獣は花の夢を見るかパロ 参

 莫迦な行為だと、無謀な行為だと分かっていた。それでも押し進める足を止められなかった。明るいネオンの灯った街の中、怪しい店ばかりが顔を出す夜の街で、決して子どもが歩き回るような場所ではないと突き付けられる雰囲気に呑まれそうになりながらも昼はがむしゃらにただひたすら彷徨い歩んだ。少し洒落た、けれども変に張り付いたいやらしい笑みの男を躱し、問答無用に誘い込む女を避けて、似たような背格好の男を見つける度に違う顔であることを落胆しながら歩みを進めていると、恐ろしいことに気が付けば自分が今どこにいるのか分からなくなってしまった。

 当然のことだが夜の姿は欠片も見当たらず、それどころかふらふらと迷う街中で行く宛てもないどころか、帰る所さえ分からず立ち尽くす自分はなんとも愚かで浅はかなのか。昼の胸の内には恐怖心と焦燥感が生まれる。夜がどこにいるのかも知らず飛び出して、どこを探せば良いのか見当も付かないままで、ここで一体自分は何をしているのだろう。知らず涙が零れそうになる。進むべき道も見当たらず、帰るべき道を見失って、独りぽっちなんて。とにかく進むしかないのだと無理やり自分を説得させ、再び昼は歩き出そうと一歩を踏み出そうとするも、遠い視線の先、人の群れるその中でこちらに進んでくる少し可笑しなモノ、一つの不思議な集団が目に付き留まってしまった。

 ――その感覚を何と言えば良いのだろう。

 他の人たちは何事もないように〝彼ら〟の横を通り過ぎて行く。上手い具合に擦り抜けてそこだけぽっかり奇妙な空間が開いているのに誰も気にしないどころか気付いてない様子でもあった。〝彼ら〟はいわゆる強面の形相ではなかったし、通り過ぎる人たちがそそくさと逃げたり避けたりしている訳でもない。ただ自然に『そこ』に『障害物』があることを本能的に感知しているような、避けて当り前といった風で誰もが傍をすれ違う。どうして誰も気付かないのか。昼にとってはそちらの方が不思議だった。〝彼ら〟はあんなにも異様な空気を纏っているではないか。それに遠目からしても異常な色彩を有した美丈夫ばかりではないか。そして、少しだけどこか人とは違った容姿をそれぞれ宿してはいないだろうか……。

 昼は自分が何を見ているのか説明が出来なかった。だって、金の髪を持つ人は微かに頭が浮いてやしないだろうか。あそこまで綺麗な鶯色の髪をした人などいるのだろうか。どうして僧侶の格好をした人も紛れているのか。それに……あぁ、そうだ、みんな目が紅いのだ。みんな同じ紅い色に染まっている。その色と同じ色をここ最近どこかで見た気がするが思い出せず、代わりにふるりと昼の背が震えた。〝彼ら〟が徐々にこちらへと向かってくる。幸いあちらには気付かれた様子もなく、このまま見なかったことにして周囲の人たちと同じように避けて行こうと昼が恐る恐る歩み出し、無難に横を擦れ違おうとした時、その声は聞こえた。

「で、リクオが総大将に呼び出さちまったとよー。これまた畏れ多くも説教とはねぇ」

 おぉ、恐い恐い、と鶯色の髪をした人が肩を竦ませながら笑う。その横を通り過ぎようとしていた昼はびくりと足を止めた。……もちろん、自分の名前を呼ばれたからではない。その名前は今、偶然にも探し人である男の名前と同じなのである。
 衝動に駆られるまま、昼が気付いた時にはその人の髪と同じ色をした羽織の裾を掴んでいた。

「……あん?」
「…っ、あの……っ」

 驚いた顔をして、鶯色の髪の男を始め〝彼ら〟は次々と立ち止まり、昼の方を見た。それを良いことにとりあえず鶯色の男に探し人のことを尋ねようと口を開こうとするが、その男はと言えば大層驚いたのか紅く染まる目をそれはそれは丸くして、お前さん、ひとだよなぁ? と首を傾げて訊いてきた。そんなこと一々聞くようなことだろうか、と思わなくもないが、念のため昼がこくりと頷くと、鶯色の男だけでなく奇妙な集団全体がざわざわと騒がしくなった気がした。しかし、昼にとってはそんな場合ではない。先程聞いた名前がもしかしたら自分の探している彼に辿り着くヒントと成り得るのかもしれないのだ。意を決して昼は訊ねる。

「あの…っ、リクオってそれ、夜のことですか…っ!? 彼がどこにいるか、知って、っ」
「おい、おめぇさん、夜っつったか……?」
「……失礼ですが、リクオさまを…いえ、夜若さまのことを御存じで……?」

