーというのは大切なものなのだ。共に歩み、共に生きていく者。全てを委ね、全てを捧げる唯一の相手。それを奪われるくらいなら、誰を手に掛けようと、何をしようと心は痛まない。地獄にだって喜んで堕ちるだろう。私も、アイツも────

「……失礼します。ミネアさんから確認が取れたのですが…、」

 ノックの音。一呼吸置いて開かれた扉の隙間から覗かせたレイモンドは、何を耳にしたのかなんとも言えない表情を浮かべていた。アルフォードが無言で促し、中へと足を踏み入れるとようやくその口を開く。

「その……再度確認したところ今日から一週間前、外出の際にアダムより留守の言伝てを預かったそうです。クリストファー様からは何も、……というより、」

 明らかに困惑した顔で言葉を切る。確認を取ったレイモンドさえよく分からないといった顔だった。

「……そもそもミネアさんはクリストファー様がお出掛けになるところを見てはいないと」
「なのに不審に思うこともなかった?」
「アダムの言伝てのためかと。『しばらく二人とも留守にする』そう伝えた後、部屋の方から羽音が聞こえたので二人ともそちらから出掛けたのだと思っていたようです。ただ、」
「なんだ? 旅行鞄一つ持っていかなかったとしてもアイツならいつものことだ。そこは気にしなくていい」

 報告すべきかどうか迷うような顔をするレイモンドに先手を打ち、レイフェルは考える。今一つ決定打にかける情報だが、チェリーの失踪はほぼほぼレイフロ絡みと取って良いだろう。少なくともチェリーがコウモリとなって窓から出入りするなど余程のことだ。念のため、何者かに追われている可能性も考慮に入れるべきかと頭を悩ませていれば、いえそうではなく、とレイモンドが首を横に振った。

「…言付ける際、アダムはクリストファー様のシャツを大切そう抱えていたそうです。その日身に付けていたシャツを。それも、機嫌良く」
「なんだ、その変態じみた情報は……」
「私も報告すべきか迷ったのですが、……ミネアさんがしばらく熟考された後におっしゃった言葉でしたので、もしかしたら何か意図があるのかと思い……」

 そう言って眉を下げるレイモンドと呆れたように溜息を吐くアルフォードを前に、チェリルが不思議そうに首を傾げた。

「それじゃあ順番が可笑しくないですか? シャツを持っていたということは、チャールズさんはレイフロさんが言付けた時点でコウモリになっていたということですか?」

 その言葉で皆一様に緊張が走る。まさに盲点だった。自分達と違い、チェリーの服は布製だ。コウモリになれば服だけが残る。そのシャツを大切に、しかも機嫌良く抱えていたということは……それはつまり、その中にチェリーがいた可能性が高いということになる。かけ離れた点と点が線で繋がる。

「…なるほどな。手の内に無力なコウモリのチェリー抱え込んでたら、そりゃあんな後でも機嫌が良いだろうさ。そのまま好きなトコに閉じ込められる」
「あの、どういうことなんでしょうか……? 私にはアダムがコウモリとなったクリストファー様を連れ出したというように聞こえるのですが…」
「そう言ってるんだよ……最悪、コウモリになったのだってアイツが命じた可能性もある。チェリーはパートナーの前にレイフロの隷属だからな。拐うだけなら簡単なことだ」

 おそらく主人に忠実とは言え、ミネア自身も良い状況ではないと勘づいていたのだろう。主人の意に反することなく、けれども事実に基づいたギリギリの情報を与えるくらいには。……それもわざわざ、機嫌が良いとまで口にするのだ。どんな機嫌の良さかは推して知るべしである。

「ただ一つ気になる点があるとすれば、レイフロさん相手とは言えチャールズさんが大人しく軟禁されてくれるような方には思えないんですけど……隷属への命令はそんなに長く保つものなんですか?」
「ものにもよるな……レイフロが本気を出せば可能かもしれないが力を使うし効率も悪い。チェリーを懐柔、もしくは説得した方がよっぽど現実的だな」

