咎人 壱

 神様、赦してください。
 自分は好きになってはいけない人を好きになってしまいました。愛してはいけない人を愛してしまいました。
 結ばれるべきではない間柄だと分かっています。悲劇しか生まぬ関係なのだとずっと昔から知っています。
 それでも傍にいたいのです。離れたらきっと生きてはいけないだろうから。離れればきっと体は生きてても魂は死んでしまうだろうから。
 だから、だから、あのひとを――――。

 ……あぁ神よ。あなたは咎だとおっしゃりますか? 罪だと責めますか?ならば己が身に罰を下してください。彼は関係ない。自分の身勝手に巻き込まれたただの被害者だから。
 あなたに慈悲の心があるのならば、どうか罰は自分だけに。彼には吐息さえも触れないで。――――でないとそんな些細な事にさえ自分は、嫉妬してしまうのだから……。

 

 

 

 学校へと行くため玄関に向かおうとして、昼、と呼び止められる声に振り向いた。視線の先には長い銀の髪を靡かせ、粋に着流したままの男が、煙管片手に紅い目でこちらを見ながらゆるりと笑っている。彼は兄だった。昼と呼ばれた通り名の通り、金茶の明るく短い髪に同じ色の目の自分とは似ても似つかぬ、柳のようにすらりとした美丈夫の異母兄で、昼が生まれて間もなく亡くなった親の代わりに育ててくれる優しい優しい兄だった。なぁに、夜? と返すと、そういやなぁ、と夜は口端を上げた。

「明日はお前の生まれた日だろう? 何か欲しいものはあるかい?」

 生まれた日。そう言われて昼はそう言えば、と思い出した。生まれた日、誕生日……。実際には記憶に残る頃から既に家族は義兄しかいないため、生まれた日、もとより祝われるという感覚さえ少々乏しかった。まず感謝すべき両親はとっくにいないし、年を重ねる毎にそれだけ長い間、兄に迷惑を掛けているのかと思うと居た堪れなくなる。
 それでもこうやって昼自身、忘れた頃に兄は欲しいものはないか、と聞いてきて、その度に自分はそんなものいらないよ、と答えるのが習慣となっていた。……もちろん、そう答えても兄は毎年素敵なプレゼントを贈ってくれたのだが。何でもいいぞ、と続けられる言葉に、今年も例年と同じ答えを言おうとして口を開くが……唇を開いてそのまま少し、躊躇した。
 欲しいもの。その言葉に一瞬だけ思い付くものがあった。
でもそれは言ってはならないものだと、すぐに思い返して、何にもいらないよ、と言い直した。

「そ、それより、僕が明日誕生日なら、夜だって同じ誕生日でしょ? 夜こそ欲しいものはないの?」

 そう、偶然だが夜と自分は同じ誕生日なのだ。夜の場合、欲しいものはないか、と聞けば自分と違ってちゃんと言ってくれるひとだった。……それが贈る側としては悩みも減ってとても有り難いことなのだが、何分ちょっとずれたプレゼント、もといお願いなのだ。
 例えば当日、休日やら祝日やらで休みだった場合、一日中ずっと傍にいること、だとか、一緒に眠る、とか、頬っぺにキスするとか。夜にとって何が愉しいのか分からないことばかりなのだが、やる側の身にもなって欲しいのは確かだ。
 だって、自分は、夜のことが、兄のことが好きなのだから……。

男だという時点で間違いなのだと分かってはいる。義兄弟、半分は血の繋がった兄なら尚更、好きになってはならない相手だと、十二分に分かっていた。――それでも、時が経てば経つほど美しくなる姿、たまに意地悪ながらも甘く優しく接してくれる彼に心が惹かれずにいられないのもまた事実であって……。誕生日プレゼントだって、くれると言うのなら本当は兄の心が欲しかった。好きだと嘘でも良いから、たった一言でも欲しかった。でもそれは……、と思ったところでそうだねぇ、と愉しそうに目を細めて言う兄の声にはっ、と意識を戻される。

「くれるって言うんなら、たまには趣向を変えて明日、その日になってから言うってのはどうだい?」

 どうせ、オレが欲しいのは物じゃないんだ、良いだろう? そう笑って問う兄に、昼はこくりと頷く。そして物じゃない、その発想もなんだか良いなと思った。物じゃないもの。けれども心のこもったもの……。例えばいつまで経っても見えず終わらず報われず放っておかれたままの気持ちを少しでも慰めてくれるもの、とか、いっそ潔く諦めてしまえるくらい綺麗に終われる言葉、とか……。そう思った瞬間、昼の口は知らず知らずのうちに動いていた。

