獣は花の夢を見るかパロ 陸

 大都会のある場所にその屋敷はひっそりと佇んでいた。アスファルトと壮大な高層ビルに占められた、この街の中には似つかわしくない土と草木の香りを纏う純日本建築。門先には青い炎が揺らめき、屋敷の中には何故か一年中、枯れることなく淡い薄紅色の花弁を散らし続ける大きなしだれ桜が咲き誇る――決して徒人には入り込めない影の中にその屋敷は存在していた。その屋敷に美しき妖たちが棲むという。一時の夢を与え、幻を魅せる男たちが。
 その男たちの集う屋敷を、男たちは、妖たちはこう呼んだ……奴良組、と。

 

 

「…んっ、…ふ……ッ」

 玄関に響く少女のように高い声。震えながらも爪先立ちとなった昼は夜の背へとしがみつくように細い腕を回し、深い口付けを享受していた。膝から力が抜けそうになるのを、ずるずると崩れ落ちそうになるのを必死に堪えて、伸ばされた舌にただただ自分のそれを絡みつける。そこに何か考えがあるわけではない。男に求められたから、気持ちいいから続けるだけで……一つの意思無き反射の如く昼は唇を触れ合わせる。とは言っても、つい先日まで欠片も知らなかったその行為はそう容易く上達するはずもなく、拙い動きは相変わらず呼吸の合間を掴みきれないでいた。そんな苦しさを見てとってか、離される唇、そして代わりとばかりに首筋に掠める吐息。

「ぁ…、よ…る……よ…、っ」

 くすぐったさとくらりとした頭のままで、思わず惑った子どものように何度も名前を口にし、しがみついていた指にぎゅっと力を込めれば、ぴたりと夜の動きが止まった。え……? と昼も同じく動きを止めると、夜はハッと我に返ったように昼の細い肩を掴み、ばっ、と音が立つ程に寄り添っていた体を力任せに引き離す。当然、昼は驚き、焦った。

「…っ、……よる…?」
「――戸締り、忘れるなよ、昼」
「よ、……夜っ?」

 玄関から出て行こうとする夜を呼び止めようと名前を呼べば、背を向けていた男はくるりと昼の方を振り返り、紅い眼でじとりと見据えた。なんだ、何か他に用でもあるのか、とその目は問い掛けるが、ひやりと肝の冷える目に、手のひらを返したようにがらりと変わってしまった夜の雰囲気に、喉元までせり上がった昼の言葉は凍りついてしまった。反射的に得も言えぬ恐ろしさ故、昼は必死に強張った笑みを浮かべて何も無いとばかりにふるりと頭を振る。それにそうか、と夜は一つ呟くとバタンと扉の音を立てて仕事へと出掛けて行ってしまった。その後ろ姿を何も言えず見送り、そうして足音が完全に消えたところで昼はどうして、と声を出さず唇だけを動かした。

 どうして――どうして夜は自分の体を抱いてくれないのだろう……。本人を目の前にして聞けるはずもない問い掛けを自問自答し続ける。夜が昼に触れたのは一度だけ。……夜に拾われたあの日の一度きりだけだった。キスはしてくれるが、それ以上は決して触れてこない。触れようとしてもそのような空気はさっきのような冷やかさで霧散する。やはり義父に抱かれていた自分が気持ち悪いのかもしれない……。それとも一回で飽きた、のか。所詮、気まぐれで拾われた捨て猫。ペット同然の身だ。何人もの女の人というものを知っている夜にとっては酷くつまらない体でしかなのだろう。昼は小さく唇を噛む。だって、夜は、夜は――…。

 

 