 そのチェリーもアルフォード達と連絡を取れず、無断欠勤している状態なのだ。少なくともその時点でチェリーの意向ではあるまい。ならば実力行使して抵抗しそうなものなのに。……チェリー自身随分丸くなったとは言え、ほんの少し前まではヴァンパイアハンターとして百年単位でレイフロを殺しにかかっていた男だ。多少情に絆されようと、その意に反するものには力ずくでも抗うと思っていたが、余程巧妙に言いくるめられたか、はたまたレイフロが本気を出したか、それとも──

「…いや、有り得なくもないな。あの日、私が力を使っていたとは言え、あいつは私をどかすことさえ出来ないほど非力だった。……まるで人間みたいに」

 あの時は抵抗一つ出来ないチェリーを嗤っていたが、今にして思えば随分と不可解な話だ。意に沿わなければ女とは言え自分相手なら、多少乱暴な手を使ってでも遠慮なく部屋から摘まみ出す男である。それがろくに手も足も出なかったと? 血を吸いすぎて足りなくなったから? サイバー化を解いたせいか? いずれにしろ、チェリー自身が抗う力を持っていないのならそれこそレイフロの思う壺であろう。なんとも間が悪いな、と呆れているとアルフォードが神妙な面持ちで口を開いた。

「それについては一週間前の時点で、しばらくの間クリストファーが血を口にしていないとアダムから報告を受けている」
「は……?」

 何を言っているんだと、しばし思考が停止する。しばらくの間、血を口にしていない? あんなピンピンしておいて? あの時──アパートを訪れた際、チェリーは血に飢えて正体を無くすでもなく普通に喋っていたし、なんなら血を分け与える余裕さえ見せていた。いくら断食に慣れていたとは言え、有り得ない。あれほど非力になるまで飢えていたのなら尚更だ。そもそもそんな状態だと知っていたならレイフェルだって血を貰い受けたりなぞしなかった。レイフロの地雷も良いところだ。知らぬところでいくつものそれを踏み抜かされているという事実を今更になって気付かされる。

「ということは、クリストファー様はヴァンパイアとしての力が出ないほど空腹だったはず。なのに飢血の状態でなかったと……? そんなことがあるのですか?」
「……無いこともない。が、まさかチェリーが……、」
「マスター、もしかして…」

 何かに思い至ったかのように声を上げるチェリルに一つ頷く。それは自分達にとってはとても身近な答えだった。

「あぁ、そうだ……精気だ。夢魔ほどじゃないがヴァンパイアの私達でも精気を吸えば多少なりとも飢えが凌げる……でも、あいつは……」

 クリスは狩りをしたことがないはずだ。故に精気の吸い方など知るはずもない。飢えればレイフロの元へ行けば良いのだから。元より覚える必要のない能力なのだ。なのに知っている? そう言えば、と思い出す。最後にチェリーを噛んだ時。レイフロが現れる直前。チェリーは何をしようとしていた? 拒むのでもなく、抗うためでもなく、はだけたレイフェルの胸に指を這わせて────
 考え込む自分を余所に、レイモンドがアルフォードへと視線をやった。固い表情でアルフォードは頷くと、レイモンドの先を促す。

「ちょうど一週間前のあの日、アダムより最近になってクリストファー様の周囲で体調不良になった者はいないかと問われましたので、私が数度眩暈のようなものがあったことをお伝えしたのですが……」
「他にも当日、クリストファーの相方を務めたモデルが体調不良となっていた。血を飲んでいないのに本人は通常通り、更には交流のある者達から続出する体調不良。間違いなくクリストファーは精気を得ていただろうな。そしてアダムもそれに勘づいていた……わざわざ休暇を飛び入りで申し込んで来たくらいだ。ほぼ確実だろう」
「体調不良? ………あぁ、そうか。大昔過ぎて忘れてた。ビギナーは肌から吸うんだったな」

