子夜と子昼とイタク

「あぁ、もう泣かないで、夜」

 そう焦れたように昼が言ったのは、目の前で女々しく顔を伏せてしくしくと泣き続ける幼馴染にである。人間である昼と違って、美しい白銀の髪に紅い目を有した幼馴染は小さくとも明らかに人とは違う雰囲気を持っており、つまるところ生粋の妖怪であった。その生粋の妖怪である夜がなぜ自分の前で延々と泣いているのかと言うと彼の御家の取り決めでここから遠い土地である『遠野』と呼ばれるところに修行に出なくてはならないから、ということらしい。確かに自分たちは幼馴染としては常より傍にいて、毎日のほとんどを共に過ごしてきたくらいの仲ではあったが、そんなに駄々を捏ねるものか、と昼は溜息を吐かざるを得なかった。取り決めによると、四、五年もすればまたこちらに戻ってくると聞いた。ということは、離れると言ってもほんの数年の別れではないか。今生の別れと言う訳でもあるまいし、寂しいと言われて嬉しいとは思うものの、ここまで泣き付かれては正直とても困ってしまうというものだ。その上……。

「…その、さっさとこいつ、どうにかしろ、みたいな顔してこっち見るの止めてよね……?」
「なんだ、分かってたのか。なら話は早い。こっちもいい加減時間が押しててだな、」
「無理言わないでよ…! 大体、君、遠野ってところの新しい夜の教育係なんでしょ!? 君がなんとかしてよ…っ」
「ここはまだ、遠野じゃない」

 イタクと名乗ったこれまた妖怪の同じ歳に見える少年はそう言ったまま、ついとあちらの方に顔を向けて完全なる知らんぷりをした。……妖怪とはなんと自由気ままな生き物なるか。泣きやまない夜に新しい教育係の態度と、だんだん腹が立ってきた昼はとうとうぺちりと夜の頬に手を当ててぐいっと無理やり顔を上げさせると、夜! と叱責にも近い声で言い募った。

「お願いだから、泣きやんで…! もう、なんで君、妖怪のくせに、人間の僕よりこんなに泣き虫なのさ……!」
「……だって、昼は嫌じゃねぇのか? ずっとずっと一緒にいたのに、バラバラになっちまうのに、昼は平気なのか…?」
「………ッッ」

 うるり、とその紅い目を濡らしてこちらを見つめる夜の姿に、昼は息を詰まらせる。流されちゃダメだ。昼は内心首を振る。夜は自分がその泣き顔に弱いことを十二分に知っている。……だから流されてはダメなのだ。引き止めようなんてしようものなら、それこそ彼の思う壺なのである。

「…っ、そんな顔をしてもダメ…!! 今日は出発前にお別れしに来たって言うのに、夜がちゃんとしてくれないんならぼく、帰るからねっ!」
「…ちょっ、昼!」
「バイバイ、夜っ! 遠野ってところに行ったら、少しくらいその泣き虫治すんだよっ!」

 そう吐き捨てた後には、夜を背に昼は駆け出していた。決して、後ろを振り返ることはなかった。振り返ったら、きっと未練ばかりが募るだけだから。行かないでと、ずっと一緒にいたいよと我が儘ばかりを言ってしまうから。それは夜のためにはならないと、きつくきつく言い渡されているから。だから言えない、言わない。本当は夜と同じくらい、いやそれ以上に自分だって泣きたかったけど、夜の居ない毎日を想像しただけで悲しかったけど泣いたりなんか出来なかった。だって夜のことだから、自分が泣いたらここに残ると言うに違いないから。

「…ふっ…うぅ、っ」

 我慢していた涙がようやく堰を切って零れ始めた。いやだよ……いやだよ、ぼくだっていやだよ、なんでぼくを置いてひとり遠くに行っちゃうんだよ、よる……っ。さびしいよ、かなしいよ、と心がきしきしと痛みを訴える。
 ぼくだってずっとずっときみの傍にいられると思ったのに……。くしゃりと顔が歪んで、ぽたりぽたりと落ち始めた雫で地面が明るい色から黒っぽい色へと染まるそこへと、昼はずるずるとしゃがみこんで泣き続けた。運良くここは物陰だから、誰にも見られることはないし、咎める者もいない。だから昼は思いっきり泣いた。声を殺して、大粒の涙を幾つも幾つもその頬に落としながら、いつまでもいつまでも共に居られなくなった夜を想って。

