兄夜と弟昼

 ドクヒメサマの話を知っているかい? 漢字で書くと毒姫様……とある国の可哀想なお姫様の話なんだけどね、実は彼女、生まれた時から毒の温室の中で過ごしてきたすごいお姫様でもあるんだ。毒姫様のお友達はもっぱら毒蛇に毒蜘蛛、お食事は様々な毒の入った美味しいご飯。毒姫様は育つごとにただの自分が近づけば生き物、ただの植物ではすぐに死に至らしめてしまうことに気が付いた。だからその毒の温室にはいつしか美しい毒の花が咲き誇って、毒を有する生き物ばかりで溢れてしまった。
そんなある日、毒姫様はある男性と恋に落ちてしまった。温室を隔てての恋はいつしかお互いに逢いたいと思わせるまでの恋に発展した。でも毒姫様は逢えば誰かを殺してしまう。そこで毒姫様は考え、決意した……このまま幸せな記憶を持って自分が消えてしまおう、と。本当は毒姫様だってその人に逢いたかった。温室越しでなく、手を取って触れ合って、そうやって愛したかった。きっとその人は今度来た時、温室の中へと入ってきてしまうだろう、そうして自分が死に至らしめてしまう。そんな未来が毒姫様は一番嫌だった。

 だから毒姫様は薬を飲んだ。
 それは解毒剤だった。

 毒姫様の体はすでに毒そのもので、毒は効かないけれど、人を救う解毒剤は毒姫様の命を奪ったんだ。……可笑しいよね、毒姫様だって生まれた時はただの人間だったはずなのに。そうして次の日、男の人がやって来て何もかもを知って、後悔したんだ。……逢いたいなんて言わなければ良かった、って。恋に落ちなかったら良かったのに、って。確かにそうなのかもしれないね。そうしたら毒姫様は死ななくて済んだのかもしれない。
 でもね、その人に逢わなかったら温室の中の毒姫様は、こんなにも誰かを恋しいと思うことも一生無かったのかもしれないね。

 
 
 

「全く、聞き分けのない弟を持つと兄は大変なもんだ」
「……出たな、ばか夜」

 対面していた妖怪の向こう側でじゃり、と足音を立てて姿を現した兄、夜に昼はこの上なく嫌そうに顔を歪めた。この兄は、自分を24時間監視でもしているのか、はたまた単に勘が良いだけなのかは知らないが、毎回、毎回、自分の邪魔をしてくれて、その度に昼の機嫌は下降する。まぁ、元から兄を前にして機嫌が良かったこともあまり無いのだが。

「兄に向かって、ばかとは聞き捨てならねぇなぁ、昼? まぁた、お仕置きしてやろうか?」
「うるさい。毎度、毎度、邪魔してくれて一体何の嫌がらせなのかこっちが聞きたいよ」
「……へぇ、見知らぬ妖怪どもに囲まれて、今にも喰われそうな様で邪魔とは、ねぇ?」

 喜んで餌にでもなるつもりだったかい? あぁ、それともこれから、そいつらとまぐあう予定でも? 冗談にしても粗悪な言葉の羅列に昼は眉を寄せる。その筋書きを実行したらしたで、男の機嫌も相手の姿も地の底、地獄の底に落とすくせに、簡単に口にするのだから面倒この上極まりない。気付かず男の琴線に触れてしまえば、危ういのは自分の方でもあるのだ。何と言おうと結局、兄の力の前では、どうやったって足元にも及ばない。それでも、と昼は口を開く。

「これくらい、僕でも対処しきれる」
「さぁて、それはどうだろうなぁ」

 夜はくつくつと喉を震わせる。その男の口元と、突然、現れた夜の存在に惑っていた妖怪どもがじりじりと間合いを詰める姿を横目に映しつつ、昼はどういう意味? と首を傾げて見せた。

「人の子があまり驕らないことだな」
「四分の三が妖怪の君に比べたら、その逆である僕は確かに人間だろうね。でも、その人間の領分を先に侵したのはこいつらだ。人間の僕が粛清することの何が悪いんだい?」
「まぁ、百歩譲ってお前さんが良くても、こちらも妖怪の頭、けじめは付けさせてもらわなきゃ面子に関わるんでな」

 弟の、それも四分の三が人間の者に出し抜かれたとあっちゃあ、笑い話にもなんねぇや。そうのたまう兄は、表面上は弟に座を狙われる立ち位置に在る妖怪の頭である。しかしそうやって出し抜かれる気も、そんな怯えも無く、それどころか愉しそうに嗤って魅せるのが、この兄でもある。何故なら男は昼がその地位を欲していないことを十分心得ているし、事実、昼は頼まれたって望むことなどないのだから。むしろ、在り方としてはその逆と言っても良い。