 とは言っても肌と肌を接触させて奪うやり方では、力を使う割に見合った量を奪えないどころか相手の体調を崩したり、意識を失わせたりと割に合わないため、多くの者はすぐに効率の良い口付けや性的なものへと手段を変える。所詮、夢魔と兄弟みたいな存在なのだ。血とは異なり相手の情が向いて初めて奪える精気は性交渉を含めた体のコミュニケーションの方が圧倒的に効率が良い。そういうことも含めてヴァンパイアの本能と言うべきか、場数を踏めばなんとなく分かるものだが、チェリーは未だ覚えたてのビギナーなのだろう。それが幸だったのか不幸だったのかは不明だが。

「…さてはて、いつどうやって覚えたのやら」

 実に面倒なことだと顎を擦る。相手や原因によっては命の危機にさえなりかねない。それくらい今のレイフロは狭小になっている可能性が高いのだ。

「……一つ疑問に思っていたことがある。何故クリストファーはコート・ダジュールのあの地下からアダムと共に脱出しなかった? 私と契約していたとは言え、アダムを逃がした時点で恩を仇で返したも同然。残っていてもほぼ無意味なはずだ。もちろんミネアやレイモンドを残していくわけにもいかなかったのだろうが……その一つに、そもそも彼はあの時コウモリにならなかったのではなく、『なれなかった』のではないか?」
「確かにアイツがコウモリになるところを見たことはないな」
「…けれどどこかの時点で覚えた、ということですね。あの時、お二人ともコウモリの姿で帰って来られましたから」
「おかげで汚ねぇモンを見せられたけどな」

 あの時、チェリーは着衣姿でなく裸で人型に戻っていた。服を作り出す必要性がすっかり頭から抜けていたのだ。故にあれが初めてだと言われてもそう不思議ではない。だが、それがなんだと目を向ければ、アルフォードはそう焦るなとでも言うように肩を竦めた。

「私の元から去る際に、彼らは何か話をし、そして二人でコウモリになった。……あの場でアダムが教えた可能性がある」
「ということは精気に関してもレイフロさんが、と?」

 そう首を傾げるチェリルにそれはどうでしょう……、とレイモンドが否定的に口を挟んだ。

「あの頃のクリストファー様は食事を一切なさらず常に酷い飢えを自覚されていらっしゃいました……アダムに始めからその意思があればあの時点で教えていたでしょうし、クリストファー様もあれほどまで飢血に苦しんでおられなかったかと。……それにクリストファー様自身、精気を吸っていることに気付いておられない可能性もあります。先日の、私の体調が優れないことを酷く心配しておられましたので……」
「無論、無意識だろうな。アダムも精気に関しては教えていないだろう。今も昔も」
「そりゃそうだ…そもそも教える気があるならとっくの昔に教えてるだろ。コウモリになるより先に覚えることだ」

 なにせ命に関わる。飢える度に短期間で人を襲っていては早々にハンターに消されてしまうからだ。あの親バカが教えないとしたら余程才能がないのか甘やかしているかのどちらかだとは思っていたが……元聖職者であろうと、日の光を浴びれようとクリスはコウモリへと変化することができた。つまりヴァンパイアとしての異能を使えたということだ。

「ふむ……ならば尚更だ。クリストファーは適応能力が非常に高い。新しいものへの興味関心もあり、あの歳でデジタルに精通する程だ。そんな男が新しくヴァンパイアとしての能力を身に付け、これまで疎遠だった多くの人間エサに囲まれる生活をしている。……さて、どうなると思う?」
「どうって……」
「つまり、こういうことですか? あのコウモリ化を起爆剤に、本人も知ってか知らずか能力が貪欲に開化し始めている可能性がある、と」
「そういうことだ」

 もし誰かが教えたのではなく、チェリー自身が変わり始めているとしたら。身体はよりヴァンパイアに近づこうとするのに、けれど自覚が無い故に思考だけはより人間に近いままだとしたら。──それはまるで。

