獣は花の夢を見るかパロ 肆

 一体、どれだけの時が過ぎ去ったのか……。闇夜に沈んだ街に雨が降る。それは一つ、二つと大きめの雨粒が落ちてきて、次第に数を増やし、いつしかさぁさぁと細く切れない糸のように続いて、しとどに昼の体を濡らした。結局、帰る場所も、逃げる場所もなかった。どこにも行き場を見つけられなくて、それでも最後に思いついたのは、夜と始めて出会ったあのドブ川の上に掛けられる橋の上だった。小さな段差に腰を下ろして、膝を抱えて小さく小さく体を縮込ませる。このままこの雨に溶け出してドブ川の水と混濁し、欠片も残さず消えてしまえたら良いのに……と。そんなくだらない願いを描いてみるものの、思いを叶えてくれる者など、ましてや昼を見咎める者さえ、そこにはいやしなかった。

 寒い、冷たい。まるで捨て猫だ、と昼は思った。拾われる宛てなど無い、路頭に迷うみすぼらしい猫のようだと。きゅっと体を丸める。脳裏に描くのはそんな哀れな猫を一時でも傍に置くことを許した夜のことだ。あまりにも優しいから勘違いをしてしまった。その優しさは自分だけなのだと、彼だけは酷いことは言わないだろうと、傲慢にもどこかでそう思い込んでいた。違うのに、そんなことないのに。

 彼は断罪する、この醜い体を。
 彼は優しさを売る、多額の報酬によって。

 養父に汚され暴かれた体が、養父に取り上げられ無一文である身が、こんなにもみじめで哀しく辛いことだなんて知らなかった。凍った心がようやく感じ取ったのが痛みと哀しみと苦しさなんて……。あぁ、こんなことならずっと人形のままでいれば良かった、とさえ思い始めた。そうすれば、こんな汚らわしい想いなんて抱くことがなかっただろうに。そうすれば、もう一度このドブ川へ躊躇なく飛び込めただろうに……。

 昼の中でその心を最も辛く苦しめ痛めつけるのは、自分の体を嘲られたことでも、その優しさが偽りであることでも……それこそ彼の本性が妖怪であったことでも無かった。夜のあの優しさを、あの口付ける感触を自分ではない誰かが知っているという事実。そのことが嫌で嫌でしょうがないのである。未練だと言っても良い。自分がこの冷たい雨に打たれている間にも、その知らない誰かは夜の温かな胸に抱かれている。そう考えただけで苦しくて、悔しくて、堪らなく心が締め付けられるのだ。

「よ、…る…っ…」

 溢れる涙はすぐに冷たくなって雨へと混じる。頬を濡らすものがもはや雨なのか涙なのか分からず、濡れた服も心を表すように重くぐしゃぐしゃだ。既に冷えきった肌も随分と感覚を無くしていて、もう夜の熱の心地さえ思い出すことが出来ず震えている。なのに、残像の如く残った幼子を宥めるように動く手のひらは熱を失えど鮮明にくしゃり、くしゃりと掻き撫でて、どうしてかとても心地が良い。可笑しいなぁ、と昼はのろのろと頭を上げる、まるで想いが現実になったようではないか、と哂いが零れた。暗い闇に沈んだ景色を目に馴染ませようと何度か目を瞬こうとしてふと、さぁさぁと鼓膜を震わせていた雨音が硬い何かに阻まれているような音がすることに気が付いた。雨は止んでない。けれど雨粒は自分を打ち叩かない。

「…ぇ、……?」
「…お前さん…捨て猫、かい?」
「………ぁ…、…」

 聞き覚えのある声に、まさかと思い視線を上げる。夜闇に浮かぶ白磁の上質な衣で仕立てられた着流しを少しだけ濡らし汚し、そして乱して、余裕が似合う空気は今、軽く息を弾ませ、こちらを言いようの無い貌で見つめるのは、紛れもない、昼がずっと想い描いていた男――…夜だった。その夜は自分が濡れるのも構わず、濃紅の番傘を握った片手を差し出し昼に傾けることで、硬質な雨音を響かせ、その冷たい雨粒を凌がせていた。
 そうしてもう片方は昼の頭に。夜気で冷たくなった手で優しく梳いて、濡れそぼる髪から雫を取り払う。茫然とその様を眺めていると、夜は困ったように、一方で嘲笑するように、美しいその顔を歪めた。

「……オレはな、何かを飼ったことも誰かに飼われたこともねぇ」
「…………」
「だから喩え飼うことは出来たとしても、碌な扱えはしてやれねぇだろうよ」
「……ん…、」
「それでも良いなら、……」

