獣は花の夢を見るかパロ 弐

「……リクオ様」
「ん? ……あぁ、首無か」

 煙管片手にぬらりくらりとやって来た男に首無は呆れたように溜息を零した。随分遅い御着きなようで、総大将に怒られますよ、と苦言を呈してもその余裕さは変わらない。……もはやさすがと言うべきか、たまには耳に入れて欲しいと言うべきか。相も変わらず大して堪えた風でも無く横を通り過ぎるリクオに困ったものだと肩を竦めていると、ふわりと甘い香りが漂った。彼は香水を始め、人工的な香りを嫌っていたはずだが。

「……甘い香りがしますけど…気でも変わられたのですか?」
「は?」

 甘い? と首を傾げるリクオに、えぇ、果実のような花のようなそんな香りがしますけど? と教えてやる。はて、と考え込むリクオとは逆に、本人も与り知らぬ所でどうしたらこんな香りが付くのか甚だ疑問に思っていると、あぁ、あれか、と納得した様子でリクオはくつり、と喉を震わせた。

「そういや、ちょいと猫を飼い始めたもんでな」
「猫……?」

 金茶の珍しい猫だ。たぶんその匂いだろ。そう言ってさっさと奥へと行ってしまうリクオの背を眺めつつ、はて彼は好き好んで動物を飼うような御人だっただろうかと考える。何かの世話をしたりされたりするのは苦手だと昔ぼやいていた気がしないでもないが。同じく疑問を感じたのだろうか、壁に背を預けていた鴆が、さぁて、本当に猫なんだか、と嗤った。

「どんな猫なんだか、……一度お目に掛かりてぇもんだ」
「猫って……さぁ、でもまさか」

 動物の猫では無く、彼のネコと。そう暗に言って見せる鴆にそれだけは有り得ないだろうと首無は苦笑する。彼は何より他人が嫌いで信用するなど以ての外なのだ。まぁ、そうは言っても、珍しい猫とは……愉しそうに彼が言うくらいなのだから、鴆と同じく一度くらいは拝見してみたいものだと首無は戯れ程度にそう思った。

 

 

 

 ひる、と呼ばれる。何度も何度も。さらさらと髪を梳かれる感覚がとても気持ち良くて、するりと撫でられる頬がくすぐったくて目を開けるのがなんとなくもったいなく感じた。もちろんそんな行為、主が赦すはずもなく、耳朶を掠めるくらい近い距離でもう一度、昼、と呼ばれた瞬間、心拍数の急上昇からぱちりと目を覚ますこととなった。

「……っ、よ、夜っ!?」
「よぅ、目ぇ覚めたかい? ちゃんと眠れたようでなにより……ってことで、これに着替えな」

 そう言って置かれたのは何かが包まれているだろう上品な濃紫色の風呂敷で。突然のことに一体どうしろと、と眉を下げるが夜の方と言えば煙管を取り出し、良いから着てみらぁ、合うはずだから、と言っただけで踵を返す。あぁ、そうだ制服は出しな、洗濯に出すからよ、と思い出したようにそれだけを言い残して、こちらの呼び留める声など素知らぬ振りして部屋を出て行ってしまった。相変わらず置いてかれてばかりだ……。

 とりあえず、着ろと言うからには服に準ずるものなのだろう。肌触りの良い風呂敷の結び目を丁寧に解けば中からは素人目から見ても分かる、とても質の良い黒染めの着物と紺色の羽織、それと襦袢に帯に足袋といわゆる和服一式が収まっていた。驚くに決まってる。それどころか、あぁ、どうしようとパニックに陥いるくらいだ。……しかし、外ではおそらく彼は自分が着付けるのを待っているだろう。とは言っても普段、このような高価な着物に触れたことが無い上、着物など着付けたことの無い者にとってこれは些かレベルが高いのではないだろうか。どうしよう、どうしよう、と焦るも、とにかく足袋など分かるものはきちんと身に付けて、後はなんとなくで仕上げていくしかない。ああでもない、こうでもないとそれとなく帯を結んで、ようやく待っているだろう彼の元へと向かえば目的の本人は机の上に並べられている皿を物珍しげに眺めていた。

「……あ、あの、それ…」
「お前さんが作ったのかい?」
「…その…、ごめん、なさい、台所勝手に使って……朝って聞いたから、…お腹空いてたらって、思って……」

 眉を寄せて訝しげにこちらを見つめる夜に、少しだけ怖くなる。怒っているのだろうか……。昨日、独りでいるのが落ち着かなくて、つい、余計なことをしてしまった。ごめんなさい、と謝りながら知らず後ずさっていることに気付いたのか、夜はぬっと腕を伸ばして後頭部に触れる。反射的に、殴られると思い、怯えからぎゅっと目を瞑ると、夜の手は己の方へとぐっと力を込めて引き寄せた。

