夜と羽衣狐に拐かされた昼パロ

 あの時の自分は時よ、戻れと強く願っていた。子どもの心はあまりにも傷付きすぎて、弱まり続ける人の魂と強大過ぎる妖の魂の均衡が脆くも崩れ始め、ついには消滅へと向かい始めていたから。何も知らない、常に死と直面するような戦場などとは無縁だったあの頃へと戻れば良いと思った。受け止めるのは自分だけで十分だと思った。そして、その願いは結果的に叶ったと言えるだろう。一つの体に二つの魂で存在していたリクオという少年は、とある術式で一つの体にそれぞれ人と妖の魂を宿す二人となったのだ。
 人として分かたれた昼と呼ばれる子どもには、この一年の間に起こった全ての記憶を消すことにした。中途半端に妖怪の部分だけを消しては何かのきっかけで全てを思い出すかもしれないという配慮が込められていた。戸惑いはあるだろう。気付けば一つの季節がぐるりと一周していて、なのにそんな自分には一切の記憶が残っていないのだから。
 それでも、また一から記憶を作れば良いと思っていた。また屋敷の者たちにこれだから妖怪は、と嫌みを言って、だから妖怪なんか嫌いなんだと膨れ面をして、だけどそんな言動で誰かを傷付けてやしないか気になって。気付いたら一歩、一歩、歩み寄るようなそんな人と妖の理想とも言える平和な日々を今度は過ごさせてやりたいと思ったのだ。否、過ごさせるつもりだった。……体を分かたれた翌日の、夢幻の如く消え去ってしまった子どものいない空っぽの褥を見るまでは――。

 

 

「……ごめんね?」

 今でも鮮明に思い出せる、一年前の絶望も、空虚となった心も、目覚めを待ち望んでいたあどけない顔で眠る子どもの顔も。全部、全部覚えている。その姿を探し出すために畏れを集め、組を広げ、子どもの無事だけを祈ってきた。なのにどうして、どうしてこんなにも望んだ願いの結末は無慈悲で残酷で容赦ないのか……。

「痛い? 痛いよね? ごめんね、治してあげたいけど君は治してあげられないんだ。君、奴良組の総大将なんでしょう?」

 倒れ伏した自分の傍らで膝に頬杖を付きながらしゃがみ込む少年の姿が一人。それは拐かされてより丸一年探し続けていた、まだまだあどけない顔をする子どもの姿であった。肩には、かつて共に握っていた祢々切丸が深々と刺さっており身動きが出来ずに苦痛に呻いて手足をもがく。それにまた、子どもはごめんね、と言ってにこりと無邪気に笑みを浮かべた。

「君が居るとね、母さんが泣くんだ。可愛いやや子がもうすぐ生まれるのに君が無情にもそれを邪魔するからって」
「…母、だと……ハッ!」

 拐かしたのは何の因果か宿敵とも言える京妖怪の者たちだったのだ。しかもあろうことか、記憶も心も真っ白な器そのものであった子どもに羽衣狐は、京妖怪の主は自分を母と偽ったと…! ふざけるのも大概にしろと、腸が煮えくり返るというのはこの事かと、思わずにはいられない。お前の母は、オレたちの母親はあのような闇の黒に染まる女ではない。子どもと同じ陽の光に愛され、眩しいくらいに明るく優しく、そして温かい者であるはずなのに。ギリギリと噛み締め、子どもの面影の裏で糸を引く悪しき者を射殺さんばかりの視線に子どもは似つかわしくない柔らかさでくすりと笑った。

「あ、やっぱり似てないかなぁ? まぁ普通はそうだよね。僕も本当に血の繋がりがあるなんて思ってないし」
「……ッッ…!?」
「なら、どうしてって顔してるね? だって、母さんじゃなくても一人の女の人が目の前で泣いてるんだよ? 助けてあげるのが道理でしょう?」

 変わらない……なにも変わらない子どもの優しさ。人を愛する心。そしてその存在の在り方全てが、記憶を消して、失ったあの頃の子どものままで。何も変わらず子どもは笑う。無邪気に当たり前の如く、呪いの言葉を吐き捨てるのだ。