「……ごちゃごちゃうるせぇんだよ、お前らぁぁあっっ!!」

 グルグルと威嚇するように喉を鳴らす相手に、夜はふん、と鼻で笑う。見てくれこそなんとか人間に近いがその妖怪は山犬の一種だ。その犬の臭いに気付いたのか、弱い犬ほどよく吠える、などと煽り立てるのだから昼の方と言えば堪ったものではなかった。手を出すなら、せめて口は出してほしくない、それが昼の本音だ。ぬらりくらりとしている分、夜の言葉はそれが気紛れなのか本音なのか見極め難いのである。
 ギリギリと歯噛みし、顔を赤くした妖怪らが高らかに遠吠えをする。耳を劈く声と共に生まれる激しい風の奔流に、昼は思わず目を瞑って耳を塞いだ。……そして、その一瞬で周囲の気配が変わったことを鋭敏に知覚する。

「だから言っただろう?人間には少しばかり荷が重いって」
「……っ、……」

 目を開き、見えたのは先程まで対峙していた妖怪たちに良く似た数え切れんばかりの山犬たちが自分たちを囲んでいる光景だった。一体どこに隠れていたのか、人間の知覚の限界に唇を噛み締めたくなる。その一方で夜は始めから感づいていたのか慌てることなく、むしろ引っ張り出す手間が省けた、とでも言うように余裕の笑みを浮かべていた――ついでにたじろぐ自分の姿も愉しんでいるのだろう……本当に悪趣味な兄である。助けなど求めるわけがないのに。

「……問題は数じゃない。どれだけ仲間を呼ぼうとも頭を押さえればこちらの勝ちだ」

 苦々しくそれだけを吐き捨て、地を蹴り、手にしていた祢々切丸の鞘を抜く。見るからに頭であろう目の前の妖へと躍り出て、その白刃が山犬の姿を映し出す。丸腰の相手にその切っ先は鋭く……止められるはずなどなかった、けれども、その刃は妖怪に掠ることなく宙にて留められた。瞬き一つで伸びた、山犬の長くて鋭い、硬い爪によって。妖が哂う、そして十数の場所で唸り声を上げながら、自分めがけて飛び立つ音が耳に響いた。

「明鏡止水〝桜〟」

 突如、言い放たれる低く艶のある声が一言。それと同時に昼へと襲い掛かろうとしていた山犬たち全ての体に青い炎が上がり、地へと墜落させる。轟々と灼き尽くす青の炎に、余程自分たちの力を過信していたのか、唯一炎を上げず昼と対峙していた妖怪はこれ以上無いほど目を見開き、信じられないとばかりに唇を震わせた。確かにあの数を一瞬で殺られるなど、そんなに経験できるものでもない。そうやって茫然としている妖怪へと再び刃を繰り返すも、ぎりぎりのところでその身のこなしに躱されてしまう。昼が小さく舌打ちをして、それからちらりと夜の方へと視線を投げれば、その顔は面白がっていると言うよりも苦々しいというか、険しい顔をしており、少しだけ胸のすく心地となった。
 夜が明鏡止水で昼以外の全ての妖怪を灼き尽くさなかったのは、何も昼の対峙する姿を見物するためではない。彼は余裕ある駆け引きは愉しむが、生死を掛ける駆け引きを愉しむほど悪趣味でも無い――……夜はただ、恐ろしいのだ。妖怪しか灼き尽くさぬ陽の力であるその炎が昼を、自分を灼き尽くしてしまうかもしれないという確証し得ないその可能性に。それが夜の唯一の弱みであり、……唯一、残虐性さえ抱かせる強みでもあることを知っているのはおそらく昼だけであろう、きっと彼自身も気付いてはいまい。

「赦さねぇ……赦さねぇ……お前ら共々、生きたまま八つ裂きにして、喰い千切って、生きていることを後悔するくらい嬲り殺してやるぅぅうう!!」

 咆哮を上げた妖怪は爪で受け止めた刀よろしく昼を引き寄せ、体勢を崩した昼の体を背後から抑え込み、その首を掴み上げた。夜に見せつけるような格好からして、つまり人質と言ったところか。くだらない。そうすれば動くに動けない状況にでもなると思ったのだろう。くだらないし浅はかだ。あの短い会話の隅にあどけない兄妹像でも見て取ったのか……まぁ、兄の方は、眉を寄せて動かないところから見ると正解なのかもしれないが。弟が可愛らしく兄に助けを求めるなんていうのは、自分たちの間では万が一にも有り得ないだろう。それよりもこの体勢が有り難いくらいだった。

「人間……お前は良い匂いがするなぁ……美味そうな匂いだ。喜べ人間、お前はオレの血肉にしてやろう……生きたまま喰われる感触を死ぬまで味わうが良い!!」

 まぁ、そう簡単には殺してやらんがなぁ! そう嗤って妖怪はべろり、と唾液塗れの長い舌で昼の頬を舐め上げた。ぬるぬるとして不愉快極まりないが、それでも昼にとっては好機以外の何物でもなかった。しゃがんだ妖怪と己の心臓の位置が重なる、昼は祢々切丸を握る指に力を込め持ち上げる。