「……んっ、…ん…ッ…!」

 唇に熱が触れたかと思えば、すぐに舌が触れ、ちゅぅっと吸われる。その動きは決して荒々しいものではなく、考えていた程に彼が怒っている訳ではないことを伝えていた。

「お前なぁ、人の顔見りゃビビるのは止めろってーの……それより、お前着付けるの下っ手くそだなぁ」

 怒るどころかくっく、と可笑しそうに笑う夜に、昼は羞恥から顔が真っ赤に染まる。しょ、しょうがないじゃないかっ! 着付けなんてしたことないんだからっ! そう反論すれば、より一層夜の笑いは深くなる一方で、ほら動くんじゃねぇよ、と襟を整え、裾を合わせて帯を締め直してくれる。
 するするといとも容易く締め直すその手慣れた行為を見て、そう言えば、とうっかり忘れていた、どうしようという気持ちがだんだんと思い出されてきた。

「……あ、の…夜、…僕、こんな着物のお金、なんて……」
「ほらよ、これでぴったり、っと……って、あん? オレの贈った物は何であろうと返品不可だぜ、昼?」
「…っの、……ごめ、…」
「全く…お前は謝ってばっかだねぇ。オレはそういう時、謝罪の言葉より礼の言葉の方が好きだが?」

 くしゃり、と昼の頭を撫でながら喉を震わせる夜に、はっと何かを気付かされる。ここ数年、義父の元でずっと謝ってばかりのせいで、いつの間にかそれが癖になっていたのか、お礼の言葉と言われるとなんだか逆に恥ずかしく感じてしまう。あぁ、でもちゃんと言わなくてはいけない。その意志だけが有り余って結局、彼の袖を掴んで俯き加減でしか言えなかった。

「……ありがとう…、夜」

 でも目を合わせないのはあまりにも失礼だろうからと、ちらりと夜の顔を覗き見れば、彼はくくくと腹を抱えて笑っていて。昼、てめぇは本当ガキだな、そう言われてつい、もう、何なのさ、君…! と唇を尖らせるも、夜の笑いが途切れることは無く。
 悔しいはずなのに、心の隅が少しだけ軽くなる。義父に怯え暮らしていたあの時は日々誰かに恐怖を抱き、周囲もなんとはなしに気を遣ってくれていて……こんなに笑われるのも、お構いなしに不躾なことを言われるのも実に久しぶり過ぎて、夜の笑い声にだんだんと誘われてしまう。ついついくすりと自然な笑みが零れてしまい――…それに一瞬だけ瞠目した夜の心境など、もちろん知る由もなく。……ただただ忘れていた誰かの温もりがしあわせだと思った。

 

 

 

 彼は宵の口となる頃に出掛けて行き、朝、目が覚めると帰ってきていた。台所は勝手に使って良い、と言われていたので何もすることのない自分が軽食を作っておけば必ず食べてくれた。……こんなに美丈夫ならば食事を作ってくれる人くらいいるだろうに、と内心、疑問に思いながら。そしてなぜか……どんな仕事をしているのかだけは教えてくれなかった。遠回しに聞いたが気が付けばぬらりくらりと躱されていた。それがどうしようもなく不安で、不安で……しょうがなかった。そんな不安はだんだん積りに積っていって、とうとう数日後には不審へと変わってしまった。

 ぱたん、と閉じられた扉の音で目が覚めて、夜が帰ってきたのを知った。その日に限って、ご飯の用意をしていなくて、その旨を伝えて謝る気でいて―――結局、今日はいらない、済ませてきた、と告げられて、横を擦り抜ける彼に、いつもはお酒の匂いだけだったものから、女性のお化粧の匂いが混じっていることに気が付いて、どくんと心臓が大きく跳ねた。
 彼は毎晩、何をしているのだろう、どこへ行っているのだろう。考えれば考えるほど不安が募るばかりで、気になるのを止められなくなる。
でも、

「昼?」
「……っ…、ごめん、やっぱり、なんでも、ない…」
「……? 変な奴だな」

 行ってくる、と出て行こうとする夜を呼び止めて問う言葉など、たった数日一緒にいただけの自分には分不相応で、呑み込むだけで終わらせる。気にしたってどうにもならないと分かっているのに、知りたいという衝動ばかりが溢れ出て。なのに結局、本人の口からは聞けなくて。それでも、やっぱり知りたくて、夜の出て行った扉に指が掛かって……止められない感情に流されるまま、昼はその扉を開いて昏い夜の世界へと飛び出した。