 鶯色の人と、それから金髪の、首が宙に浮かんでいる人が驚いた形相でこちらを睨みつける勢いで問い掛けてくる。若、と呼ぶのかは知らないけれども彼は確かに自分のことをリクオと名乗ったし、夜、と呼ぶようにも言い渡していた。
 宙に浮く首に驚きつつも、もう一度こくり、と頷けば、鶯色の人はなんてこった……、とまるで頭が痛そうに額を抑える一方で、首の無い人はにっこりと笑ったかと思えば。あぁ、あなたでしたか、と納得した表情で頷いて見せた。それぞれの反応は全くの対極で、何のことかと昼が戸惑っていると、いいえ、こちらの話です、とこれまた人好きのする笑みで男が口を開く。

「あの方に最近猫を飼ったと窺ったばかりでして。そうですか、あなたが」
「は……? 猫? ……あの、知ってるんですか、夜のこと……? 僕、彼がどこにいるか、」
「止めておけ」

 低い声音にちらりと目を向けると、額を抑えた男はその合間から紅い瞳で威圧し、刺すが如く鋭い視線でこちらを射抜いていた。その凍える視線に身を固くしていると、男は問い掛けた。おめぇさんはあいつのことを知ってどうするんだ、と。知ってしまった後に全て何もかも変わってしまうことを考えたことはあるのかい、と。おめぇさんには果たしてその覚悟があるのかい、と。暴いてはならない秘密を暴くその覚悟も無しにあいつのことに干渉するのはやめてやれ、とそう言い放つ男に昼はぐっと言葉を呑み込むしかなかった。そうなのだ。間違いなく自分はただの居候で、何の覚悟もなく考えもなしにただ思い付くままに出て来て、思いつくままに辿り着こうとし、秘密を暴こうとしているのだ。項垂れる昼をお構いなしに鶯色の男は手を緩めずに核心を突く。

「気付かないフリをしていた方が幸せな時もある。そんな世界もある。それをおめぇさんは少し弁えるべきじゃあねぇのかい?」
「………っ…!」
「鴆さま、少し言い過ぎです。彼はまだ心柔らかいほんの子ども。そう裏も表も無く糾弾されては泣かれてしまいますよ?」

 鶯色の人なんかよりよっぽど恐ろしい形相の首の無い人は、その手でぎり、と唇を噛み締め涙を押し留めようとする自分の頭を宥めるよう優しく撫でた。相変わらず女、子どもには甘いことで、とどこかで呟かれるのと同じくして、お前こそリクオに殺されっぞ、と唸る鶯色の人の声も聞こえる。とりあえず、とまた別のところから違う男の人の声としゃらん、と奏でる金属の音が耳に入った。

「拙僧は連れて行った方が良いと思いますぞ。現実を受け止めるのも時として必要なのでは?」
「……勝手にしろ」
「まぁ、遠くは無いし、黒の言う通りかな。……と言うことで、昼の御方、」

 連れて行ってはあげますけど、場所はお教えする訳にはいきませんので少しの間、目を瞑って我慢してくださいね?

 そう言って首の無い人の羽織を頭から被けられる。暗くなる視界の中で、連れて行ってくれるという約束にはそれなりの代価が必要なのだろう、と昼は素直に目を瞑ったが、その反面、胸の内に底知れぬ不安が頭を擡げてくる。迷わぬようにと、手を取って歩き始めているこの男たちを本当に信用して良かったのだろうか。衝動のままに話しかけ、運良く言葉が通じたとは言え姿形、どれを取っても明らかに人のそれとは違う彼らを信用しても良かったのだろうか。そもそも彼らは本当に夜を知っているのだろうか。騙されてはいないだろうか。連れ込まれた先で取って喰われたりは? 喩え見知りの者だったとしても、夜と彼らの関係は一体……? 考えれば考えるほど恐ろしい未来しか予想出来なくて昼の体は知らず知らずのうちに震えた。その震えに気付いたのか、首の無い男の声が、大丈夫ですよ、と優しく囁いた。

「私たちは確かにあの方のことを知っています。でも、私たちに出来るのは夜若さまのところへ連れて行くことだけ」
「……は、い」
「ま、つまりあれだな。後は修羅場になろうがなんだろうが知ったこっちゃねぇってこった」

 鴆さま、いい加減突っかかるのを止めてはどうです? と窘める声と、うっせぇよ、と鼻で嗤う男の声が左右を挟むが、昼の内心はそれどころではない。よくよく考えてみれば今、夜は仕事の最中ではないだろうか。その場所を知る彼らは同業者? 仕事仲間? どちらにしても、夜が彼らと面識がある以上、普通の関係では無いはずだ。どうやったって、彼らはサラリーマンじゃない。おそらく人間でさえ無い。ならば夜は何だと言うのだろうか。夜もまた、彼らと同じ人ではないのだろうか……。

