獣は花の夢を見るかパロ 壱

 ……お母さん、僕、何も悪いことやってないよ……? ちゃんと言うこと聞いてるよ……? でも、さ、もう、さ、こんな、事――――……。

 

 

 踏みしめていたコンクリートから踵を浮かせる。大丈夫、大丈夫、この小さな段差に足を掛けて、欄干に身を寄せて、体を乗り上げて、それから前に体重を落として。それだけだ、それだけでこの世界からオサラバ出来る。震える手も、震える足も、きっと気のせい。怖くは、ないから……怖く、なんて……ない、はず、だから……。

「――…よしときな」

 覚悟を決めたと同時に声が、掛けられる。びくり、と震えるままに振り返ることすら出来ずにいると、その声は呆れた色で莫迦なことをするもんだ、と溜息を吐いた。どうせこんなドブ川に飛び込んでも成仏なんて出来ねぇだろうよ、と嘲笑の意さえ感じるその言葉は決してこちらを慮るだけのものではない。
 一体誰なのか、関係のない他人の生き様に無粋にも口を出す者など。そう最後の強がりにも似た矜持で声の主の方を振り向けば、それはそれは見たことも無い銀の髪を靡かせ着流した、綺麗な顔立ちの男が煙管片手に紫煙を燻らせていた。その綺麗な顔もこちらを目にした瞬間、小さくしかめることとなる。まぁ、大抵の世間一般的な感情を持つ者ではそうであろう。何しろ己の顔は痣と傷、そして乾いた血がこびり付いたままなのだから。

「これも何かの縁ってやつかねぇ……。子どもは帰る時間だ、送ってやるぜ? 家はどこだい」

 先程の言葉はともかく親切心からなのか、それとも誰かに苛められたとでも思ったのか。そう申し出をされるも、こちらからしてみればそれこそありがた迷惑、迷惑千万、泣き面に蜂というものである。帰りたくなどない、帰る場所など、無い。だからこうしてこんなドブ川とも言える場所に身を寄せているのに……。唇を噛み締め、睨みつけながら、一度だけ首を横に振ると、今度は何を思ったのか男はにぃ、と嗤った。

「……なら、オレんとこに来るかい? 少なくとも……そんな汚ねぇアザ付ける暴力親父よりマシだと思うがなぁ」

 暴力親父、という言葉にどうして、という驚きを隠せず声にならない声で問えば、なんだ当たりかと得意げに返される。ついでに簡単なこった、と嗤って。

「お前、ずっと目ぇ泳いでんだよ。で、どっか逃げ場所ねぇかそわそわしてる」

 それと睨みつけるのは良いがオレの目を見ていないし、何が怖ぇのか腰が引けてる。……そう来れば、一目瞭然だろ? お前は目上の人間、……それも男に恐怖を感じてる。先公の可能性もあるが、家に帰りたくないなんて言うくらいだ、相当家が嫌いらしい。くつくつと嗤って明かされるものは全て正解で、事実だ。唖然としている自分に目を眇めて、男はもう一度問い掛ける。

「オレのとこに来るかい? それともこんなドブ川でお陀仏しちまうかい?」

 そう言って伸ばされた手が憎らしいと思った。だって、もうこの手に縋りつくことしか考えられないから。あたたかな誰かがあまりにも恋しかったから……だから、お母さん、お母さん、ごめんなさい。思いつく限りの言葉で謝罪の言葉を紡ぎ続け、リクオはそっと男の手を取った。
 ごめんなさい、ごめんなさい……。
 こうして僕は堕ちていく。堕ちた先も地獄だと知っているくせに……。

 

 

 

 男の家に連れられて、寝室へと導かれて。あぁ、結局自分の命の使い道なんてこれくらいのものなのだとなんだか笑えてしまった。男が脱げ、と命じた時もさほど驚きはしなかった。ただ、彼も同じなのかと思っただけだ。
 先程、男の手を取った時点で男に対する抵抗も逃走する気概も無かったので、すんなりと上着を脱ぎ、シャツの釦を一つずつ丁寧に外していけば、男は呆れたように肩を竦めた。

「オイオイ、張り合いねぇなぁ……ちったぁ抵抗してくれねぇと、脱がせ甲斐ってもんが……、」

 そう言って男の言葉が止まる。もしかしたらストリップショーでも期待していたのかもしれない。だとしたら残念だがそんなもの、リクオは『教えられて』いない。『教えられた』のはただ一つ。従順に生きることだけだ。それ故に途中で呑み込んだ男の言葉が無性に面白く感じた。あぁ、そうか。それが普通の反応。当り前の感情なのか。

