最終話

きっと父王の剣に背を向けたときから。この勝敗は決まっていたのだろう。
「終わったねぇ…王様……」
地に倒れ伏したままアーデンは薄笑いを浮かべると、近付いてきた男に嫌みたらしく問いかけた。
「……シガイを排除して…平和な世界を作るのか…?」
ぽたりぽたりと雨が降り始める。冷たくも柔らかな雨粒がふたりの男を打ち付ける。
「俺をまた…歴史から消し去って……」
ぽたりと雫が男の目の中へと滴り落ちた。それはすぐに男の瞳から溢れ出し、眦からこめかみへと伝い落ちていく。……幾つもの、幾つもの雫がアーデンの頬へと溢れ落ちる。まるで涙も、哀しみも、泣くことさえ忘れた男を代弁するかのように。その雫が本物だと気付かせないように。
傍らで男が膝をついた。そしてそのままアーデンの顔を覗き込む。……だが、その姿をわらいはしなかった。アーデンの言葉を否定することも。ただ穏やかに男は……真の王は口にする。
「──でも、今度は眠れるだろ」
あの日以来……深い眠りから覚めて以来、真の眠りに就けなくなった男へ王が引導を渡す。
「…目を閉じろ、……もう目は覚まさねぇよ」
その言葉に。アーデンは鼻でわらってやった。もう目は覚まさない。なら夢も見ないだろうか。あの優しい夢も。懐かしい幻想も。
「……ハッ」
あぁ、胸が痛いな。アーデンはふとそんなことを思う。王に刺された胸が痛い。そんなことを思いながら目を閉じる。父王の剣に貫かれたこの胸が痛くて仕方ないと。
アーデンは力無く息を吐いた。
一体、何が違っていたのだろうかと。
真の王が持っていて、アーデンには無かったもの。
どんなにコピーをしても、手に入れられなかったもの。
父王の剣。王家に伝わる一振りの剣。
……この剣はそんなに貴重な剣だっただろうか。そんなにも力のある剣だっただろうか。
そんなことを考えて、いいや違うなと思いつく。
どんな厳かな名が付こうとも、多少力が宿ろうとも、あれはただの剣だ。異母弟でさえそれを用いても己を殺せなかった、ただの剣。ならば何が違うのか。そう考えを巡らせてひとつの答えに辿り着く。
あぁそうか、覚悟か、と。
この剣は覚悟の証だ。国を継ぐ王としての、国に全てを捧げる者としての覚悟の証。
アーデンはそれに一度背を向けた。無意識とは言え、夢の中とは言え、手に取ることをしなかった。
だが、目の前の王は違う。この剣を求め、受け取り、最後まで手離すことはしなかった。無知で愚かで、戸惑い、怖じ気づくだけだった青年はいつの間にかアーデンの先を進んでいて、王としての覚悟を決めていた。時を超え、形を変え、想いを乗せ、ルシス・チェラムの血と共に男の元へと渡った剣を手にして。
ならば。ならば仕方ないか。アーデンはそう思う。
男は覚悟した。民を、国を、星を守ることを。自らを犠牲にしてでも誰かの幸せを願うことを。アーデンには出来なかったそれを。ならば、ならば仕方がないだろう。……自分の負けだ。アーデンは弛く長い吐息を溢す。
「先に逝って、待ってるよ……」
このくらいの意地悪は許されるだろうと。嗚呼、神とは、運命とは、なんと皮肉なものだろうと。アーデンはゆるりとわらう。
本当に滑稽な話だ。異母弟と似た顔をして、自分と同じ理想を掲げる王様だなんて。しかしどちらとも違う道を往く夜の光、ノクト・ルシス・チェラムよ。
かの者が自分を再び歴史から消し去ってでも、シガイを排除し、平和な世界を作るというのなら。闇の王となった自分にもう二度と目覚めない眠りを赦すと言うのなら。ならば俺はそれに賭けてみようじゃないか。
消えゆく思考の中で、アーデンはいつか夢の世界で放った白い鳥のことを思い出す。お遊びと言いながら叶うことを夢見たあの願いを。あの想いを。
そう……それは別に自分で叶えなくてもいいのだ。いつか誰かが叶えてくれるならそれで。目の前の王様が叶えてくれるのなら、それこそ願ったり叶ったりというものではないか。だから、ほら。もう時間だ。
アーデンの体が光の粒子となり消えていく。闇に堕ちた者に遺せるものなど有りはしないから。だからアーデン・イズニアはノクティス・ルシス・チェラムに託すのだ。願わくば──と。

 

 

 

 

 

 