 長い指先が髪を滑って、ゆるりと頬を撫でる。睫毛に乗った雫を払い、柔らかく目尻を愛撫して、そっと羽が触れるように唇に触れる。じん、と再び熱が戻ってくる錯覚がした。

「昼、オレのとこへ来るかい……?」
「………え、」
「オレがお前を飼ってやるよ」

 一瞬、何を言われたのか考えが及び付かず、ただただその真摯な紅い眼差しを見つめ返すことしか出来なかった。どうする? そう瞳は尋ねているのに、伸ばされていた指が昼の唇から遠ざかろうとする。何かを口で返すより前に、昼はその手を遠ざけてはならないと思った。その手を見失えばきっと昼が答えを出す前に彼は二度と姿を現さなくなる。そんな気がしてならなかったのだ。反射的に伸びた手が夜の手を握る。かじかんだ感覚も力も無い手だったが、触れて掴んだその手を夜が振り払うことは無かった。それに少しだけ安心して、昼はゆっくりと口を開く。

「……よるが、僕を、飼ってくれるの……?」
「お前が望むなら、」
「そっかぁ……」

 その着物の乱れは、息の弾みは自分だけのためであると驕っても良いだろうか。向けられる優しさは決してお金のためではないのだと自惚れても良いのだろうか。いずれにせよ、嘘にせよ、真にせよ、昼の心は決まっていた。……夜が今、自分の目の前にいる。それが全てであり答えではないだろうか。ふわり、と笑みを浮かべ、昼は首を傾げる――じゃあ、僕を飼ってくれる? 僕を夜のものにしてくれる……? 
 そう口にした言葉の意味を、まだこの時全ったく以て理解していなかった。もちろん、そんな昼の貌に夜が紅い瞳を揺らす理由も。それでも、掴んでいた腕を掴み返されて、引っ張り上げられて抱き締められ、分け与えられるその熱を嬉しいと思ったのは真実なのである。

 

 

 

「若さとは良いものですねぇ。あのリクオさまもとうとう恋ですか」

 首無が楽しそうに口元を緩ませる一方で黒田坊などは、そうは言っても、互いに気付いてはおらんだろうに……、と苦々しく眉を寄せるなど、その反応は実に様々だ。ただし誰にでも当てはまるのが、でもまさか、あんな年端も行かぬ子どもとは、の一言である。――それも人間の子とは。そんな中、一人面白くなさそうにふん、と鼻を鳴らす男に首無はおやおや、と含み笑いを洩らした。

「若を取られて、そんなに面白くありませんか、鴆さま?」
「違ぇよ。あいつも随分堕ちたもんだなと思っただけだ」

 『誰とも寝ない』孤高の妖さまが、あんなガキ一人に振り回されるなんて情けないどころかくだらねぇよ、と。そうぼやく鴆にそう言えば、と首無は思い至る。何故、誰とも寝ないあの若さまはこの組の一番手で在り続けられるのだろうか、と。
 言うのもなんだが、若さまを除いてはそれなりに手練手管を用いて奉仕している者ばかりであるはずなのだが……。はて、どうしてでしょうね、と口には出してみるものの全員が全員渋い顔をする。まるで、そんなの自分の方が聞きたいと言った風の顔に、次いで二番手のお前が分からんことが自分たちに分かるはずもない、と言った空気になるものだから、首無も答えを求めるのを早々に諦めた。きっと彼と自分たちとの間には何か違う深く長い溝があるに違いない。まぁ、お客がイイと言うのだから、ここではそう特に問題ではないのだろうが。

「……まぁ、だけどよ、話を統合するに、リクオはあのガキの境遇に同情したってことだろ」
「境遇って……あぁ、父親の虐待ですか?」
「そうだ、…あいつはなぁ……」

 一家心中の生き残りなんだよ――そう言って、鴆は遠い過去を顧みるように目を細めた。実の母が父を手に掛けるところを目の当たりにしただけでなく、その切っ先が自分に向けられ、殺されかける。……その刃から逃れられたのは何てことはない、奴が母親を斬り殺したからだ。それからは女は当たり前、誰にも心を開かず、ただ贖罪のようにここで働いてるって訳だ。言うなれば本能に近いもんだな。ここで働いてんのは。それが奴の価値の一つでもあったが……、とそこで鴆は一旦言葉を止めた。

「鴆さま?」
「……あいつは、いつだってぬらりくらりとした態度で、誰一人懐へは入れさせなかった。喩え、義兄弟のオレでさえも、な」
「変わらないモノなど無いと言うことですかね」
「さぁてね……何事も変わり過ぎなきゃ良いもんだがな」

 何か予兆めいたことを呟く鴆に首無はくすりと笑みを零した。ここは何百、何千の時を生きる妖怪たちの集う場所。人と交らずにして久しい空間。なればこそ退屈を凌ごうと変化を求める者たちにとっては、投じられた一石の波紋さえも愉しむ糧となろう。それこそが妖怪の本質であり、本能でもあるのだから。それとも……もしかしたら、その言葉も鴆自身の戒めかもしれない、と首無はそっと思うのだった。