夜と昼と夢の話

 ふと目が覚めた。とは言ってもまだ、うとうとした意識の中で、夢か現実かもよく分かっていない夢心地、また目を閉じてしまえばすぐにでも深い眠りに陥れるだろうくらいのうすぼんやりした感覚だった。それでもリクオはもぞもぞと布団の中を這いだして、ゆっくりと体を起こした。正直、未だ夢に浸っている体はあまり力の入らぬ重たいもので、上手く動けやしなかったのだけれど、なんとなく外へ出たくて引きずるように部屋を出た。障子戸を開けると開けっぱなしの縁側、月はまだ空高いところに坐していて、まだまだ宵の真っ只中なのだと知る。向かう先は決めていた。今は季節を過ぎて青々とした葉の茂る我が家で一番の大桜の木、その前までだ。幸か不幸か、宴会場とは逆の静かな縁側には誰もいなかったが、覚束ない足取りでふらふらと進む姿を誰かに見かれば、もしかしたら酷く心配されたかもしれない。そう言っても良いくらい、リクオの足元は不確かなものだったし、眠くて目もほとんど開いていなかった。ただ身に染みついた記憶と感覚で縁側とその壁を伝い歩いているようなもの。その上、何か用があるのかと聞かれれば、特にそんな御大層なものはなかった。ただただあの大桜のところの夜気を吸い込みたいと思っただけだ。ただそれだけのために足を進める。
 足音は消さなかった。……いや消そうにもそれだけの考えも気力も無かった。ずり、ざり、と足を摺る音が静かな空間に大きく響く。真っ直ぐ歩いて、ようやく突き当たる角を曲がると、少しだけ水の湿った匂いと、微かに強くなる緑の香が鼻腔をくすぐって大桜のところまで来たのだと実感した。高いところでは偶に夜風が吹くようで、さらさらと葉の擦れる音がする。ここなら良いだろう、と一人納得して、柱に寄り添うように縁側へと座り込み、瞼を閉じた。温かい布団とは違い滞らない、涼しいと表すのにちょうど良い空間だったが、うつらうつらとしていた頭はさらにうつらうつらとして夢の世界へと旅立つ準備が出来ていた。風邪引いちゃうかもなぁ……と一応頭の片隅で思いもしたのだが、いかんせんこの微睡みの誘惑に抗うには少々足りなかったらしい。柱へと寄り掛かる体重がいよいよ大きくなって、考えることを放棄する。溶ける思考、沈んでいく意識。これはもう寝ちゃうなぁ、と思ったその時おい、と声が掛けられ肩が軽く揺さぶられる。

「……おい、昼、おい……ここで寝ると風邪引いちまうぞ?」

 おい、と何度も掛け続けられる声にとろとろと微睡ろんでいた意識が僅かばかり浮上する。なに、と譫言のように応えつつ、重くなった瞼をゆるゆると押し上げれば、薄闇の狭間にゆらりと白銀の何かが浮かび上がっていた。純粋に綺麗だと思った。……でもそれが何なのか分からなくて、しばらくの間ぼんやりと見つめていると、おい、ちゃんと起きてるのかい? と問い掛ける声が耳を掠める。それに、ん……、と短く応えれば、本当かい? と苦笑交じりに囁かれて、さらさらと前髪を梳かれた。
 もう一度、昼、と呼ばれる。今度は応える間を待たずして、ふんわりとお酒の匂いがしたかと思えば、すぐに唇へとくすぐったさを覚えた。まるで仔犬にでも舐められたような感じだ。
 しかし、漂う酒精の匂いで誰なのかも気付いた。甘えるように気だるげではあるものの腕を上げて相手の首あたりへと伸ばせば、相手もそれを分かってるのか、するりとその体を潜り込ませてきた。

「昼、お前さん、寝惚けてんのかい?」
「……んー…よる………」
「あぁ、オレだってのは合ってる――……が、お前、本当にオレだって分かってんのかねぇ」
「ん……おさけの…におい、した」
「酒の匂いがしたら、みんなオレかよ」

 違うよ、君の綺麗な髪が見えたんだ、と言いたかったが、大して呂律が回る訳は無く、夜にしてみればむにゃむにゃ言っているのと大して変わらなかったのかもしれない。あぁ、もう分かったから、などと呆れ半分の色が加わった笑いを込み上げさせて、しだれ掛かる自分の体を受け止めながら、よしよしと頭を撫でる。その手つきの優しさになんとはなしに、男の機嫌の良さが分かった。こんな人気の無い場所で一人酒なんてしていただろうに、珍しい。その珍しさにリクオもうっかりと口を滑らす。