 シャツを脱いで露わになったその肌は痣と傷と火傷の痕でそんなにも綺麗なものではない。いや、むしろ醜いと言って良いくらいだろう。たまに抵抗した時や義父の機嫌が悪い時、それから気分が異常に高揚している時とあと、そういうプレイの時? ――とにかく分かる事は大人しくしていたって、暴れたって結局のところ殴られ甚振られ虐げられるということだった。出来れば彼が殴らない人間であれば良いなとリクオは思う。大人しくしていればいつかは終わっているそんな戯れであれば良いな、と。言うことを聞いるから、逃げ出さないから……酷くしないでくれれば良いな、と。

「―――どんなふうに抱かれるんだい…?」
「…………っ…、なにを……?」
「犯られてんだろ? ……父親、ねぇ」

 大方死んだ母親の代わりってか? そう言われた瞬間、誤魔化すために曖昧に笑った顔がそのまま凍りつくのを感じた。そしてじっ、とこちらの全てを射抜く紅い瞳に呼吸が止まりそうになって思わず後ずさるも、逃がさぬとでも言うように腕を掴まれる。
 大きい手。骨ばった男の人の手。途端、喉が恐怖にひくりと引き攣った。しかし体が強張って逃げるに逃げられない。
――あぁ、だめだ。また殴られる。縮こまり、訪れるであろう暴力に怯えるリクオ。その様子にまた男が、逆らわないように仕込まれたのかい? と鼻で嗤う。

「でも、さすがにこーいうのはされた事ねぇだろうよ」

 くっと男の喉が震えた。……と思った瞬間、掴んだ腕そのままに急に体を引き寄せられ、つま先立ちに不安定となった体ごと、もう片方の腕で支えられる。なに、と思った時には遅かった。
 近付く綺麗な顔。止まる呼吸。触れ合って熱を帯びる唇。

「……ん…んぅッ――――!」

 吐息が奪われる。噛みつくようで優しくて、なのに口の中を舌で溶かすように犯されて――。

「ん、…ふ、う…っ、ぁ……っ」

 苦しい。苦しい……。こんなこと、したこと無くて、すぐに息が吸えなくなって、頭がくらくらして。体中から力が抜けていく。震える足に力が入らない。熱くて苦しくて。頭の奥がジンジンと痺れるほど気持ちよくて。かくり、と膝が折れるのを良いことに唇が離れて息を吸えるようになると、リクオの体はぱさりと音を立てて冷たいシーツの上へと横たえられた。けれどもはふはふと息が上がり、思うように整わない。熱に浮かされ、呼吸を乱すリクオに男は余裕無くにぃっ、と口端を上げと肉食獣のように目を細めた。

「……へぇ、そんな貌も出来んじゃねぇか……。能面みてぇな面よりずっとイイ」

 そんな貌、という言葉に知らず知らず羞恥を覚える。さっきのはキスと言われるものではないのか、それに自分は一体どんな顔をしているのだと言うのか。考えれば考えるほど顔が紅潮していくのを感じて、遂には何もかもを見通そうと覗く紅い目から逃れたくなって腕で顔を隠そうとするが、それも男の手に掴まって結局成すことが出来なかった。それどころか顎をなぞられて、くいっと引き上げられる。

「――――まだだ、もう一回」
「………っ、…ふ…ぅ、ん、ん…っ…」

 そう言って呼吸が整わぬうちに唇を柔らかく食む。びくりと身を震わすも離れてくれず、むしろそれ以上に男の舌が閉じた自分の唇を抉じ開け、中に侵入する。ざらりとした舌が己のそれを擦って、絡まって、逃げれば逃げるほど深いものへと変わっていって……次第に火照る体には経験したことの無い奇妙な感覚が駆け巡り。それでも声を呑み込み、堪えているともっと出せ、と男の声が耳を掠める。

「もっと声出して感じろ」
「…っんん…、んぅ…」

 もっと、と欲深く口にした男は意識的にか無意識としてかは知らないが、それまでただ舌同士が触れるだけのものから、戯れをし始めた。逃げれば追いかけられ、かと思えば誘い出されて絡め取られて、吸いつかれ。くらくらした頭のままに瞼を上げれば、整った綺麗な顔に心拍数が上がる。……かつて友だちはいてもこんな近くで、しかもこんな綺麗な顔など見たことが無いのだ。意識が朦朧とし、誘われるままに応えてしまえばかぷり、と甘噛みされて怯えて逃げてしまうも、男はくく、と愉しげに喉を鳴らした。