「ハハッ…なぁ、アレは……チェリーは誰かに血を飲ませたことがあると思うか?」

 泥沼に嵌まってしまったような気分だった。進めば進むだけ息も出来ない泥濘に沈んでしまったような。そんなレイフェルの問いにレイモンドが躊躇いつつも首を振った。

「私が販売員として捕らわれていた時、アダムは私を回復させるため血を分け与えてくださいました。アダムだからこその手段でもあったのでしょうが……元よりクリストファー様ご自身にその発想がなかったようにも思われます。アダムが現れることは彼にとっても想定外のことのようでしたし、喩え予定調和だったとしても、まず彼が血を与えて回復を試みることは可能だったはずです。しかし彼はそれをしなかった。血を与えるということ自体そもそも思いつきもしなかったようにも見受けられます」
「…同じく、コート・ダジュールでも与えていないだろうな。本人にはその余裕さえなかったはずだ」
「チャールズさんからは飢血状態だったミス=ミランダにレイフロさんが血を与えて応急処置をしたと聞いてます。なので彼は与えていないかと」

 それより前となるとチェリーは聖職者として、ヴァンパイアハンターとして生きている。ヴァンパイアを駆逐する人間がわざわざ天敵に血を与えようとするか? 答えはノーだ。さすがにレイフロになら与えたこともあるだろうが『何故貴女達はパートナーを避けるのか』とチェリーが問うくらいなのだ。肝心のレイフロがチェリーの血を避けているのは明々白々である。

「もしレイフロ以外で初めて血を与えた相手が私だとしたら…」

 考えれば考えるほど悪い展開しか思い付かない。不運と悪手が重なりすぎている。苛つき半分で額を覆うレイフェルの隣でチェリルが、つまり事の次第はこういうことですか? と取り纏めた。

「チャールズさんは何かしらの理由で長期間レイフロさんから血を飲んでいなかった。にも関わらず誰かから精気を貰っていた。加えてマスターに血を与えていて、その現場をレイフロさんが見咎めた、と」
「…まぁ事実だけ見ればそうだな」

 話はそう単純なものでもないのだが。それでもその言葉にアルフォードを始めクローン達がどっと肩の力を抜いた。安堵したように。呆れたように。

「要は嫉妬か」
「痴話喧嘩でしょうか…?」
「アダムの独占欲では…?」

 それぞれがそれぞれ、まさか、となり、なんだ……とばかりに胸を撫で下ろす。それが逆に可笑しかった。レイフロの遺伝子を継ぐはずなのに全員が全員何も分かっていなくて。レイフェルはギリ、と歯噛みする。

「そんな可愛いもので済めば良いがな……、」
「どういう意味だ」
「ひとつ確認しておきたい。……お前ら、コート・ダジュールでクレイグと一緒にリニアのところに居たやつだろ?」

 そう言えば、と脳天気そうな顔のレイフとラルフを指差す。あの時、一人は負傷してエレベーターに乗っていたが、もう一人は事の成り行きを見ていたはずだ。その後者の者だろう。ラルフが手を上げ、コクコクと頷いた。

「そうです」
「そりゃ良かった。聞きたいことがある。……あの時、私が来たときレイフロは既に正気を失っていた。何があった。なんでレイフロはあんなことになっていた」
「それは………」

 ひとつ予感があった。嫌な、嫌な予感が。最大にして最悪の悪手の予感が──。記憶の紐を引っ張り出すようにクローンは訥々と語り始める。

「確か……クリストファー様がアダムを置いてアルフォード様と共にリニアに乗車することを選ばれて……それでアダムは返せ、と……クリストファー様だけは渡さないと叫び……ガードへ御力を……」
「……そしてそのまま血が足りなくなってお前らが襲われかけた、ってことか。……なるほどな──散々自分の方からチェリーの手を離しておきながら、いざあちらから離されるのは覚悟していなかったわけだ」

