夜と昼と鴆

 顎を掴む指が痛い。その内の親指だけが口の中へと突っ込まれ、上手く下顎を押さえているのか閉じることが出来ない。

「…ぁ…う、…あ゛っ…」

 無理やり上を向けさせられた開きっぱなしの唇に少し冷たくなった匙が触れる。傾けられたそれからはどろりとした粘性のものが滑り落ち、ゆっくりと舌の上を伝っていった。……僅かに米を煮詰めた匂いがする。その瞬間、脳がそれを飲み込むことを良しとせず、ぐぅと昼の喉が鳴った。

 いやだ、気持ち悪い……きもちわるい……

 反射的に渾身の力で口の中の異物に噛みつき、体を捻って動けるだけ動いて無茶苦茶に暴れた。カランと畳の上に金属が落ちる音、それからチッと舌打ちし、このやろ……っ! と上げられる怒りの声。けれども、そんなのは遥か彼方の話である。
 声と共に口内から出て行った指を感じるや否や、昼は盛大に噎せた。ごほっ、ごほっ、と肋骨をしならせ何度も何度も口にしたものを、吸い込んだ空気を吐き出す。吐き出したものでどろどろになった口を拭うことも出来ぬまま、ひゅうひゅうと浅い息を繰り返す姿に、流石に哀れと思ったのか、大きな手のひらが背中を撫でた。
 ――そんなことをするくらいなら、始めからやらなければ良いのに……。

「……鴆?」

 騒ぎを聞きつけたのか、障子戸の向こうから夜の声が聞こえた。しかし鴆は、固い医師の顔をして障子戸の向こうの彼を戒めた。

「リクオ、か……。入んなよ……いや、入っても良い。だが手出しだけは絶対するな」
「……おい、何言って……」

 声と共にすす、と開かれた障子戸から漏れた光は、苦しさに瞑っていた目にも眩しかった。あぁ、この部屋はこんなにも暗かったのだと、そこで初めて気が付いた。

「って、おい……昼!? 鴆、これは一体何の真似だ……っ!?」
「何の真似も何も見ての通り、ただこいつに飯を食わせてるだけだ」
「……っ、ふざけるなよ、鴆!」

 慌てて駆け寄った夜は畳の上で小さく丸くなり拭うことさえままならなかった昼の口端を袖で拭った。すぐに、汚れるから、といやいやする昼の頭を、しかし夜は強く押しとどめ、拭い終われば今度は落ち着けとばかりにその髪を撫で梳いた。それはお前を傷付ける気など毛頭ないのだと言っているようで、知らず昼の目からは幾つもの涙が溢れ出していた。あ、ぁ、と声にならない声で悲痛に泣き始める昼に夜はキッ、と鴆を睨み付ければ鴆は苦々しく溜息を吐く。

「手を出すなと言ったはずだ、リクオ。それに、オレはふざけてなどおらん」
「……鴆、こいつにはまだ時間が必要だとなんで分かんねぇんだ!」
「時間? それこそ、これ以上は無意味なことだ。こいつは食べられねんねぇんじゃねぇ。自分の意志で食べねぇんだ。そんなやつに時間を与えてどうする? お前がこいつと同じように絶食する様をただ指を食わえて見ていろと?」

 ぴくりと昼の体が震える。初めて聞いた言葉に涙で濡れた目を更に大きく見開いて、恐る恐る夜の顔を見上げた。しかしその顔は影となって見えず、唯一覗く口元だけがゆるりと柔らかな弧を描く。そしてお前が心配することは何も無い、とそっと囁く夜の体が自分と同じく以前よりずっと痩せていることに、ようやく気付いたのである……。