 

 

「……で、いつまでその〝泣き真似〟とやらは続ける気なんだ?」
「――なんだ、バレてたのか」
「……当たり前だ、白々しい。気持ち悪いからさっさと止めろ」

 言われなくとも、お前たちに見せる涙なんてありはしねぇさ、とあっけらかんに言い返して、次の瞬きの後にはけろりと笑っているのだから子どもの姿と言えども、なかなかに食えない相手だとイタクは思った。ぬらりひょんの孫だかなんだか知らないが、急に泣き事の真似なんかして、子どもを引き留める様は見せるくせに、いざ子どもが走り去ってしまえば追いかける様子は全く見せない矛盾する姿に疑問を感じずにはいれない。これが、ぬらりひょんという妖怪なのか、とイタクは首を傾げるが、夜と呼ばれた孫と言えば、何を考えているのか分からない顔して相変わらず自由気ままに、なぁ、イタク、と声掛けてくる。

「人間でいう自我の目覚めって幾つくらいの頃なんだ?」
「………はぁ?」
「ついこの前まで、あいつは可愛いもの、綺麗なものが好きだったのに、今日は全然靡いちゃくれなかっただろう?」

 そろそろ、かっこいいものの方が好きになる年頃なのかねぇ、と肩を竦める孫に、あぁ、こいつは根っからの阿呆なのだとイタクは思わずにはいられなかった。つまりなんだ、これまであの子ども相手なら泣き落としで我が儘を貫き通してきたとそういうことなのか。今後の有り様を想像し思わず遠い目をしながら、なんて奴を迎えることになったんだと溜息を吐いた。こんな男が魑魅魍魎の主になるなど、乾いた笑いしか出てこない。奴良組も先が思いやられると密かに鼻を鳴らして、いいから時間が無いんだ、さっさと爺様に挨拶して来いと孫を追い払った。
 ぬらりひょんの孫と言うように確かに妖怪としては、それなりの力を秘めているのだろう。しかし、如何せん力も何もない人間の子どもに執着し過ぎである。……これでは豚に真珠、猫に小判も良いところ、一生懸けたってこれほどの妖力を得られらない者が世の中には数多といると言うのに、実際手にしている者と言えば腑抜けなのだから天も随分と意地が悪いと言える。

 全く以て呆れた話だ、と笑い話にもならないようなことを考えながら孫のいない間、せっかく奴良組を訪れたのだし少しくらい見学させてもらうかとイタクは奥へと歩みを進めた。先程から見て回っている屋敷は、馬鹿でかいくせに鍛錬する場は一つも見当たらない、相変わらず遠野の者としては思わず首を傾げたくなる構造である。確かに孫を遠野に送り込むだけの必要性はあるな、と勝手な見解に一つ頷いて、あの甘っちょろい孫の姿を思い出した。果たして無事に生きて帰られるのか。
 遠野は決して甘くはない。中途半端な戯れ言をほざく子どもに生きて出られる保証など有りはしない。爺様も随分と思い切ったことを為さることだ、とイタクは肩を竦めた。奴良組の若頭は代々遠野へと修行に来ていることは聞いていたが、あの孫では……と思ったところではて、とイタクは疑問を浮かべる。そういえば昔、遠野の長、赤河童様は毎度やって来るこの組の者たちについて何か言ってやしなかっただろうか――初代も二代目もぶらっとやって来ては片っ端からこの遠野の……。思い出せそうで思い出せない記憶に何度か顎を擦り、過去の出来事を辿ってみせるが、ふとその思考は打ち切られ、足を止めることとなった。――聞こえたのだ。どこかで子どもの泣く声が。