「ねぇ…よる、……さくらのとこ…つれってて……?」
「桜? あの枝のことかい?」
「ん…、それ」

 桜の所――つまり枝の上ことだが、そこは一際夜のお気に入り、特等席で(勝手に登る牛頭丸などを除けば)滅多に他の者を上げないところだった。もちろんお願いのような言い回しではあったが、別にダメだったらダメでも良かった。ただ夢心地に言ってみただけだ。けれども今夜は随分と機嫌が良いのか、応えに少し間を置くも、夜はにっと唇を引き上げた。

「――いいぜ、連れてってやる」

 でもその前にこれ掛けとけ、と自分の肩に掛けていた羽織を掛けられる。……体温が移っていたのだろう、冷え始めていた肩がすぐにじんわりと温かくなって、再び誘惑的な眠気が襲ってきた。――眠ってもらってもつまんねぇが、暴れたりもすんじゃねぇぞ? どこか遠くで、そんな声を聞いてれば、ふわりと体が浮く感覚がする。その次にさく、さくと数歩、土を踏む音が耳を掠めて、ふと止まったかと思えばトン、と地面を蹴り上げる音がし、それと同時に、ふわりとまた大きく浮遊する感覚と反発するような重力が体を支配した。ぴくりとリクオの肩が跳ねる。先程まで見ていた夢の続きを唐突に思い出したのだ。そして、再びトン、と音がすると、今度はさらさらと鳴り響いていた葉擦れの音が少しだけ大きくなった気がした。

「そらとぶ……ゆめ…」
「ん?」
「……さっきまで、みてたんだ……ふわふわ、そらとぶゆめ、を……」

 翼もないのに、高い空の上をふわりふわりと飛んで漂って、その心地に身を委ねるだけの夢。高い空は冷たい空気で澄んでいて、なのにお日様に近いから寒いことはなくて。夢現に囚われながら口にするリクオの言葉に、夜はふわふわって、今じゃあただ危なっかしいだけなんだがねぇ……、と肩を竦めて、枝から落ちないようリクオの背からその身を抱きしめ、また己の背も太い幹へと預けた。後ろから包まれる温かさは、高く冷えた夜気にはちょうど良く、それと共に安心感が溢れて、リクオは思わずうとうとと目を瞑る。まるで夢の続きを見ているようだ。おい、昼、もう寝ちまうのかい? と夜が耳元で囁く。もっと夢の話をしてくれよ、とせがみもする。

「……ゆめ…?」
「そう、夢。なんなら別の話でも良い。オレは暇なんだ。相手をしておくれ、昼」
「……ゆめ…、ゆめ……じゃあ、…よる、えいごって、しってる……?」
「別とは言ったが、また急なこった。外つ国の言葉かい?」
「ん…」

 片手でリクオを支えながら、もう片方で柔らかく髪を梳く夜の胸へくたりと寄り掛けて、リクオは寝物語のようにとうとつと語り出した。今、学校で英語って言葉を習っててね、これが結構面白いんだ、と。例えば〝見る〟という言葉一つ取ってもね、ただ目に入るだけで見えたって意味の〝見る〟っていう言葉もあるし、自分の意思でそれを見つめるって意味の〝見る〟っていう言葉あるんだよ。そう言うリクオの言葉に首を傾げて、この国の言葉もそれくらいの分け隔てはあるだろう、と夜が言う――それこそ、見る、視る、観る、覧る。どれも目に映す様を表すが、その意味はどれも似て非なるもの。そんな夜に、そうだねぇ、とリクオは小さく笑みを洩らしながら、君も学校に来れば良いのに、と言った。けれどもオレは活動時間は昼じゃねぇから嫌だ、とそこばかりは言い張って、で、それがどうしたんだい? と飄々と続きをねだる。
 そうだなぁ……とリクオは逡巡して、似た意味でも発音が全く違う言葉がちょっと多いっていうのかなぁ、と言った。あくまでも僕がそう思っただけなんだけどね、と付け足して。すると、お前は相変わらず難しいことばかりを考える、と夜が苦く笑う。そんなに難しいのだろうか、と首を捻りはするものの、眠りの淵を行ったり来たりしているリクオの頭では良く分からなかった。でも、なんとなくだが、最後まで聞いてもらいたい気はしていた。