「なんだぁ、オレを刺し殺すつもりかぁ? お前ごと? お前も死ぬんだぜ? はったりは止めておくんだな! お前はオレに喰われるんだからよぉ!!」
「僕だって君と心中なんか真っ平御免なんだけど、ねぇ」

 でも、しょうがないでしょ? そう囁いた自分の言葉は果たして生きているうちに妖怪の耳に届いたのか。自分の会話に気を取られ夜が目の前から消えたことさえ気付けなかった哀れな妖怪に、その声は。背後に立った夜に打ち落とされた頭がごろり、と足元に転がってきて、栓を失った首の付け根からは地に倒れきれるまで血が飛散してせっかくの着物を台無しにしてくれた。少し血の滲んだ袖口で、先程舐められた頬を拭い取る。が、なんだか別の意味で濡れた気がして早々に諦めた。

「もう、この着物着れないじゃないか。せっかく雪女が選んでくれたのに、どうしてくれるんだよ」
「そんな犬っころの臭いのするもんはどっちみち捨てられる運命だ。……それより、昼、何くだらねぇ真似してやがんだ…?」
「くだらない? 何の事か僕には見当も付かないんだけど」
「ふざけるな。お前、いつも思っていたが、オレが来なかったらどう戦うつもりなんだ?」
「もちろん、祢々切丸と僕自身で」

 何を可笑しなことを、と昼は哂う。何を心配しているのか、と。だって自分は人間で、祢々切丸は陽の力を有した妖怪のみを斬りつける刀で、喩え自身ごと貫いたとて、相手は傷付けど自分が傷付くはずなどないではないか。その言葉に夜は口を閉ざす。原理としてはそれが正しい、そして夜の考えはあくまで勘や思い付きの類でしかない。反論などし得ない……それがどんなに真実に近かろうとも。

「…とにかくだ、…お前はか弱い人間で、オレに守られていれば良いんだって、何回言ったら分かんだ」
「それは出来ない相談だ、ってことも同じくらい言ったつもりなんだけどね。僕はそこまで聞き分けの良い弟じゃないって君が一番良く知ってるじゃないか」

 そう、自分はか弱い人間のままではいられないし、守られるなんてこと、それこそ出来るはずがないのだ。それは昼が一番良く知っている。

 

 

 

きっかけは些細なことだった。手入れをしていた祢々切丸の刃でうっかり指先を傷付けてしまったことが全ての発端だった。
 血が出るほどでもなく、薄皮一枚切れただけ……それでも、その事実は昼を動揺させるには十分だった。自分の体が人でなくなりつつある、そのことが頭の中から消えなくなっていた。それは何も可笑しいことではなかった、母とは違い、何の免疫もなく、けれども妖怪の血を四分の一有した赤子が妖気の渦に包まれ、いつしか妖気を放つまでに染められ、引き出されてしまった力ゆえのこと。ただそれだけのこと。ただの人であれば、それは一個人の問題として終わっただろう。しかし、昼はぬらりひょんの孫の一人だった。兄はその地位を受け継ぐ三代目であった。
 それは昼が力無い故の決定であり、昼自身も異論は無かった。ところがどうだろう、自分は確実に妖気を得、あまつさえ人の皮を破って妖怪へと変わり始めている。

 抗争が起きる。

 それはただの予感だったが、どこか確証めいた予感でもあった。自分の変化が外に知られれば、兄を良く思わない者が自分を使って害をなそうと考えはしまいか、傀儡として利用されやしまいか――それはこれ以上無いほど恐ろしい未来予想図でもあった。おそらく己の体はまだまだ変化し続けるだろう。緩やかに、けれども確実に妖へと成り変わる。最近では己の体が美味そうだと評価される事が多いのもその一つだと思っている。体であれ、生き胆であれ、その味は『能力』に比例するものだ……。つまり、人間の器からぬらりひょんの妖気が溢れ出していることに違いない。早く手を打たなければならなかった。
 しかし相手が誰とて口に出来ることではなかった。相手を信頼している、していない、という話ではなく、口にしたことは必ずどこかで他の誰かが聞いている気がしてならないのだ。一人が知れば、全てに広がる、秘密というのは存在していることさえ秘密にしなければ守れないものなのだから。
 その中で唯一の救いが、祢々切丸が己に有効であることだろう。皮肉なことだ、その力ゆえに自分の護身刀にされたのに、全ての始まりを知らせ、己が身を終わらせることが出来るものになってしまうなんて。
 自分もかつては人の身であったというのに。

 

 夜はどこかで気付いている。だから一切妖怪絡みのことから手を引かせようとしている。……そして彼は恐れている。昼が偶然を装い、誰も何の疑問も抱かず、且つしょうがないとだけ思って納得する理由を残し、その身を終わらせようとしていることに。
 それを嬉しいと思う。ただ、それに甘んじていては誰も救えない、それどころか傷付けるだけなのである。もう心を傾けてくれている存在を嬉しく思うのにも、人間であることを終えてしまったこの身を嘆くのにも時間はそう多くは残されていないのだから――。

(変わってゆく体、変わらぬままの心)