 思い悩む頭で不安定ながらに足を進めていると突然、さくり、と踏むべき地の感触が変わる。――それはまるで固いコンクリートだったはずの踏み心地から、柔らかな地面へと踏み出した感触。事実、香りが違う。街の、得も言えぬ混濁した臭いから、草木の香る自然の匂いへと変貌しているし、ザザザ、と葉の茂った木の枝が揺れる音もする。けれどもその中で一番の違いを問われれば、あれだけざわめき騒々しかった街の喧騒が一切消えていることだ。一歩で異世界へと迷い込んでしまったような、否、そうに違いない。ここは、この場の空気はこれまで生きてきた世界とはどこか違う。怖いような恐ろしいような、思わず畏れてしまうようなそんな張りつめた空気と妖しげな気配が纏わりつく。

「止まれ」

 唐突に鶯色の人の堅い声が傍らで響き、手を取る男と共に立ち止まる。さらり、とその男の居る方から衣擦れの音が聞こえてきて、一つの間を置いた後、困りましたねぇ……、ともう傍らの男が握っていた手をそっと離した。これまた鴆さまの言った通りとなるとは……、そう溜息混じりの声より遠くで、ふと何かが聞こえていて、昼は小さく息を呑み耳を欹てる。……聞こえたのは男の声と女の声だった。

『半年待った甲斐あり……と言いたいところですけど、どこか上の空ですね、夜若さま?』
『御不興を買ってしまったようで…せっかくの御気分を害して申し訳無い。次回は誠心誠意を尽くして……』
『そんな事言って、あなたを買うのにまた半年も待たされますのよ…!』

 どうしてだろう……。最近良く知った声のはずなのに、どこか堅く、聞き慣れない色を持っている気がするのは。どうしてだろう、甘く蠱惑的な女の人の声が、かつて香ったお化粧の匂いのように漂っているのは。見たい、と思った。見なくては、と思った。目の前で何が起きているのか、何が事実で現実なのか、それを目の当たりにしなくてはいけないのだと心の奥底、自分で無い自分が囁いた。

「……あの、…これ、取っても良いですか…?」
「…いや、止めた方が、」
「取ってやれよ。初めからそのために来たんだろ」

 そうですけど、と何か言いたげな声色だったが、すぐにさらさらと衣擦れの音がして被っていた羽織が離れて行くのが分かった。――そして、後は目を開けるだけで。
 見たいと思った。それは嘘ではない……けれども本当は怖くてしょうがなかった。頭を過ぎる嫌な予感を目に焼き付けなければならないのなら、閉じたままの方がきっとしあわせなのだと分かっていた。でも、それでも、このまま知らないままでいる方がもっと恐いと思う心もまた事実だった。

『本当に悪いと思って? ……夜若さま?』
『勿論』
『じゃあ、ここへ、ここにちゃんとしてくださるなら、全て無かったことにしてあげますわ?』
『――…これはまた、ずるい御方で…』

 知らない方が良い、と彼らは言う。……実際、その通りなのだろう。知ってしまえば自分は傷付く。知ってはならない現実を知ってしまう。でもしょうがないのだ。もっと知りたいと願ってしまったのだから――だって、だって、自分には、もうこのひとしか……。

 ゆるり、と瞼を上げる。
 暗い景色、昏い夜闇。

 慣れない視界の中心に、ぼんやりと浮かんでくるのは一際美しい銀の髪をたなびかせた探し人の姿であり。その腕には美しい女の人が抱き留められていて。――そうしてその唇が女性のものと重なり合う残酷な光景。

 あぁ、と声にならない悲痛な吐息が零れ落ちる。
 ぽたりぽたりと頬に顎に冷たい雫が滑り落ちる。

 あら、本当にしてくださるなんて。なら今回は言い値より多めに出させていただきますね。そう言って満面の笑みを浮かべて去りゆく女性の一つ一つが心痛くて堪らないのはどうしてなのか。あぁ、どうしてだろう、どうして、どうして。
――自分には、もう、夜しかいないのに……。このひとしかいないのに……。
 女の人を見送っていた男が……夜がようやく気が付いたようにこちらを見た。

「――…昼、どうしてお前がここに居る」
「…………よ、る」
「リクオさま、そのような言い方をせずとも……」
「……おめぇは黙った方が良いんじゃねぇのか、首無。まぁ人間の御人よ、知っちまったからにはしょうがねぇ……おめぇさんもおおよそ気付いちゃいるんだろう?」

 鶯色の男がするり、と横をすり抜けて夜の方へと進み出る。その男の周りにはふわりふわりと翡翠色の羽が幻想のように舞っており、彼もまた人間ではないことを昼に知らしめていた。男は鳥が空を漂うようにゆうるりとあくまで足取りだけは軽く、語る。