「それにね、僕、妖怪なんて大嫌いなんだ。だって妖怪は怖いし、悪い奴らでしょう? 母さんみたいに人間を泣かせちゃうでしょう?」

 変わらず、あの頃と、二年前と同じように子どもはいとも容易く妖怪を厭ってしまう。

「だから君も無かったことにしちゃおうかなって。そうしたら母さんも喜ぶし、君がいなくなることで困った妖怪が少しくらい減るかもしれないしね」

 また、子どもは呆気ない程、簡単に己の手を手放してしまう。要らないと、また突き放す。二人に分かたれたはずなのに、記憶の全てを消したのに、滑稽な程、また自分たちは同じ道を辿ってゆく。向かい合って、触れ合って、なのに相容れなくてすれ違う。

「……ハッ、人間如きがオレを仕留められるとでも?」

 これは罰なのであろうか――子どもの未来を勝手に定め、歪ませた己自身への。それとも世界の意志なのだろか――いくら歪ませようとも、消そうとも、必ず自分たちはこの道を歩まざるを得ないのも。……ならば、とギリリと唇を噛む。そして、ぐぐ、と痛みに歯を食いしばりながら肩に突き立てられた刀を勢い良く引き抜いた。途端、だらだらと流れ出す赤い血。ぶらりと下がる腕…神経までもやられたのか穿たれた右肩、利き腕は上手く動けやしなかったが唯一の得物は己の手にあり、人の子である子どもよりも妖である自分の方が圧倒的に有利なことには変わりない事実に、きゅっと唇を引き結んで子どもを見つめる。同じなら、同じ道を辿ってしまうのなら、もう一度、この手に子どもを奪い返すまでだと、覚悟を決める。喩え、どんな手を使っても、どんな滑稽な姿を晒そうとも、必ず子どもをこの手に、この傍に取り返すと。
 ゆらりと姿が世界に溶け込んだ。驚きに子どもの目が見開かれる。当たり前だ、子どもには畏れを見せたことはない、先程までも祢々切丸という刀を身一つで避けていただけに過ぎない。大切な子どもの身に傷など付けないように、何も覚えていない子どもを怖がらせないように……しかし、そうも言ってられなくなった。このまま何も出来なければ、子どもは二度と手の届かぬ場所へと行ってしまう。そんな確信が心を占めていた。魅せなければならない、己の畏れを。魅せ付けて、二度と離したくなくなる心地を抱かせなければ、この子どもは帰ってこない。かつて一度、この子どもを手に入れた時もそうだったのだから……。

「…見えない。これが、噂に聞くぬらりひょんの力?」

 きょろきょろと自分を探して辺りを見回す子ども。その姿は以前、精神世界で息を潜めて隠れる己を見つけられず、さまよっていた様子とよく似ていて――……。どこ、と子どもが手を伸ばす。その目の前を掠める細い指を絡めとって、口付けたい衝動に駆られてしまう。ひる、と唇だけで名前を象る。子どもの目が一瞬だけ細められた気がした。

「ねぇ、もしかして――ここ?」

 ぴたりと動きが止まった。否、止まらずにはいられなかった。子どもがにっこりと笑みを浮かべていた。いつの間に手にしていた匕首の刃が首の皮一枚を裂いてひんやりと佇んでいた。
 ……畏れが断ち切られていた。
 零れ落ちそうな程、目を見開いたその姿を嘲るように、ふふ、と子どもが軽やかに笑う。

「君の姿は見えないんだ。でも、なんでだろう、君が次に何をしようとしてるのか僕には手に取るように分かるよ」
「――…ひ、る……?」
「ふふ。くび、取っちゃった」

 ばいばい、と子どもの唇が形作られる。それが最大の優しさとでも言うように、柔らかな笑みを見せられる。手のひらからぽとりと大切なものが滑り落ちる感覚にようやく真実を思い知らされた。
 あぁ、――自分は魅せることで子どもを捕らえていたのではない。ただ子どもがその優しさで自分の方へと歩み寄り、傍に居てくれただけなのだとようやく気付かされたのである……。