 それは聴覚に優れた妖怪の自分だったから気が付いたとも言える小さな小さな咽び声で、イタクの足は自然とその声へと向かっていった。子どもの声と言えば、この屋敷に多くいる悪戯好きの小物妖怪と考えられるが泣くまでに至るなど、先程走り去っていったあの人間しかいないはず。……広い敷地にとうとう迷ってしまったのだろうか、と思ったイタクも、普段からその子どもが毎日、孫と共にこの屋敷で遊び回っていることを知らないのだから致し方ないことであろう。ついでに迷い込んでそこにいるのではなく、敢えて子どもがそこに飛び込んだ、ということを知らぬのも同じことだ。どちらにしろ、あまり怯えさせないようにと出来る限り足音を小さくして近付いたイタクが、物陰で独り声を殺して咽び泣いている子どもの姿を見つけたことには間違いないのである。思わず声を掛けようかと思ってイタクは口を開くが、それも子どもの紡ぐ孫の名前の前で閉じてしまった。前々から自分は心情の機微に疎いと思っていたが、いくらなんでもこれは分かる……先程のあの勝ち気な態度に騙されたようなもの、よくもまぁ、あの歳であれだけの演技が出来たもんだと呆れのような、賞賛のような心地を胸に抱きながら、子どもの涙する姿から目が離せないのは何故か強く惹き付けられるせいだ。あれほどまでの強かさを見せられ、その裏ではつつけば崩れてしまうだろう脆さでうち震えている。他人には決して見せないであろう弱々しい人間本来の様子が不思議とイタクの目に焼き付いた。

 

「――盗るなよ? イタク」
「……ッッ…!!」

 完全なる不覚だった。突然、声のした方へと口惜しくもちらりと目をやれば、いつの間に隣に居たのか、ゆったりと壁に凭れ腕を組みながら、にやにやと意地の悪い顔をする孫がいた。音や気配は欠片もなかったのに、とイタクはギリリと唇を噛んだが、それよりもその表情と態度が気になった。目の前であれだけすがりついた相手が今更とは言え、物陰で泣いているというのに、孫は慰めるどころか自分と同じ場所で興でも観てるかのようにしたり顔で笑っている。その姿には心配や焦りといったものは一切感じられない。……言うなれば、そう、まるで全てが予想通りに事が運んだと安堵すらしているようなもので……そこまで考え付いて、ふとある考えが浮かび上がってしまった。

「……もしかしてお前、分かって、あぁしたのか…?」

 この結末を見越した上で――自分が駄々をこねれば、あの子どもの方から離れ、されどその裏でこうして涙を零すと分かっていて、あんな泣き真似事をしたのか、と。子どもは泣いている……離れるのはいやだと、逃げてごめんと、本当は自分だって一緒にいたかったのだと。それは子どもにとっての後悔であり罪悪だからだ。そしてそうやって引き留める相手を振りほどく罪悪のような後悔は、再会の約束さえ結べなかった寂しさは、恐らく何よりも子どもの心にしっかりと根付き、身を縛るのだろう。
 離れるのはたった数年、されど数年。人の子の数年は妖怪の自分たちが思う以上に長く遠い先の未来の話だ。夢幻のような妖怪の自分たちのことを忘れることなど容易なのである。……今の歳から数年後となれば尚更だ。人は人の領分しか見えなくなり、妖怪などは信じなくなる。けれども、そうやって忘却を繰り返す中で、取り返しの付かない後悔を、身を切るような罪悪を人が何年も抱え込むこともまた事実なのである。もし、この孫があの子どもに自分を忘れることを決して赦さないための行為としてやっていたのならば……。

「――さぁて、なんのことやら」

 初めて聞いた、とでも言うように、きょとん、とした顔で目を瞬かせ、かと思えばにやりと唇を引き上げ嗤いを洩らす。まさに食えない相手。年相応に離れたくないと泣きついてみたり、何も考えていないような顔をしたりする一方で、虎視眈々と獲物を狙う様を見せたりして、ぬらりくらりと様子を変えてはどれが真実なのか掴ませず、惑う合間にすり抜けていく。本当に厄介な者を引き取ることになったと、改めて溜息を吐くが、そんな孫と言えばにやりと笑って言ってくれた。

「なぁ、イタク。オレは遠野の誰よりも強くなってここに帰って来るぜ? もちろん、お前よりも、だ」
「……ハッ、お前がオレを超えるだと? 笑わせてくれる」
「あぁ、超えてみせるさ」

 何てったって、あいつはもう可愛い姿には靡いちゃくれねぇ年頃のようだし、それなら誰よりも強くてかっこいい魑魅魍魎の主になるっきゃねぇだろ? ふふん、と鼻歌でも歌いそうな勢いでそんなことを口にする孫に、イタクは前言撤回する。……あぁ、こいつはやはりただの阿呆なのだ、とそう思うことにした。

(狼さんと強がりな子羊)