 皮肉を口にしながらも荒々しく髪を掻き上げた。心底最悪の気分だった。予感は当たってしまった。アレは、レイフロは単純にレイフェルがチェリーの血を口にしたから連れ去ったのではない。チェリーが精気を吸うのを覚え始めたから、だけでもない。誰よりも何よりも大事な者を他者に奪われないようにするために隠したのだ。──逃げる気さえ失くすほどチェリーを、壊すために。何者さえも手の届かぬところへ。

「何か気になることでも、エヴァ……?」
「…アイツは、レイフロはおそらく今、正気じゃない」
「…………?」

 何を言っているんだとばかりに訝しぶ面々を余所にレイフェルは口許を覆い、臍を噛む。レイフェルには分かる。レイフロの肋骨から創られた自分だからこそ。元レイフロの一部であったが故に、理解出来てしまう。──アレはきっと正気じゃない。正気でなんかいられやしない。なぜならもし自分が同じ立場だったら間違いなく正気を失うからだ。……もし、チェリルが自分を拒み、他者の精気を得て何事も無いように過ごしていたら。ずっと大切に、ヴァンパイアの異能さえ目覚めぬよう大事に大事に守り育ててきたのに自分の預かり知らぬところで狩りを覚えていたら。きっとそれだけで腸が煮えくり返るだろう。なのに。それだけにとどまらず、これまで誰にも与えることのなかった血を誰かに飲ませるなど。その肌を誰かに赦すなど。牙を立てさせるなど。──赦せるものか。赦せるものか。相手が誰であろうと……喩えレイフロであろうと。悪魔ベリアルであろうと。神にだって。渡すものか。この子は私のものだ。私だけのものなのだ。奪おうとするのなら今すぐ八つ裂きにして死以上の苦しみを与え、この子も二度と外には出さな────

「マスター…?」

 チェリルの声に、びくんと体が跳ね上がる。数瞬の間を置いてゆっくりと横を見ればチェリルが心配そうな目でこちらを見上げていた。

「……っ…、あぁ、ごめん、チェリル。少し考え事をしてた……まぁ、つまりそうだな、……今、私が生きてるのは奇跡みたいなもんだってことだ」

 呑まれそうになった。想像だけで。それくらい度しがたい話なのだ、これは。所詮、自分はレイフロと同じ穴の狢である。ただのオリジナルのコピー。だからいつか踏むであろう轍のように、レイフェルは他人事として嗤えなかった。コピーがオリジナルを超えることなどないのだから。それはつまり巡り巡って自分達の、いつか訪れるであろうチェリルとの未来を視ているようなものなのだから。そんなの全然、嗤えない。気が可笑しくなりそうだった。
 そんなレイフェルとは対照的にアルフォードは呆れたように溜息を吐いた。

「まったく大袈裟な…」
「大袈裟? 大袈裟だと……?」

 くつり、と喉を鳴った。大袈裟? 全く冗談じゃない。こんなに嗤えない話が他にあるものか……!

「ハハッ……アルフォード、お前はヴァンパイアの執着が何たるか忘れたのか? ……私達は執着した相手を決して逃さない。お前がして見せたようにどんな手を使ってでも手に入れる。そしてそれを失った時、どれほど狭小になるのかも」
「…っ、………」
「レイフロはそんなヴァンパイアの真祖様だ。頭の中に爆弾しかける程度の〝可愛らしい悪戯〟で赦してくれると思っているのか?」

 正気じゃない男がそんな手温い手段を取るわけがない。離れることを赦さず、他を選ぶことも、誰かを頼ることも──死んで逃げることさえ赦さないだろう。自分が赦さないように、アレがそんなことを赦すはずがない。チェリーが壊れるのは時間の問題だった。

「まぁ、芋虫にしてなきゃ満点だな……」

 手足を捥いで、逃げられないように。二度と他を求めないように。誰にも見向きされないように。意思を砕いて、身体を穢して、──そんな非道な真似を愛し子相手にしていないことを、今はただただ願うしかない。レイフェルは舌打ちをし、思考を巡らせた。レイフロは今どこに居るのか──と。