「ね、夜……僕も今年は物じゃないものが、欲しい、な……」
「へぇ、昼にしては珍しい……。良いぜ、何でも言ってみな? お前は、何が欲しいんだい?」
「…………、…夜が、僕に出来る…最大限の優しさ」

 そう言った瞬間、きょとんと夜の目が丸くなる。それはまるでそんなことで良いのかい? と言っているような、何を今更、と言っているような顔で、知らずつきんと昼の胸は痛んだ。簡単なことだと、思ったのだろうか。悩むほどのものでもないと、そう。
 痛い胸を誤魔化すように昼はにっこりと笑い、じゃあ、楽しみにしてるね、とだけ残してその場を後にする。夜の顔を見ては、きっとどうしようもない我が侭を言ってしまうに違いなかったから。癇癪のままに彼を責め立てて、勢いのままに想いを伝え、泣いてしまうから。だから。それだけは嫌だと、夜を困らせることだけは避けなければ、と……そう思って昼は足早に去る。
 だから昼は気付けない。本当に良いのかい……? そう小さく呟き、くつりと喉を鳴らす義兄の姿を。

 

 

 約十三年、過ごしてきた家はずっと可笑しなところばかりだった。そもそも義兄弟二人だけが住む住居としては――喩え両親が生きていようとも――そう簡単には頷けないくらいの広い家、否、既に屋敷と言うに相応しい広さだった。
 なのに金銭の心配はしなくて良いどころか、気が付くと家事の全てが終わっているのだ。夜が言うにはお手伝いさんみたいな人が日中、自分が学校に行っている間に来るのだと言うけれど、休日の時もちゃんと食事や衣類、布団等の用意されていて、気が付けば姿を一度も見ないまま終わってしまっている。
 今日もそうだった。誕生日の前夜ということらしく、二人では食べきれない程の豪勢な料理の数々が机の上に並べられており、美味しそうに湯気を立てていた。もちろん、そこには小さなケーキも加えられていて、苺とクリームの間にちょこんと載ったチョコレートのプレートには十三歳おめでとう、の文字まで記されていた。それを二人で食べて、その後さっさと宿題を済ませ、お風呂も終わらせて、いつものようにたちまち時間は経っていくのだけれど……ただ一つ違うのは、帰ってきてからどきどきと早鐘を打ち続ける心臓だった。

 とうとう日付を越える直前となれば、カチカチと進む秒針の音にさえ過剰に反応してしまって、上手く夜の方が見れない有様である。例のプレゼント云々でぐるぐると頭を悩まし、あぁ、もう、せめて何か違うことを! とそう思考を違う方へ違う方へと働きかけるがなかなか抜け出せない。緊張でそれどころではないのだ。そうして落ち着かない心のまま内心、唸りに唸っていると、なぁ、昼、と夜が語り掛けてきた。

「……っ、な、なに、夜?」

 あわあわと挙動不審な言動の昼とは違い、夜の声は酷く静かで落ち着き払っていた。

「例えば、だ。例えば、つい数分前まで信じていた常識が覆ったら、お前はどうする?」
「…え……?」

 唐突な、降って湧いたような夜の言葉に昼は首を傾げる。常識が覆る。それは一体何の話だ。

「あの、ごめん夜…、…話がよく、見えないんだけど」
「例えばの話だ。――例えば、お前が見ていた世界が全てまやかしだとすれば?」

 お前は一体、どうする? そう問いながら、目の前にいたはずの夜はいつの間に自分の背後に回っており、その筋張った大きな手で昼の目を暗く隠してしまう。慌てたのは昼だ。難しい話をし出したかと思えば、こんなに簡単に触れてきて。こちらはただでさえ鳴り止まない心臓を抱えているのに。
 これでは夜に伝わってしまうのではないかと有りもしないことを考えて。昼、と呼ぶ夜の吐息が首元にかかり、ぴくりと体が跳ねた。もうカチカチと進む時計の針の音なんて聞こえない。ただただ体が熱くなって、どうしようもなく混乱した頭で精一杯で。もう一度、昼、と夜が囁く。耳元がくすぐったくてしょうがなかった。小さく身を捩る。……それに夜は抗いもせず、覆っていた手をゆうるりと離した。