 屋敷の中に入るや否や、ふわふわと浮いて近付いて来た頭が夜の顔へと重なった。……言わずもがな、首無の頭である。胴体放って何やってんだ、と個人的な苛立ちもあってか文句の一つでも言いたくなったのだが、その頭の浮かべるいつも通りの人の良さそうなにこにことした柔らかい笑みに口を噤んだ。とは言っても、首無は何分男である。そんな男の、それも頭だけが自分の顔に迫られるなど同じ妖怪だとしても断りたいところ。なのに何を思ったのか首無は挨拶も早々にくん、と犬のように鼻を動かした。一体何なんだ、とつっこむより早く、ひくりと夜の頬は引き攣る。

「………おい、首無」
「おやまぁ、いやらしいですねぇ、夜若さま。今宵もまた、昼若さまの香りをつけていらっしゃるとは」
「お前な……とりあえず言いたいことは山ほどあるがまずは気色悪いから、今すぐ離れろ」
「気色が悪いとはちょっと酷くありません?」

 これから仕事って時に、いかにも誰かとしてきましたー感丸出しの方に言われたくありませんよ? と少し小言口調の言葉にはぁ、と夜は溜息を吐いた。急に突っかかってきたかと思えば一体どんな邪推と誤解をしているのか。そのまま誤解させておこうか、と一瞬考えるもすぐさま否定の道を選ぶことにする。……勘違いから来る小言とくれば話は別だ。というより否定しておかねばそれ以上の面倒事が増える気がしたからだ。そもそもこの男は自分を何だと思っているのか。未だ離れない首無の頭を自分の手で押しのけながら、夜は頭痛を和らげるようにこめかみを押さえた。

「……てねぇよ」
「はい?」
「だから…………」

 ヤッてねぇよ! とそう呟いた瞬間の驚きに目を瞠った首無の顔。それから、……ということは、それでは昼若さま二人きりの生活だというのに貴方は一切手を出して無いと――!! と叫ぶ声。わざとだ、この男、絶対わざとに決まってる……。そう夜はびきりと青筋を立てた。――その驚愕、と言った顔はともかくとして、下手をすれば隣の座敷まで聞こえるであろう馬鹿でかい声、これをわざとと言わざるして何と言うのか。その証拠に、くつろぎ談笑していた何人もの組の者たちはぴたりと話を止めてまたやってる、と苦笑するやら興味深げに様子を眺め始めたりするやら。こいつ……、と堪らずふわふわと浮く首無の頭をがっちりと両手で捕まえ、同じくらい大きい怒鳴り声を上げやった。

「首無――ッ!! てめぇ、嫌がらせも程々にしとけよ!? 声でけぇんだよ!」
「嫌がらせだなんて、そんな。それよりも何故、手をお出しにならないんです? あの方なら大人しいから何でも言うこと聞いてくださるでしょうに」

 にこにこと浮かべる笑みは柔らかいままであるが、こういう時、夜は首無を食えない男だと思う。内、外共に誰もが認める優男ではあるが、こうして時にはその考えも言葉の選び方も実に残酷で明け透けのない欲そのままの妖怪のものになる。調子が狂うとばかりにがりがりと頭を掻いて、夜はチッと舌打ちをした。

「……大人しかろうがなんだろうが、それでヤッていい理由にはなんねぇだろうが」
「おやおや、夜若さまとしたことが、どうしたんです? 色気駄々漏れの方でも患ったりするんですか?」
「何の話だ……」
「昔から言いますでしょう? ――『お医者様でも草津の湯でも』と」
「………………」

 大事になさってるんですねぇ、と明らかに何かを含めた物言いとにっこりと笑う顔に、お前な……と夜はもう一度溜息を吐いた。こういうのは、何言ったって聞かないどころか、言ったら言ったで足元を掬うかの如く下世話な方へ、しかも己の良い方へ解釈したがる。もう勝手に誤解してろ、と夜が半ば投げやりに口にすれば、首無はそれはそれは良い笑顔で、では勝手に誤解させてもらいますね、なんて返し、仕事の前だと言うのにどっと疲れが押し寄せる気がした。相手してられるか、と首無を振り切ってさっさと奥へ進もうとするのだが、その足はばさりと着物を捌く音に止まることとなる。なんだと視線を送れば、部屋の隅で機嫌の悪そうな顔をして立ち上がる鴆の姿があった。遠くからでも分かるほど、ぴりぴりとした気を纏う鴆に、首無は変わらず笑んだままどうかなさいましたか、鴆さま? と無い首を傾げ問い掛けるが、鴆はくるりと踵を返して夜たちの居る出入りとは反対側の出入り口へと足を向けた。