「オレらは『奴良組』って言う、戯れなる御婦人方の相手をつとめる……人間の世界じゃ何て言ったか? …『ホスト』ってやつか? まぁ、それに準じるもんだな」

 だが、そんじょそこらの者とは違う、と厳かに哂う。相手にするっつっても、まず桁が違う、そこら辺のものより少なくとも二桁は上だ、と。それに何より、根本的に違う、と。

「オレたちが相手するのは人間じゃない。妖怪だ。そもそもオレたちが妖怪なんだから道理には適ってるってもんだろう?」

 そして、と男はすぅっと目を細める。刺すような視線に、暴かれていく真実に、昼の心臓は警鐘を鳴らしたようにどくどくと逸った。
 夜が妖怪? 嘘だ、と昼の頭が否定する一方で、向けられる夜の紅い瞳に、彼らと同じ色を灯した瞳に、否が応にも事実なのだと認めざるを得なかった。訳が分からなくなってくる。自分はどうすれば良いのか分からなくなってくる、もしも鶯色の男が事実だけを述べているとしたら。それなら自分は……。

「そして、リクオは指名半年待ち、一晩で一千万稼ぎ出すこの組押しての一番手だ。どう足掻いたって人間のおめぇさんの手に負えねぇよ」

 どくん、と心臓が跳ねる。はくはくと浅い息を繰り返して、上手く息が吸えなくなる。それはつまりこういうことなのか、贈り物も口付けも、お客にするのと同じことだと、あの優しさは、可愛いと言ってくれたあの言葉は全てが紛い物だったということだと。お金を持っていないと分かったらすぐに捨てる予定だったのだろうことを示している、と。
 そこまで考えて愕然とした。……可笑しなこと、自分は彼に何を期待していたんだろうか、と。何を求めていたというのだろうか、と。……どうしてこんなにも心が苦しくて痛くて涙が止まらなくてしょうがないのだろう、と。

「……つまり、さ…夜は、お金で女の人…抱くんだ……?」
「おい…昼……?」
「……お金が、お金の額が多ければ…誰でも、いいの…?」
「…ッ…、口を閉じやがれ、昼!!」

 初めて聞く夜の怒鳴る声にびくり、と体が震えた。空気が変わる。畏しくも艶やかな惹かれる空気から、びりびりと震える恐怖ばかりの畏れる空気へと世界が染まる。にぃっと夜は嗤った。嘲るような蔑むような表情で、紅い目でこちらを射殺すように見つめながら。

「……お前だって似たようなもんだろう? 独りじゃ生きられねぇから父親に足を開く。えぇ!? どこが違うんだい!?」
「…ッ…、…」

 喉が凍りつく、どうして、とぐるぐるとぐるぐると辿り着かない思いがない混ぜる。怖い、恐い、畏い、こわい。
 自分はどこかで信じていたのかもしれない。夜だけは決してそんなことを言わないだろう、と。そんな根拠の無い優しさを、彼に期待してしまったのかもしれない。ずり、と昼の足が後ずさる。それは恐怖か哀しみか、絶望か逃げか。どれが背中を押したのかは分からない。それでも去らねばと思った。去りたいと願った。縺れながらも足は駆ける。夜を、彼を背に走り出す。誰かが止めるような声を掛けた。それを聞きもしないで一心不乱に走って走って門をくぐる。
 そうして。ようやく、くぐった門の先、消えた地の感触、コンクリート……。そこは彷徨っていたはずの街の中であり、独りぽつんと立ち尽くしたままの昼はとうとう我慢出来ずに、ぼろぼろと涙を溢れ出させた。

 

 

 何てこと言うんです、リクオさま! そう窘める男の声に、黙れ……! とだけ叫んで夜は唇を噛んだ。
 最低なことなど最初から分かっていた。ただあの子どもがそれを今知っただけ。それだけの話だ。
 なのに、どうしてだろう、後悔がひしひしと胸を締め付けて仕方がない。
 ……決して泣かせたい訳では無かった。傷付ける気など毛頭無かった。ただ何も知らせずあの箱庭で共に過ごせれば良かったと、そう思っていただけなのに。なのに、どうしてこうなるんだ――…。
 苦々しさに唇を噛む。胸が痛くて仕方がなかった。でもそれが何から来るものなのかも分かっておらず……己の醜さを知られたことか、はたまた似合わぬ涙でその頬を濡らさせてしまったことか、それとも追いかけも出来ぬ自分の不甲斐なさなのか。

 いずれにしろ、あの子どもがきっかけだということに気が付くまでは、どうにもならぬ感情を、今はただひたすら持て余すことしか出来ないのであった。