「誕生日おめでとう昼。……オレはお前に最大の優しさを与えよう。優しくて残酷なその真実を」
「え、……?」
「義兄弟ごっこは、もう終わりだよ」

 何を言ってるの、夜……? そう問い掛けるはずの声はひっ、と切れた短い悲鳴と共に喉の奥で絡まって消えた。
 覆われていた小さな闇を外されて、ゆっくりと見開いた世界の先には――……今まで一度も見たことの無いような世にも恐ろしい姿をした者たちで溢れていたのだ。
 首の無い者、鬼の姿をした者、口が裂けた者、体の半分が獣の者……。そんな人間とは絶対的に異なる姿をした、全ての恐ろしい形相の者たちが、皆一様に紅い紅い瞳でこちらを見つめていたのだ――…。

 言いようもない、経験したこともない恐怖に昼のそれまで高まっていた熱は血の気と共に一気に下がり、蒼白となる。上手く息が吸えなかった。はくはくと呼吸が空回りする。
 怖い、恐い、畏ろしい、誰か――…。
 思わず後ずさりしようとその手を付くが、逃げるも何も背後は阻まれ逃げられなくて……そこで思い出す。そうだ、夜だ、夜と一緒に逃げなくては、そうでないと喰われてしまう。この怖ろしい者たちに殺されてしまう。
 よる、と回らない舌のまま、その名を呼ぶ。にげよう、と強張った表情のまま、横目で彼の顔を見る。そうして気付く。……あぁ、と情けない、悲鳴にもならない声を上げる――…そう言えば、夜の目も紅い色、目の前にいる怖ろしい者たちと同じ、色を、持っていた……。

「――…昼、恐ろしいかい? 初めてみた『本当』の世界は、お前にとって恐怖でしかなりえないかい?」
「……お戯れは程々になさいませ、リクオさま。……それは人間。所詮生きる世界の違う生き物ですよ」
「戯れかどうかなんぞ、オレの決めることだ」

 夜は首の無い男の言葉にぴしゃりと言い放つと、逃さないとでも言うようにうっそりと目を細めて昼の体を後ろから抱きしめた。昼の体が震え、縮こまる。もはや止まることを知らない心拍は何のためなのか、何のために速まるのか、分からなかった。一体、彼は何者なのか、自分は何者なのか。何の関係あるのか、どうしてこんなことになったのか……。
 分からない、分からない、分からない。今にも零れ落ちそうな涙をギリギリのところで堪えて耐える自分に気付いた夜は、お前はただの人間だよ、と優しく笑った。

「ただの人間。それをオレがここへ連れてきた。親の元から連れ去って、オレの傍へと置いた」

 だからオレとお前が義兄弟であるはずなどないし、お前の親は別にいる。どこかで生きているのかもしれないし、死んでいるのかもしれない。そもそもオレはお前が目の前で恐ろしいと思っている妖怪たちの主だ。十三年謀っただけなのだと、夜は笑う。妖怪が成人するまでの歳の数だけ。人間の子どもが加護を失う歳の数まで。本来なら最初から見えているはずだった、あのような者たちの姿を隠すよう、その目に見えない布を巻いていたのだと。そいつらはずっとこの屋敷にいたのだと。ただお前が見えずにいただけのことなのだと。

 そう言ってお前は特別なんだと、夜は囁いた。あいつらだけじゃない。あいつら程度なら人間の子どももたまに見るやつもいる。だがお前は違う。お前はオレを見つけたんだ。ただの赤子であったはずのお前は偶々通りかかったオレを視てしまった。ぬらりひょんであるこのオレを。徒人では気付かないはずの存在に、お前は気付いてしまった。オレを魅せてしまった。だからオレは欲しくなった。この手で攫って連れて来てしまった。……それがお前の最大にして最悪の不幸。そしてそんなどうしようもない泥沼にお前が嵌って抜けられなくなったのは、オレみたいなやつと言霊を交わしてしまったからだと。

「お前はオレが欲しいものをくれると言った――物ではないものを」

そう言って夜は美しい笑みを零す。

「なぁ、昼、オレはお前の赦しが欲しいんだ。お前の全てに関する赦しをオレにくれねぇかい?」
「…………………っ…、」

 毎年、物ではない何かが欲しいと言っていた義兄。見えない何かを、視えないものを求めた夜……そしてそれに昼は是と答えてきた。今年もそう応えた。だから既に昼には逃げるべき答えを持っていないのだ。この真実を夜の最大限の優しさだと言い張るのなら、昼も同じく返すしかない。それが言霊という視えない鎖だ。知らぬ間に結ばれた約定だ。
 昼は強く抱き竦める夜の腕に指を伸ばす。そろりとその指で夜の腕に縋るように掴まえて、目を閉じた。
 ――…赦すよ。そう小さく紡いだ昼の言葉に。夜はそれはそれは艶やかに美しく笑みを彩るのだった。