「―――くだらん」

 そう一言を言い残して。鴆はさっさと座敷から出ていく。機嫌が悪そうに見えども決して足音一つさせないのは、果たして鴆と言う鳥妖怪の為せる業か。

「このところ、鴆さまも機嫌の悪いことで」

 どうしたんでしょうねぇ、と首無はあくまで白々しく嘯いて、夜の方へと視線を投げた。『このところ』なんて分かりきっているだろうに――夜が昼を拾ったあの日、鴆にしてみれば初めて昼とまみえたあの日以来、苛立ちを見せていることなど、あの日居合わせた者なら誰だって気付いているだろう。夜でさえ感じるほどあからさまな不機嫌さは、しかしオレに聞くな、と肩を竦めることしか出来なかった。

 

 

 

 休みであり、珍しく体調も優れていた上、幾つか片付けなければならない用もあることから、夜とはまた違った昼間の騒がしい街の中へと足を運んだ。故に、あの子どもを見かけたのは偶然だった。学校の帰りなのか制服を身に付けた姿の子どもは、ふとその歩みを止めて前にある手芸店の看板を見上げると、少し逡巡してから、しかし何かを決めたように中へと入って行った。子どもとは言えど少年、何の用があるのかとなんとはなしに気になった。妖怪と言うのは本当に気まぐれな生き物なのである。興味本位で行動することなど良くあることだし、逆にどんなに興味を持っていようと瞬き一つで飽きることだってある。それまで人には見えぬよう完全に抑えていた妖気を少しだけ緩め――少し勘の良い人間くらいならば知覚出来るだろう強さへと調節すると、鴆は子どもの入っていたその手芸店へと音もなく進んで行った。

 小さな店の中へと入れば何やら子どもが上の棚に積んである毛糸を取ろうと必死に背伸びしている。やはり、小さいなと鴆は思った。以前見た時も思っていたが、人間の男と言うのは大体に成長が遅いものだと知っているも、それを引いてもこの子どもはその辺にいる同年代より明らかに小さいし、痩せていると思われる。その原因が養父の虐待ということを思い出しはしたが、そこに生まれるのはどちらかと言えば同情よりも興味であった。鴆はそっと子どもの背後へと近付くと、おそらく子どもの取りたい色であろう毛糸へと手を伸ばして取ってやる。

「――ほらよ」
「……ぁ、…ありがとう、ござい、」
「よぉ」

 手にしたものをすっ、と目の前に差し出してやると子どもは驚いたように目を丸くし毛糸と、それからその手を辿った先の鴆の顔を見つめ、固まった。どうやら視線が合うことから、やはり勘は良いらしく、記憶力も悪くないようだ。まぁそれもそうだ。勘が良くなければあの日この子どもは自分たちを捕まえてなどいない。子どもとしてみれば、まさかこんなところで会うと思ってもみなかったのだろう。どうしてこんなところに……? と不審そうな、信じられないと言ったような顔付きで、しかし礼儀は心得ているのか、詰まりながらもこんにちはと挨拶した。

「……あの」
「あぁ…、言っておくが、オレの姿が見えんのは勘が良い奴だけだ。ここで言うならお前だけ。周りに変な目で見られたくなけりゃ、その挙動不審な様は止めとくんだな」