「……それなら、…ゆめ……」
「夢?」
「えいごだと……どりーむって、いうんだ……」

 ふーん、と夜は呟いて、二、三度どりーむ、どりーむ、ねぇ……と口の中で繰り返す。その、どりーむってやつがどうしたんだい、と夜が問えば、夢ってさ、二つの意味があるよね、とリクオは返した。一つは、こうして目を瞑って眠りに就いて見る〝夢〟で怖い夢を見るとか言うよね、と。もう一つは未来に希望を持つっていう意味で見る〝夢〟で、夢を持つって言ったら分かりやすいかな、と。それなら分かる、と夜は笑う、お前さんが今こうやってふわふわ行ったり来たりしてる所と、オレが三代目継いだ先みたいなもんだろう、と。
 ん、とリクオはゆるりと頷いた。そう〝夢〟なのだ、そのどちらも、同じ〝夢〟。喩え、片や起きてしまえばいとも簡単に忘れ去られる儚いものでも、片や確固たる意志を持った温かな希望であろうとも、この国では同じように夢と言う。まるで、力強い願いも希望さえもいつかは泡沫の如く消えてしまう脆いものだと言われているような錯覚に陥ってしまう言の葉で。時折、願うことさえ、抱くことさえ無駄なのではないかと思ってしまうのだ。
 だから、違えば良いな、と思っていた。眠りで見る夢と、未来の先に見る夢が、英語では全く別の言葉であれば良いと思っていた。

「でもさぁ、…おんなじだった……どっちも、おんなじ、どりーむなんだってー……」

 リクオは少しだけ眉を下げて笑う。それは場所や言葉が違っても自分たちと同じ考えを持つのだと安心したのと、夢はやはりどこまでいっても脆く儚いものなのだと、どこかがっかりしたのが混じり合ったので。いつか夢見た未来も夢描いた希望も、そんな風に簡単に消え去ってしまうのかと思わずにはいられなくなってしまって。夢現の戯言だ。ふわふわと浮遊する意識の中でちょっとばかし引っ掛かったものを口にしただけの詮無き話。それこそすぐに溶け消える淡雪より呆気ないもの。だと言うのに、夜はと言えば、お前はいつになく不思議な事を言う、ととても可笑しな話でも聞いたようにくつくつと喉を鳴らして笑った。

「夢っつっても、オレ〝ら〟は妖怪だ。人の子が夢見ることは大抵出来ちまう。眠って見る夢だって、望んだ未来の夢だって。オレ達は自分で叶えられる。それだけの力がある」

だから、と夜は言う。

「全然儚くともなんともないだろう? 所詮はただ、まだ叶えてないだけの現実のひとつに過ぎない」
「ふふ…きみならそうかもね……」
「何言ってやがる。お前だって妖だろうよ」
「……あやかし、かなぁ……」
「あぁ、妖だ。人の子であると同時に妖だ。お前はオレと〝同じ〟なんだから。儚い夢とやらも無縁ってこった」

 残念だったな、とそう小憎たらしげに言って、なのに頬を撫でる手はあまりにも優しく穏やかで……まるで、そう、お前が不安に思うことなど何一つ無い、とでも言われてるような温かさで。それがなんだか無性に嬉しくて、頼もしくて、それからとてもとても心地よくて、そっかぁ…と安堵の吐息を洩らす共に、いつの間にか入っていたらしい肩の力を抜いた。そうすれば、急に瞼が重くなった。今まで以上に抗いたい眠気がやって来て、リクオの意識はとろとろと微睡みに溶けていく。
 昼、と呼ばれた。もう、話すことは無いのかい、と尋ねるような、確認するような夜の声が聞こえた気がして、ごめんねと呟いた。ごめん、またちゃんと話すから。しかしそれもまた、むにゃむにゃ言ってるように聞こえたのだろう、遠くで小さく夜の笑う声が聞こえた。それもすぐに意識の底へと沈む。桜の木の上だと言うのに怖さは微塵も感じなかった。落ちないようにと自分を支えてくれる力強い腕が、ただただ理屈も無く心休まる場所であると知っているかのように、安心だけが込み上げた。
 おやすみ、おれのひる。旋毛にくすぐったさを感じる。もちろんそれを確かめる前に、リクオの意識は眠りの中へと落ちていったのだけれど、不安などあるはずもなかった。

 

 

 腕の中ですうすうと穏やかな寝息を立てて眠る子どもの顔をそっと覗く。迷い事など消え失せてしまったようなその安らかな表情は、先程から幾らかさざ波の立っていた夜の心を少しばかり落ち着かせた。無垢な子どもの寝顔にゆるりと目を細めつつ、夜は懐にごそごそと手を突っ込むと、爪先に掠った物を取り上げる。……出てきたのは折り畳まれた白い薬包紙だった。その包みをかさかさと音を立てながら開けば、黒っぽい小さな丸薬が幾つか顔を覗かせ、その内の一つを取って、再び薬包紙を包み直し懐へと戻した。そして、摘まんだ丸薬を口に含み、ゆっくりと歯で噛み潰す。

(……あまい、)