「……あぁ、やっぱりキスは初めてか。……いいな、可愛いなぁ、お前」
「…は、…っ…ぁ、にが…っ…?」

 考えられない頭で発した問いに男はゆるりと唇を弧にするだけで。ぺろりと口端を舐めては、ちゅっ、と口付け、また吐息を貪っては、舌を追い求め――次第に流されていく感覚に身を任せ始めたその時、ピリリリ、とケータイのコール音が鳴り響く。警報のように鳴り響くその音にびくんと肩を跳ねさせると、男は音の方へ一瞥を投げかけた後、面倒だなとでもいう様子でチッと小さく舌打ちをする。そして待ってろ、と一言言い置いて、ケータイを取れば、開いてもう一度柳眉を顰めつつ電話に出る。

「…………はい、リクオ」

 リクオ、という言葉にぴくりと反応し、そっと耳を傾ける。……それが男の名前なのだろうか、だとすれば何という偶然なのだろうか。リクオ、と名乗った男は二言三言交わし、すぐに行く、と言って話を早々に終わらせた。ケータイをパタリと畳んだ後は、こちらを見て、悪ぃな、と溜息を吐く。

「仕事が入っちまった……朝には帰るから、適当に寛いでろ、昼」
「……昼…? …あの、僕の名前、は…」
「『リクオ』だろ? 生徒手帳落としてたぜ?」

 どうして名前を知ってるのか、と視線で尋ねれば、何ともなしに自分の生徒手帳を懐から取り出した……おそらくドブ川の所で落としたのだろう。同じ名前で、それであの時何かしらの興味が湧いて今に至るのかもしれない。
 それにしてもなぜ『昼』なのか。それに首を傾げていればそれさえも心を呼んだように男は、お前は昼間に生きてるから昼だ、と言った。

「で、オレの名がリクオだ。『夜』と呼べば良い。……そうすればどっちのリクオか訳分かんねぇことにはならんだろ」
「………うん、…ぁ、…はい」

 職業柄、という意味なのか? しかし二人しかいないのにどうして訳が分からなくなるのかは良く理解できないが、とりあえず返事はしておくことにする。そうすれば、丁寧に言い直した言葉に苦笑を零し、そんなに畏まる必要はねぇよ、とくしゃくしゃと頭を手荒く撫でられた。その有様に言いようも無くうぅ、と唸れば、夜は何を思ったのか掛けていたメガネを通り越してじぃっとこちらを見つめ、ついでとばかりにすぅ、とメガネを抜き取る。

「………な、何…?」
「いいや。ただ、度が入ってないのに何のために掛けてんだろうなぁ、って思っただけだ。変な奴だな、お前は」

 何を言われると構えてみれば変人扱い、そしてそれに何も言えずに口をぱくぱくさせていると、ずいっと顔を近づけてきて思わず目をきつく閉じてしまう。それがいけなかった。

「……っ…! ひゃっ」

 瞼の上をちろり、と舐め上げられ、そんなこと欠片も想像していなかった自分は変な声を上げてしまう。それにからからと笑いながら、悪ぃ悪ぃ、あんまり綺麗な目ぇしてたから、つい、と言ってのけ。そうしてそのまま「鍵は掛けとくから、ちゃんと寝ろよ」とだけ言い残し、夜はさっさと部屋を出て行ってしまう。

「……てっ、……よ、る…っ」

 色んなことが嵐のように過ぎ去り、中途半端に残されて。なのに向こうは余裕な顔をして出て行ってしまって。残された言葉と空回りする熱だけが言いようもなく悔しくて。しょうもなくて。持て余した感情をぶつけるようにリクオは指先で真白いシーツを掻き集めると、変な奴はどっちだと呟いた。
 変人だ、変人だ……自分なんかを拾って家に入れ、なのにお義父 さんみたいなことはしないくせに。キスしたかと思えば寝ろなんて言って追い出しもせず置いてけぼりにするくせに。変人だ、変人……。そう何度も繰り返し呟いてベッドに体を預けると、シーツをぎゅっと握りしめる。

「………………、」

 ―――…でも、本当に変なのは、それを嫌だと思わなかった自分なのだと、分かっているから。