 きょろきょろと周囲を確認する子どもに釘を刺し、で、お前はここで何をしてんだ、と尋ねる。すると子どもは途端、頬に朱を走らせ毛糸を抱いたまま俯いた。寒くなるから、夜に何か……。小さくそう言って恥ずかしそうにぎゅっと毛糸を握る子どもに、なるほどなぁ、と鴆は嗤った。

「――手編みのを、ねぇ」
「………ッッ…」

 より一層赤くなり押し黙る子どもの顔を見て、鴆は胸の内にどろりと黒い何かで埋まっていくのを感じた。……くだらねぇ。まるで恋に恋でもしているような子どもの姿は、鴆の内側にある何かを引っ掻き回し、嫌な気分にさせる。鴆はチッと一つ舌打ちをし、背を向けた。

「ほら、行くぞ」
「……え……!?」
「飯だ。付き合え」
「…っ…で、でも、僕、夜のご飯……」

 用意しないといけないから、となかなか是と頷かない子どもに、ならば断れ、と鴆は自らのケータイを渡した。年端もいかぬ子どもではあるまいし、この子どもが居ない時からどうにかしているのだ。一食くらい子どもが用意せずともリクオはそちらでどうにかする。リクオへの番号を表示したケータイを出せば、子どもは恐る恐る受け取り、発信ボタンを押す。すぐにリクオは出たようで、子どもはの肩がぴくりと跳ねた。

「あの…夜? ……っ、――その、帰りに偶然、会って……でね、」

 リクオの話す内容は聞き取れずとも、びくびくと怯えた子どもの顔と途切れ途切れとなる言葉に、大して長くもない気はすぐに呆れを見せる。大方、リクオの奴が疑心の声でも上げているのだろう……。何故、子どもが鴆の電話で話しているのか、と。
 相変わらず滑稽なこった、と鴆は柳眉を寄せて、貸せ、と子どもの手からケータイを取り上げた。……でないと、いつまで経っても埒が明かない。

「リクオか? オレが夕食に誘ったんだ。しばらく、この子ども借りるからな」
『…おいっ? 鴆…! ちょっと待て! お前ッ……!』

 なるほど、これだけ喚けば、子どもも委縮するはずだ、と鴆は小さく肩を竦め、そのままリクオの声に応えることなく通話を切った。全く、子どもと揃って気分を降下させる。リクオという男は何に関してもこちらが腹を立てるほど余裕を掲げ、泰然とし、ぬらりくらりと他人を丸め込み、傍らを擦り抜けては自分の思い通りに事を運んでいた。それが今となってはこの様である。

「勝手にしろ、とよ」

 腹立ち紛れに教えてやった偽りの言葉に、子どもはやっぱり、とでも言うように俯いた。くしゃり、と抱えた毛糸が僅かに歪む。おい、と声を掛けようとするが、その言葉はふいに鼻先を掠めた甘やかな匂いに気取られ、消えてしまった。

 花のような果実のような、甘く優しい、されど張りのある瑞々しい香り。どこから、と眉を顰めるが、考えずとも香りを発するモノなど周囲を見渡しても目の前の子どもしかおらず、疑わしくも他に可能性は無いと、鴆はついと子どもの首筋へと顔を近づけた。ふわり、とまた甘い匂いが生まれる。子どもと言えば突然のことに驚いて顔を上げ、え、なに……? と隠しきれず戸惑いを表すが、鴆は構うことなくお前……、と疑問を口にする。

「……香か何か付けてんのか? 甘い匂いがする」
「つ、付けてない……ッ、夜がそういうのは一切付けるなって言ったから……、」

 だから、離れてくださいとばかりにぎゅっと身を小さくする子どもに、悪かったと一言述べて離れてやる。不思議な匂い、以前首無が指摘したリクオに纏う香りの正体、か。しかしそれ以上に興味深げな言葉に鴆はふん、と鼻で哂った。……果たして無自覚なのか、敢えてなのか。

「――――…一切、ねぇ…」

 その意味をこの者たちは理解しているのか。