 ぱき、と口内で簡単に砕けた丸薬は、見た目と相反して蜜のように甘く、舌を刺す。仕方ないと諦めてはいるものの、やはりその甘さにはいつまで経っても慣れないもので、どうせ誰が見てる訳でも有るまいし、と思えば、自然と眉間に皺が寄った。それほどに甘い。されど、これが目的でもある。子どもの体を引き寄せて、夜は己の唇をその頬へと触れるかどうかのところまで近づけると、妖力を込めてふっ、と息を吹きかけた。
 途端、澄み切った空気が一瞬にして甘ったるい匂いへと染められる。不思議とその匂いはすぐに拡散し、溶け消えることはなく、しっとりと自分たちを囲むように絡みつき、漂う。その中で子どもは、すやすやと眠り続ける。一つ、二つ、とこの香りを吸い込めば、吸い込むほどに人の血の多い子どもの眠りは深くなっていく。……それは対妖用の薬の副作用を応用したものだった。苦い薬は人であろうと妖であろうと嫌われるようで、これは子どもの妖が薬嫌いを克服するために作られた甘い喉飴みたいなものらしいが、一方で人には苦く、一歩間違えれば昏睡状態へと陥らせる危険な代物でもあるらしい。違いは妖気。その有無によって薬効が変わることから、妖の血の多い己が含めばたちまち甘ったるい喉飴に、妖気を含んだ吐息程度であれば人の血が多い子どもには甘い香りの眠薬となるわけだ。知恵を齎したのは言わずもがな鴆である。

「――これでまたしばらくは何事も無い〝ように〟過ごせる、かねぇ……」

 昏々と深い眠りに落ちていく子どもには決して届かぬ言葉、それ以前に記憶にさえ残らぬ話だと分かっていても呟かずにはいられない夜は溜息を吐いてそう言った。

――夢遊病という病を知ってるかい?

 そう問い掛けた鴆の言葉は未だ記憶に新しい。昔から稀にいたのだと言う。夜中、布団から出たかと思えばふらふらと歩き回ったりして、その後再び眠りに就くのだがその間のことを一切覚えてない者が。子どもに多く、本人の身の安全さえ確保すれば、誰かに危害を加えるものではないのでそう滅多なことが起きる訳でもない。だが、その病を引き寄せるのもまた滅多にある訳でもないのだ。……特に妖怪の血を持つ者にとっては尚更に。
 人の病だ、と鴆は難しい顔をした。妖怪を専門としている鴆にはほとんど手の打ちようが無いもの、あるのは万が一何か起こった時の対症療法というその場しのぎの可愛いものだ。子どもの場合、月に一度あるか無いかということから、日々少しずつ溜まっていく歪みを吐き出しているのだろう、と鴆は言った、人と妖の間で生まれる収まりきれない葛藤が、ある日ついに堪え切れなくなって無意識に子ども自身の体を動かすのだろう、と。それは子どもの言葉に出来ないたすけて、という合図でもあった。それ故に、本来では返してならぬという夢現の言葉にも、子どもの溢るるものが空になるまで夜は返し、その代わりに眠りの薬も使った。全ては子どもの憂いを取り除くために。

「――でもなぁ、……昼。お前は、オレと桜、どっちに助けを求めてんだい」

 お前は覚えていないだろうが、毎回この枝に登りたいと言うんだ、とそう自嘲じみた問い掛けにもちろん返るものは無い。自分は知っている、人は弱くて脆いがその反面思った以上に強かでしなやかな一面があることを。どこへ逃げれば救われるのか、どこが身の休まる場所なのか、理性はともかく本能は確かに判別していることも。そうして毎度、桜の枝の上でこうして自分の腕の中に収まり静かに眠る姿を眺めることが嬉しくもあり、憎らしくもあるということも。いつも桜の上に自分がいることを認識してやって来るのか、それとも自分がいなくとも一晩桜の傍で眠りに就くつもりでやって来るのか。聞いたって永久に返ること無い問い掛けを呑み込み、夜は一息吐くと、幼い子どもの体をきつく抱き寄せた。どうせ何をしたって朝まで起きやしない。目覚めたとしても何も覚えてやいない。ならば、と夜は耳朶に、こめかみに、頬に、旋毛に唇を寄せる。それと共に、柔らかな子どもながらのまあるい線を指で辿って、掛かる髪を払い、ふと色付いた唇へと指を伸ばした。

 これはそう、単なる夢現の続き。するり、と撫でた指腹をゆっくりと己の唇へとなぞらえる。されど、虚しさばかりが心を占める。なるほどなぁ、と男は少しだけ理解した。
 ……何も変わらない、誰も知ることのない、決して叶うことのないその想いは、子どもの話した〝夢〟の儚さというものに、どこか良く似ている気がする。そう少しだけ夜は思ったのだった。