誰もが自分の死を願う中で、眠りにも就けず、生かされ続けたその意味とは何だったのか。罰としてなのか、手に負えなくなったからなのか。そんなことを時折、考えることもあった。
『アーデン』
仄暗い世界を歩いていたアーデンの前に、どこからともなくカーバンクルの姿が現れる。白い毛並みは相も変わらずで、額に赤い石を持つちいさな神様はアーデンに向かってキュウと鳴いた。
『また眠っちゃったの?』
『なら また遊ぼうよ』
『冒険して 夢のゴールを一緒に探そう』
そう言って首を傾げるカーバンクルに、羊皮紙もないのに案外分かるものだなぁ、と男は妙に感心した。そして、自分が二千年もの間、生かされ続けていた理由をようやく知る。
あぁ、君だったんだね…。アーデンはぽつりと口にした。二千年もの時を生きたのは罰でも、手に負えなくなったからでもない。これはチャンスだったのだ。アーデンはそう気付く。生き直すためにちいさな神様が与えたチャンスだったのだと。
「…もう遊べないんだよ」
男はちいさく笑う。哀しげに、寂しげに。笑いながら思う。
──きっと。夢の世界を冒険して、ゴールを見つけて。深い眠りから目覚めて、傷を癒して。感情を思い出し、そうしてまたスタートを切り直せば。アーデンがそうカーバンクルに望めば。再びやり直すことは出来るのだろう。神様の手にかかれば、死の淵を彷徨っていたあの時のように息を吹き返し、現実世界に戻ることも出来るはずだ。
……しかし、アーデンはそれを望まなかった。もう二度と目覚めないことを選び取ったから。もう十分に生きたから。だから。
「……君を呼んだのはお別れを言うためなんだよ」
もしかしたら。神様は己を犠牲にして民を救い続けたにも関わらず、深い眠りへと落ちなければならなかった男を不憫に思ったのかもしれない。そして再び歴史から消され、ひとり眠りに落ちることを哀れんだのだろう。……優しい神様のことだ。有り得ない話じゃない。
でも、もうそんな心配はしなくていいのだとアーデンはわらう。自分はもう見つけたからと。だから心配は要らないのだと。
「俺は逝かなきゃならないから」
そう言えば、カーバンクルはキュウと鳴いた。
『またひとりになっちゃうの…アーデン?』
そう心配そうに訊く生き物にアーデンは弛く首を振る。
「ううん。残念ながら今度はひとりじゃないんだなぁ、これが」
そう口に出して苦笑する。迎えに行く者の顔を思い出して。出会った瞬間の、嫌そうに顔を歪めるところを想像して。そんなアーデンを見てか、カーバンクルが不思議そうに訊ねた。
『それは残念なことなの?』
「どうだろ…言うほど残念じゃないのかもね」
迎えにいってみないと、こればっかりは。そう言って、アーデンは徐に己のかぶっていた帽子を取り上げると、カーバンクルの頭へとそっと乗せた。
「…ありがとね」
ありがとう。心配してくれて。優しさを分け与えてくれて。生きるチャンスをくれて。傍に寄り添ってくれて。
アーデンの言葉を皮切りに腕に付けていた黒い羽根がぶわりとほどけ、宙を舞い、ふたりを撫でて消えていく。ふわり、ふわり。夢の世界で借りっぱなしだったものが神様の元へと返っていく。
──もう夢は見ないから。……目覚めることも。
『そっか… キミはもうひとりじゃないんだね』
カーバンクルが納得したように頷いた。ならボクの出番は無さそうだ、と。
「うん、………あぁ、でもそうだ。これだけは貰っていくよ」
そう言ってアーデンは一本の傘を掲げる。最初の森の世界で与えられた、あの黒い傘を。
『──傘? どうして?』
「世の中には雨の日でも傘を差し忘れる人間がいるからね」
全く、どうしようもないもないだろう? とアーデンは肩を竦める。それに合わせてカーバンクルもキュイと鳴いた。
『雨 降るかなぁ?』
「降るよ。だから差してあげないと」
俯くその顔が見えないように。その目から落ちる涙が見えないように。そうやって自分が傘を差してあげるから。聞かないふりをして、見ないふりをしてあげるから。だから、とアーデンは思う。どこかの馬鹿な大人のように声を押し殺して泣かなければいいと。子どものように、癇癪を起こした幼子のようにたくさんたくさん我慢した願いを口にして声を上げて泣くといいのに、と。
「──俺が輪廻を狂わせちゃったからね…」
それくらいはしてあげないと。そう言って男は悠々と笑みを湛え、傘を広げると、じゃあねとカーバンクルに背を向けた。
それに応えるよう、カーバンクルもキュウと鳴いた。

──それが最後だった。男とカーバンクルの優しい夢は。

 

 

 

 

いつか耳にした彼の言葉を思い出す。

これはカーバンクルというんです。
これが貴方を守ってくれますよ。

イズニア、俺はもう大丈夫だよ。アーデンはそっと唇を弧にする。
だから君の名を今、還す──。
 

 

静かに、どこからともなくジールの花弁が降り注ぐ。輪廻の輪へと戻れなくなった彼らを見送るように。その姿をかなしむように。ただ、ただ。

 

グッバイ イズニア(了)