SS (Vassalord.)

昨今の女性はとてもタフだ。終わりの見えない、実に不本意な鬼ごっこの中、クリスはそう思う。有名税とは誰が言ったのか。足を止めないままうんざりしたように溜息を吐いた。熱心なファンがいるとは聞いていた。だが本気にはしていなかった。ついこの前まで神を一心に盲信する信者の一人でしかなかったのだ。それがどうして少し形を整えて世に顔を出したらこんなことになる。待って、クリストファー!という声に頭が痛くなった。いわゆる出待ちというものだったのだろう。家の近くだからと油断した。彼女達の気が済むならと握手をしてサインをして、それで終わりだと思った三十分前の自分が恨めしい。撒こうにも彼女達にも土地勘があるのか、事前の下調べが功を奏しているのか、一つ奥まった道に逃れても数分すれば見つかってしまう。いっそコウモリとなって逃げようか。そう考えもしたが同じヴァンパイアであるレイフロと違い、クリスの衣服は力で作ったものではなく布製だ。変化すれば中の人間だけがもぬけの殻の不気味な衣類として残ってしまう。後々、噂になったら更に面倒だ。彼女達がそれを見つけてしまうことも含め、最終手段にしておきたい。とは言え、下手に裏道や店に入ることも躊躇われた。時刻は既に深夜だ。クリスはともかく、後を追ってきた彼女達が何か事件に巻き込まれては堪らない。結局、クリスは足早に、複雑で安全なルートを辿って彼女達を撒くしかないのだ。
(…いい加減、)
そう遠くない場所でクリストファーを呼ぶ声は未だ消えない。だんだんしつこい追跡にクリスの苛立ちも増していく。空腹を思い出したせいかもしれない。数週間詰めに詰めた撮影が終わり、ようやく久しぶりの休暇を迎えるところだったのだ。本来ならば今頃、アパートに戻ってレイフロと時間をかけ、睦み合いながら食事を堪能していただろうに。
(そういえば連絡をしていないな…、)
まさかこんなハプニングに襲われていようとは彼も露にも思っていないだろう。この追いかけっこがいつ終わるのか、いつ帰れるのか。全く検討もつかず途方に暮れたように空を見上げたその時、思わぬ方向から力強く腕が引かれた。
「……っ!? …な………っ!」
たたらを踏むどころか、力のまま引っ張り込まれる先。薄暗い路地裏。大きな影。広がる黒い布。人攫いかと思わず隠しナイフを開いて腰を落とす。も、それは攻撃に転じる前に、音を立てて滑り落ちた。
「──Hi,CHERRY?」
「……! マス、タ、…ァ……ッ!?」
広がった布が二人を覆うようにかぶさる。隙間から覗いたのは、アパートに居るはずのレイフロの顔で。何故ここに。どうして。…驚きに声も出せず、目を見開いたのも束の間、レイフロは布ごとクリスを抱き留めるとその唇へ深く口付けた。
「んっ、…ふ、…ッ、ぁ…」
弾力のある感触。熱い温度。開けろとばかりに唇を舐められ、反射的におずおずと開いた先で舌が絡めとられる。
「ん、…、んぅ…っ…」
「…クリス、ちゃんと息をしろ」
クスクスと可笑しそうに笑い、口付ける。熱く、厚く、ぬるぬると。なのに腹の底から生まれるぞくぞくとした震えは未だ慣れず。これは苦手だと言ってるのに。それでもレイフロはやめてくれない。毎度クリスを慣らすかのように、じっくりと根気よく、丁寧に。けれど容赦なく与え続ける。何かを開かせるように。覚えさせるかのように。クリスに教え込む。
「イイ子だ、クリス。イイ子だな──あぁ、そうだった。仕事、頑張ったご褒美もやらないとな」
「っ、……?」
ふと思い出したかのようにレイフロのスプリットタンが、クリスの犬歯をなぞる。そうすれば人並みだったそれが疼くように鋭く伸び、尖って。その先へ、レイフロは躊躇いもなく舌を伸ばすとわざと引っ掻き、傷を付けた。そうすればそこからぷくりと血の雫が盛り上がり。思い出した数週間分の飢えに、ごくりとクリスの喉が鳴る。
「さぁ、どうぞ召し上がれ?」
別にそこからでなくても良いと分かっているのに。誘蛾灯に誘われる蛾のようにクリスは口付ける。自分から舌を擦り付け、溢れる血を一滴も逃さぬよう舐めて、吸い取る。それが端から見ればどういうものか考えもせず。クツクツとレイフロが喉奥で嗤う。
知らず深くなる口付け。絡まり合う舌。口の中を舐められる度に甘い痺れが走り、意識がぼぅとする。
「…ハっ、……、ん、…ンぅ…」
堪らずレイフロの肩にしがみつく。それに応えるようレイフロが強く抱き寄せた。その時だった。
「あの、すみません…………、」
突如掛けられる女性の声。びくん、とクリスの身体が跳ねる。一瞬で冷や水を浴びた心地となった。それを宥めるようにレイフロは口付けを解くと、クリスの額にキスをし抱き寄せたまま頭を撫で、ちらりと声の主を一瞥する。
「──悪いね、お嬢さん。ようやく初心で可愛い恥ずかしがり屋なチェリーボーイを落としたところなんだ。今は怒らせたくなくてね」
そう言うとレイフロは布でクリスの顔を隠しながらこめかみへと口付けし、わらった。口許だけで。ヴァンパイアらしく残忍な目をして。
「邪魔をされたくないんだ──道案内なら他を当たってくれ」
わらってない目。言い様のない気迫。それに、何かを感じ取ったのか。女性らしき人物は恐ろしいものでも見たかのように小さく悲鳴を上げるとパタパタと音を立てて立ち去っていく。路地裏は再び静寂を取り戻した。
「……マスター」
「なんだ? 嘘は言ってないだろ。それともあのお嬢ちゃんと一緒にパーティーでもしたかったか?」
「………そちらではありません。混ぜましたね、精気」
「あーあ、可愛くないクリスに戻っちまったか」
「マスター……!」
「怒るなよ。あれくらい酔ってないとお前びっくりして飛び出してただろ? さすがにこっちのゴシップは手痛いんじゃないか?」
すり、とレイフロの足がクリスの脚を撫で割る。反応しきったそこを。艶かしく煽るように。いたぶるように。クリスは顔を真っ赤にすると額に手を当て、深く深く溜息を吐いた。
「……っ、最悪です」
「そうか~? 俺は最高の気分だけどな」
レイフロはクスクスとわらいクリスの口端を舐めると、にやりと唇を弧にした。
「お仕事頑張ったクリス君、おかえり。それからお疲れさん。……さて風呂と食事と俺、どれからにする?」
余裕にわらう男の唇に噛みつく。休暇はまだ始まったばかりだ。